2018-05-16

「辛かったら逃げても良い」「いじめられたら転校すれば良い」というアドバイスについて思うこと

今日はてブを見ていたら「『病むくらいなら逃げなさい』というアドバイス無責任」ではないかという記事ホットエントリーに上がっていた。

それについて思うことがあったので、書かせてもらう。

[参考記事]

https://news.careerconnection.jp/?p=54001

自分は小さい頃からほとんど全てのカテゴリーいじめられてきた。

小学校中学校高校、塾、部活動と。さすがに大学になるといじめはなくなったが、それでも大学生、社会人となった今も友達ほとんどできない。

いじめに対して先生が悪かったとか、いじめてた人が悪いとかいうつもりは全くなくて、むしろ先生は見つけ次第、(今では問題になるであろう体罰も含めて)叱ってくれたし、そうすると一定期間はいじめられなくなる。

でも結局、いじめられる原因は自分にあったから、すぐにまたいじめられるようになるし、先生も同じ人間から全てを未然に防ぐことなんてできない。

最初は「なんで自分だけ」と思っていたけど、だんだん時間が経つにつれて自分に原因があることは分かっていたから、周りが悪いとか一切思っていないし、むしろ平均よりモラルが高い環境にいたから、この程度で済んだのが幸いというくらいに思ってる。

翻って何が言いたいのかというと、少なくとも自分経験則からしていじめられる人は、(「いじめられる人よりいじめる人の方が悪い」といった比較論は理解できるにせよ)多分にいじめられる要素を普遍的に持っていると思う。

そしてそれは、もしかしたら転校するなり環境を変えることが改善される可能性は多少あるにせよ、確率論で言えば環境を変えても同じ目に逢うことも多い。

さらに同じ目に遭った場合、「環境を変えてもダメだった」という経験ますます自分無能感を高めて、それを受け入れるようになり、さら社会不適合になるという負のスパイラルに陥る。

もちろん命に支障が出るようないじめられ方をしているのなら環境を変えたり、引きこもっても良いが、その環境に異常性がないのにいじめられているのであれば、環境を変えることは自分経験則からして一概に正解とは言い難いところがある。

社会で生きている以上、そういったいじめが起こるのはやむをえないところはあるし、その矛先が自分に向いてしまうことは受け入れるという度量は多少必要だと思う。

まして社会人ともなれば、お金を稼いで自立しなければならず、環境自分好みに変えることはさらに難しくなる。逃げてばかりでは生きていけないし、(むしろ現代共同体から省かれても生きていけるという点で幸せであり、)残念ながらそれを受け入れる経験必要なのかもしれない。

では結論としていじめられている人は何をすべきなのかということについて、これといった答えは持っていない。

ソフトウェア用語で「銀の弾などない」という言葉があるように、パーソナライズ化された苦境の中で、それを一括りに取り除ける行動術がないと思うし、その人自身が色々な試行錯誤をして何とか生き延びていかなければならない。

幸い自分は引きこもらず、いじめに耐えながら、勉強だけは人よりできるようにするという意欲を持てたことで、そこそこ良い大学に通っていじめから脱却できたが、仮に勉強すら放棄してしまったらと思うとゾッとする。

結局のところ「辛かったら逃げて良いんだよ」というのは、銀の弾丸を求めている人々の潜在意識に訴えかける良質なコンテンツということで、実用性はさほど伴っていないのかもしれない。

逃げていても誰もが幸せに暮らせる社会を実現したいという志は全く否定しないが、残念ながら自分たちの生きている時代では実現しそうにないし、まずは目の前にあることを一つずつ対処していく他はないのではないのだろうか。

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