精神科医からサイコパスでないと言われたが、自分のことがサイコパスじみていると思えて仕方ない。
僕は、他者の「顔」を感じられない。
ここでの顔を感じないとはつまり、痛い思いをしている人間を目の当たりにしても、感覚的に生じる痛ましさや、何かしら自分が行動することでこの人を助けなければならないという使命感が、僕には感じられないということだ。
僕は親切ができないわけではない。むしろ、どちらかと言えば他人に気を回すことが多い人間だ。
コンビニやスーパーでは帰り際にお礼を言うし、エレベーターでは開閉ボタンを積極的に押す。
知人の相談事も無下にせずなるべく聞くし、安易に考えや価値観を否定しないよう心がけている。(自分の話に持っていって結果うやむやにしてしまうことはある。それに対して申し訳ないと感じることはできる。)
ただ自分の言動によって傷つけてしまった人が、目の前で悲しんでいる、苦しんでいる、痛みを感じている様を見た時、本当にどうしたらよいか分からない。そして、何かをしたいとも思えないのだ。
痛ましいとか、悪いことをしてしまったとか、そういう罪悪感のようなものも感じられない。後になって、罪の感情が湧いてこないことに対して苦しむことはあるが、それでもまた別の場で似た状況に陥った時に、自身の心の内に「顔」を感じる器官が芽生えるかというとそういうことは全く起こらない。
先日も、僕の前で俯き顔をしかめた人間を目の前にして、何が正解なのか、どう動くことが求められているか、頭の中でぐるぐるぐるぐる、答えなんてあるはず無いのに探し回っていた。
喫茶店で1時間ともに過ごしたけれど、交わした言葉は一言二言で、あとはお互いにずっと黙りこくっていた。
背中を撫でてやろう、それがいいかもしれないという思いが浮かんだが、それが相手のためを思っての考えなのか、ただ自分が相手のために何もやっていないことが耐えがたいがためにやろうとしていることなのか、分からなかった。
ここまでに至る相手との関わりの内容から、自分の態度や行動によって相手を苦しめていることは明らかだった。
そういったある種の客観的情報から推測することでしか、自分によって他者が痛ましい思いをしていることを僕は理解できない。
大学院生にもなって直近で2回も言われた。
周りの知性ある人達に言われるのだから、これは自分でコントロールできない人物への八つ当たり的な用法ではなく、事実として人の心がないように見えるということなのだろう。
いや、本当のところ、その人たちが知性ある人格者であるからと言って、そのように信じる根拠はそれほど強くはないとも思われるのだけど。
人間は感情を伴っているので、常に感情に振り回されて浅はかな言動を行ってしまう余地を残している。
それでもとにかく、僕は思いやりのない冷血人間であるということらしい。
それらの指摘を素通りできないのは、上記の性質や経験から、心当たりがあると感じるからだろう。
他人を慮る心を持っていないと突きつけられ、自分のそれは直らないだろうと自覚する時、人は、その突きつけてきた相手との交渉を諦めなければならない。
そうやって可能性を見限ることが、健全であり、効率的に人生を歩むことにつながり、双方にとって善い選択なのだ。
聡い人、人間関係にまつわる人生経験がそこそこにある人は、そのように勧めてくるはずだし、実際に幾人かに勧められて久しい。
それに納得していない自分は、分からず屋で、幼稚で、現実を見ていない愚かな甘ったれなのだろう。