いきなり極論なんだけど、俺、万物の魂って同じものが入ってると思うんだわ。
実の話、生物から何から関係なく、この世に存在する万物すべてが俺なんじゃないかなって思うんだよね。
宗教臭い変な話でごめんね。俺自身も変なこと言ってる自覚あるよ。
でも例えばさ、突然自分の中に前世の記憶が蘇ったとしたらどう?自分の中に甦えってしまった記憶を他人のものだって言い切ることができる?
っていうのは、誰だって忘れていたことを突然思い出したりしたりすることがあるわけでしょ。
その記憶に対しては、それを疑うようなことはしないはずだよね。
でも、思い出すまではその記憶って存在してなかったことと同意といえるわけじゃない。
そしたらさ、その記憶が事実だったかそれとも後から作られたものかって、誰も判断ができないはずだよね。
記憶が多少捏造されるものだっていう自覚は誰もが持っていると思うよ。
でもそれは大人になってからの処世術のようなもので、子供の頃は自分に存在した記憶って事実と信じて譲らなかったと思うんだよね。
極端な話、記憶が間違ってことに気づくのってそれなりに大人になってからだったはずなんだ。
なのに記憶は嘘をつく。ときに記憶していたことが自分の都合によって歪められてたりすることだって容易にあり得るんだよね。
ってことはつまりさ、自己を形成するはずの記憶って間違ってる可能性があるということなんだ。
それって、記憶の正確さよりも、その記憶が自分の中にあるって思い込むことにこそ自己の連続性があるってるってことなんじゃないかな。
じゃぁさ、なんでみんな自分は自分で他人は他人かって思うかというと、そこに記憶の連続性がないからだと思うのだよね。
例えばさ、自分の中に蓄積されている数々のノウハウのうち、それを実体験と勉学による知識と全てを切り分けることって可能なのかな。
何となく自覚できているかもしれないけど、でもそれって、色々な経験を経ていくうちにどんどんと曖昧になっていくと思うんだ。
読書や勉強というものがひとつの自己における経験であるというのであればそうなのかもしれないけど、でも、読んだだけのはずのできごとをさも自分が経験した出来事だって思いこんでるかもしれない可能性を否定することは難しいはずだよね。
極端な話、現実と全く差異がない夢を見てしまった時、それを夢の記憶だと断言できる要素ってないと思うんだ。
少なくとも、今の世の中の技術では人の記憶を人の中に体験として流し込む技術はない。本や映像が追体験をもたらしてくれることはあるけど。
もし近い将来、記憶に対する研究が飛躍的に進んで記憶そのものの出し入れが自由になった時、自己と死に対する概念って大きく揺らぐと思うんだよね。
まさに攻殻機動隊の世界じゃないけど、自己を定義づけるもが何かっていう価値観が崩壊する瞬間になるんじゃないかな。
でも、そうして記憶の連続性さえ自覚することができれば、魂が継続していることって自覚できることになると思うと、永遠の命ってもう目の前まで近づいてきてるんじゃないかな。
あぁあ。どうせなら自分の記憶を記録して、未来の人間に埋め込まれることで自分の命の連続性を体感したかったなぁ。
ちょうありがち わかいこなのかな
「日本人の平均ですよね。全く特徴がありません」 鈴木はその言葉を内心快いとは思えなかった。 まるで自分が特徴なくフラットで、無味乾燥としたコンクリートのように思えたからだ...