よく事案が発生するたびに、ネットでは「もう子供に声をかけられないな」といった声があがる。
「もう子供に声をかけられないな」は、単純にもう子供に声をかけられないなと言っているわけではなく、言外に批判の意味を含んでいる場合が多いと思う。
この話しは昔から何週もしていて、今でこそ当たり前になった「知らない人についていってはいけません」なんかも昔は議論になったりした。
アンチ派の声には、「地域のふれあいが云々」「子供は知らないだけで大人同士はしってるかもしれないじゃないか云々」「本当に大事な用事だったらどうするんだ云々」などがあったが、最終的には「いや、それら子供は判断できないから危険なわけで、知らない人についていくのはどう考えてもデメリットのほうが多すぎでしょ」で落ち着いたのだけど、声かけ事案も同じような事がいえる。
つまり、子供には大人がいい大人なのか悪い大人なのかを判断する能力がないので、いったん一律で拒絶しておいて、信頼できる大人に報告するのが、ベターだということ。
怪しいかどうかは大人が判断するので、そういう意味では事案が発生するたびに「これは怪しくないだろ」「これは怪しいだろ」と周りが言い合うのは、ある意味妥当ともいえる。ただし、「怪しくないのに事案あつかいするのはよくない」という意見の正当性はなくなるともいえる。
あと、ネット民には精神年齢が低い人がごく一部いて(君がそうだとは言ってないよ)、ごくごくまじめに
って聞いてくる人がいたりする。たまにだけどね。
まともな大人は(何をもってしてまともとするかはこの際置いておくけど)、困っているときに子供に助けを求めたりはしない。
どうしても子供しかいなくて声をかけるときは「だれか大人のひと呼んでくれる?」と声をかける。
そうでないなら、どういうつもりで子供に助けを求めたのか知らないけど、不審者扱いされても全然不思議ではない。
「そもそも社会が相互監視して、怪しい奴を密告する社会にするのはよくない」「怪しければ警察が即介入しやすくなるような社会にするのはよくない」
これはある程度もっともなんだけど、警察の権力が大きいと困る人達に支持されやすく、 全部がそうだとは言わないがそういう人達の中にはあまり関わりになりたくないような怪しい信条をもった人達や団体だったりして、そうなってくると後ろ暗いことでもあるのか本来の主張を出来るだけ目立たせないようにして、「地域のふれあいがどうの」「声かけが作る明るい社会がどうの」といったように、(本来の主張を隠して)感情に流される部分ばかり主張してくるので胡散臭い。
で、実際、休日に子供を公園で遊ばせていると、たまにいるのよ。怪しい奴。
どう怪しいか、はっきり書いてしまうと、見ただけで知能障害者だってわかる奴。
いや、人を見かけで判断してはいけませんだとか、外見的特徴から人間の知能障害レベルがわかるほどの医学を俺はもっているだとか、知能障害者を不当に差別するつもりだとか、そんな話しをしたいわけじゃないのよ。
もちろん、知能障害者は全て怪しいとか、そういう話しでもない。
ただ、子供を公園で遊ばせていると、たまにいるのよ。二回言ったけど。見ただけで怪しい奴。
どっからどうみても、罪を問えない感じのお方なのに、人権だけはある奴。そして、女児が一人になるのを見計らって、べたべたくっついてくる奴。親が離れたときを狙う、その知能だけはある奴が。
子供を遊ばせておく公園に、何か様子が違う奴がうろうろしとると思ったら、どうも女児のパンツが見える方向に常に移動してて、一人になった子供がいたら体中を触りまくりにくる奴。そして親が近づいてきたらすっと離れて、また他の子供を狙う奴。そんな奴が。
こういう人に、子供が被害にあっても、相手に罪を問えないのは野犬に襲われたのと一緒だけど、相手は野犬よりも知能と人権だけはあるので、警戒せざるを得ない。
別に、周りも、その障害者がもし罪を犯しても罰せられないのはおかしい!とか、何かする前に牢屋にぶちこんどけ!とか言いたいわけじゃなくって、お互い事情はおありだろうから、こっちはこっちでも注意して見ときますね、っていうだけ。
で、こういうのが事案として公表されるわけ。
つまり、事案発生は、「近所に盛っとるガイジがうろついとるから、小さい子供おる親は気を付けて」の隠語だと思ってくれたら。
そういうふうにはっきり言うと、少し表現がきついので、ぼかして言ってるから、何かちょっとしたことで他人を不審がる相互監視社会と警察権力介入のデストピアを想像しやすいけど、そうじゃないので。そっとしてあげといて…ってのがある。
「何週も」→「何周も」