この中に不機嫌という意味を正しく説明できる人はどれほどいるだろうか。
機嫌という言葉の意味はとても曖昧だ。そもそも喜怒哀楽という感情の中にも含まれてはいない。
いつも怒っているようにも思えるが、不機嫌でも笑うことはある。逆に笑っているからといって機嫌がいいとも限らない。
このことが、自分が不機嫌であるということの自覚を遅らせる原因になっていた。
自分の回りにいる人間が、何故か自分に怒りの感情ばかりを向けてくるからだ。
わたしは自分から周りの人間に攻撃をするようなことはしない。しかし、相手からの攻撃があればその反撃は厭わない。
そうして気が付くと、事態が泥沼化していくことばかりになっていた。
それを避けようと人間関係に関する本も山程読んだ。そこには一様に笑顔でいることの大切さが書かれていた。だからいつも自分から接するときは笑顔を心がけた。
それなのに気が付くといつも自分が怒りの対象にされていた。自分が笑顔でいることで舐められているのではないかという疑いまで持った。
わたしは自分の容姿や人格にまで疑いを持つようになった。相槌や感嘆表現、オノマトペの使い方だって試せるものはとにかく試した。
しかし、状況は改善するどころか身の回りには気づくと怒りを溜め込んだ人間ばかりが集まっていた。
自分は自分を変えようと努力をしているのに、周囲が全く変わろうとしないことにストレスばかりが募っていった。
とにかく人と会う事自体が嫌になり、気がつけば一人の時間を欲しがっては、休みの日には部屋に閉じこもって一歩も出ないことが増えた。
それを解決してくれたのは10年ぶりに会った幼なじみの一言だった。
親同士の連絡がきっかけで食事に誘われたのだ。こんな状態で人に会いたくないと思いながらも、気分転換のつもりで誘いに乗ってみることにした。
彼女とは小中高と一緒だったが、引っ越しと就職とで疎遠になってしまっていた。
愚痴を言うつもりはなかった。でも、会えば愚痴をこぼしてしまいそうな不安もあった。
待ち合わせ場所に現れた彼女は、当時と全く変わらない天真爛漫な笑顔で声をかけてきた。わたしは努めて明るい笑顔で彼女の笑顔に答えたつもりだった。
それなのに、すべてを見透かしているかのように彼女は明るい声でわたしにこう言ってきた。
「何その不機嫌そうな顔。らしくないね」
あまりに意表を突かれた一言だった。わたしは笑顔だったはずなのだから。だけど、その不機嫌という言葉はわたしの胸にぐさりと刺さった。
愚痴らないと決めていた気持ちは一瞬で崩れ、目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
その涙の意味は自分でもよくわからなかった。ただ、自分はこんなにも頑張って来たのだ。今まで抑え込んでいたものすべてが堰を切ったように溢れ出てくるような感覚だった。
どうせ自分から笑顔で話しかけても、二言目には相手は文句や愚痴を言い始めるのだ。
それでも頑張って食い下がったこともあるが、結局相手は無神経な言葉を並べるばかりだった。
相手から話しかけてくるときは、決まって難しそうな顔で話しかけられた。
気を遣っているのかわからないが、相手の枕詞が増えれば増えるほど、わたしはそのまどろっこしさに不機嫌になっていった。
不機嫌とはどういう状態なのか。やはり言葉で説明するのは難しい。
喜怒哀楽に近いが、怒っていたり悲しんでいれば不機嫌かといえばそうではない。その逆もまたしかりだ。
心が閉ざされているとか、感情が感じられないだとか、どちらかというとそういうニュアンスのほうがしっくり来るように思える。
もちろん機嫌がいい時のほうが自然と笑顔になりやすい。そう考えてみれば順序が逆なのだ。
笑顔の人をみて機嫌がいいかどうかはわからないが、機嫌がいいかどうかは笑顔以外にも様々な様子から伺うことができる。
それに気づいてからというもの、上っ面の笑顔は捨ててとにかく明るく前向きに物事を考えるようにしてみた。
不機嫌の原因は相変わらず山のようにあるが、そんなことで自分の機嫌を悪くしていることが馬鹿らしくなってしまったのだ。
でも、まだあれからまだ1週間くらいだが、身近な人間から明らかに笑顔を向けられることが増えてきた実感がある。
聞けば、彼女は大切な人を鬱による自殺で亡くしてしまったのだという。
あの時自分が彼の笑顔の向こう側にもっと気づくことができていれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。そんなようなことを言っていた。
わたしは彼女に救ってもらったのだ。次はわたしが彼女を支えてあげる番だ。
そのためにこんなつまらないことで悩んでいる場合ではないのだ。
吹き飛べ不機嫌!わたしの前向きを止めてみろ!