運動を習慣的にするようになった
読める字が書けるようになった
挨拶をするようになった
学生時代に親や教師から何度となく「こんなことも出来ないのはお前が社会を、他人を、人生を、人間というものを舐めているからだ」という罵倒を受けてきたことが、今は普通に出来る。
それは自分が社会人になってから少しずつ図書館で小学生レベルの本を借りて勉強し直したおかげであり、私を呪ってきた奴らが言うような「社会を舐める」をやめたからではないと断言できる。
学習意欲を削ぐような言葉を投げかけられ、彼らの言葉に従うことが自己肯定感を大幅に下げる行為につながるように誘導されてきた呪いがとけたおかげだ。
もし当時の私が彼らの言葉に素直に従ったらそれは自分で自分の全人格を否定することにほかならない。
「字が汚い奴は人間としても薄汚れている」等という意味不明な差別意識にまみれた狂人の側に与するわけにはいかないのだ。
それが通るならこの世界の人間がありとあらゆる要因によって全人格を否定されるべきであり、たまたま否定しやすい理由を見つけただけで相手の人間性を指図するには奴らだってそうやって否定されるべき悪癖の塊なのに。
息が臭い癖にツバをつけてプリントを配ったり、イケメンにだけ猫撫で声で話しかけて何でも甘やかしたり、女子が生理不調を訴えるとズル休みを穿たうくせに自分は頭痛が酷いからといってすぐ休んだり、「字が汚いから人間として駄目」と同じレベルで否定されるようなことをいくらでもしておいて、改善する気もなく堂々と生き延びてやがる我田引水のカス共の身勝手な暴論になんでおもねってやらねばならんのだ?
学校という牢獄を飛び出てから10年程して、私はその頃にかけられた呪いの数々からようやく解き放たれることが出来た。
「字が汚いことが人間性を貶める訳ではないが、字が綺麗な方が自分のメモを後で読み返すのが楽になって便利だから字を綺麗に書こう」
「運動能力が人間の存在価値の全てではないが、長く歩けたり重いものが簡単に持てると便利なことがあるから体力はつけておこう」
そういったポジティブで前向きなプラス意識を持って訓練に当たるようになってから、今まで苦手だったことが出来るようになるのがだんだんと楽しくなってきた。
「この行為を改めようとしても、それは全人格の自己否定ではなく、単に伸ばしておきたかったスキルの取りこぼしをやり直しているだけだ」と思えるようになったことが、私に学習をやり直す意欲や機会を与えたのである。
「他人の生き方に口を出す時に全人格を否定してはいけない」というのは非常に重要なことのようだ。
少なくとも、私はそういう事をされると完全に改善への意欲を失うらしい。
年齢的にも自分が後続に物を教えることが増えてきた。
周りと話していても「パワハラとして訴えられるのが怖いから気軽にゲンコツとか出来なくて不便だよね」なんて愚痴を聞かされることも出てきた。
そうじゃない、そうじゃなくて、そもそも能力の有無を理由に相手の人格を否定してたら伸びるものも伸びなくなるんだよ。
今はまだこのことを人に上手く伝えられる所まで行ってない。
単に自分がなんだかんだで生真面目であり、同時に反抗心の強い人格だったからそうなだけかも知れない。
まだ仮説の段階だ。
人に偉そうに「いやいやそもそも、人格否定で気軽に相手の気を引き締めるとか単なる妄想だから」なんて言うにはまだ早い気がする。
あくまで自分が人に物を教える時に相手を否定しないようにするまでだ。
それで相手から「舐められ」たとき、どうしたらいいのかはまだ思いつかない。
まあ単にメリットとデメリットを説明して相手に選択させるだけでいいんじゃないかって気はする。
だけどそれを「増田さんって上から目線で「俺がいつも正しいからさ、結局」みたいな態度取ることありますよね」って思われたらどうしよう……