姉に男子が数人出てくるアニメを見せられて、話も理解できないうちに
「誰が好き?」
と聞かれた。よく知らん話で誰が好きもくそもなかったのだが、この人は家事が得意で女の子みたいだよ、と教えられて(もう20年前くらいの価値観なので)じゃあこの人、と言ったと思う。
女の子が好きだったりフェミニンな雰囲気や家事が得意な男性が好きというわけではなくて、自分が女の子だから「仲間」に近い属性を選んだというだけだった。
漫画や小説が好きだし、いわゆる群像劇と言われるキャラクターのたくさん出る作品が好きだ。
でもそのなかで誰が好きなの?といわれるといつも困る。
好きなキャラクターがまったくいないわけではない。
あれ、私はこのキャラが出てくるとなんだかうきうきするな、と思うことがある。
それはやっぱり好きなんだと思う。
ただそれはすべての作品にいるわけではなく、また好きなキャラクターがいなくても好きな作品はたくさんある。
アイドルの歌を聞いたりすることはあるし、この人面白いなーとか好きだなーと思うこともある。
舞台を見るのが趣味なので、演技がうまいとか歌がうまいとか身体能力が高いとかで好きな役者さんはいる。
その人が出てるなら見たいなあと思うことがあるけれど、それが「推し」なのかというとそれもわからない。
もともとグッズの類いに興味がない。
好きなキャラクターが描かれたキーホルダーも、好きな役者のサインも特にほしくない。
これについては本当になぜほしいのか理解できないので誰かに教えてほしいと思っている。
私にとってほしいのはそのキャラクターが役割を果たすストーリーであり、そのアイドルの歌やバラエティであり、その役者の演技だ。
なんだか周りをみていると、何か好ましいコンテンツに触れたとき、
その中から誰か一人を選びだし、好きだと言わなければならない、と思っているように見える。
そして好きだと言ったら、それをあらゆる方法で表現しなくてはならず、その一連の活動が「オタク」と呼ばれているように見える。
そういう表現を「するものだ」と思ってやっているように、私には見える。
もしかしたら私が何かを好きになる愛情リソースのようなものが足りないだけで、
みんな作品をみた瞬間好きな気持ちが生まれ、それを表現せずにいられなくなるのかも知れない。
私がたまたま、冒頭に述べたような経験から「好きなもの」を「選んで」いると思い込んでいるだけなのかもしれない。
なんにせよ「推し」という概念に馴染めないまま暮らしていたら、
いつの間にか、趣味を通じて誰かと繋がることが難しくなったような感覚がある。
なんだか、「推し」を語ったり描いたりすることがオタクの第一歩めのように見える。
もしかしたら作品に対する深い考察ができれば「推し」がなくても面白いことができるのかもしれないけれど、考察のようなことをするのは結構手間と時間がかかり、あまり頭がよくない自分には重労働だ。
今さらオタク趣味を通じて新しい友達を作ろうとするのが誤りなのかもしれないが、なんだか寂しいなと思う。勝手な疎外感を感じている。
な?女だろ?
そうだよ。羨ましい?