アイデアを創造するための話し合い手法として「ブレインストーミング」というものがありますね。
言葉は知られている割に、その正確な用い方は意外と知られていない側面がありますが、ブレインストーミングを強力なアイデアツールとして用いるために必要な手法の一つが「人のアイデアに積極的にただ乗りする」です。つまり「特に断り無く引用すること」「人の意見を自分の意見のようにしちゃうこと」を許可する。
これによって、集団で出すアイデアの質は確実に上がります。無断引用を許可することが良い結果を生むケースがあることは、私も同意します。
たとえば、某アルファブロガーさんのケースを考えてみましょう。たとえば「ちき○ん」さんとか。
彼女は書いた文章の独特な語り口や切り口で話題を呼び、多くの読者をつかんできました。結果、そのペンネームで本を何冊も出版するに至っています。
さて、彼女の書いた文章が、パクリおっけーな世界で、片っ端から無断引用(出典不明記)で大手のサイトに掲載されていたら、どうなっていたでしょう? 彼女はたぶん、有名になることもなく、そのうちパクられることに嫌気がさして、記事を書くことをやめてしまっていたのではないでしょうか。
書くことによって、何らかのフィードバックを(場合によっては利益を)得る、という点に関して、彼女の「閲覧無料のブログ」と、無名の人のツイートの間に、何か差があるでしょうか。
そう、一見それらは無料に見えていますが、「名声」自体も商品となる資本主義社会下においては、それらは明らかに「商品」として供されているのです。
そのとき、「無断引用」は、単なる「窃盗行為」となります。書くことによって得られる何かを書き手から奪うことで、書き手に損害を与え、優秀な書き手のモチベーションを奪い、ひいてはその書き手が将来書くはずだった(そして社会にとってとても有益だったかもしれない)偉大な文章を永遠に失わせるかもしれない……まさに社会的悪以外のなにものでもありません。
最初の例と、あとの例。何が違うのでしょうか?
それは、同意の有無です。最初の例は、一見「無断引用」のように見えますが、実は、「ブレインストーミングに参加する」という時点で、参加者は自分の意見がどう扱われるかということについて暗黙の了解をしています。自分の意見を「公共に供する」ことに同意することで、ブレインストーミングは成り立っている。しかし、後者は、自分の意見を「公表」はしても、それを「公共に供する」ことに同意しているわけではありません。それは、その人がIDなりペンネームなりの紐付きで発言していることからも明らかです。その人は「私の意見を公表」しているだけであって、「誰が使ってもいい意見」として喋っているわけではない。いや、匿名掲示板(たとえば増田や2ch)であっても、それは同じです。判例でも、たとえば2chの書き込みを勝手に書籍化したことで訴えられ、負けたという事例がありました。現代社会において、あらゆるテキストは原則として「値札のついた商品」であり、それが「無断引用」が許されない理由です。
ただし、一方で「インターネットの自由こそがあらゆる価値の源泉であり、インターネットから利便性を得ているあらゆる利用者は、また、インターネット上に送り出すあらゆる情報を、利用者の自由な利用に供することに同意すべきであり、特に明確な意思表示の無い限り(場合によっては、意思表示があっても)、あらゆる情報は自由にもちいられるべきである。それがインターネットの唯一の掟である。」と考える狂信者な方々(賛同者が少ないかもしれなくても、それはそれで一つの理屈です)もいますし、そもそも資本主義自体を私は認めない、という意見もあるでしょうから、上記の私の意見に納得されない方も一定おられるとは考えます。ただ、資本主義社会に生きて、それを認める立場であれば、逆にどのようにして「無断引用はオッケーである」という論理が成り立つのか、説明する必要があるのではないでしょうか。