生まれたくなかった。毎日生まれたくなかったことで頭がいっぱいだ。
私が生まれたのは1990年代後半のいわゆる就職氷河期時代だ。就職氷河期世代といえば今はアラフォー世代ということになるが、この時期に20代前半だった世代は時代の波に煽られ新卒就活に失敗し、20年経った今でもまともな雇用にありつけず不安定な生活を強いられている層が他と比べて多数存在するのは周知の事実だろう。そんな閉塞感いっぱいの時代に、何をトチ狂ったか私は誕生させられてしまった。
幸いにも今は売り手市場であり、就職氷河期などと揶揄されることはなくなった。こと新卒就職については生まれた頃より何倍もマシになっているに違いない。しかしそれはあくまで結果論である。もし状況が改善せず、景気状況が芳しくなかったがために今のアラフォー世代のような辛く苦しい就職を経験し、結果として職にあぶれ不安定な生活を甘受しなければならなくなったとしたら、一体どう責任を取るつもりだったのだろうか。「仕方ない」「運が悪かった」で済まされるべきことだろうか。
問題は景気状況だけではない。顔や性格、ある一定の能力のような個人に備わった属性的なものから、親や実家の太さ、周りの人間などの環境的要因まで本当に様々な要因で不幸な人生を歩まざるを得なくなる可能性がある。もちろん中にはそういった不利な要素を克服し、幸福な人生を切り開けた人だっているだろう。しかし、それはたまたまその人に能力や努力する力、環境などが存在しただけであり、克服できなかった人が甘えているなどと批判されるべき理由にはならない。克服するだけの力を持ち合わせなかったのもまた、本当に偶然に過ぎないからだ。
しかしこと生命の誕生に関して偶然はない。予期せぬ妊娠などの偶然はあり得るが、出産までの過程に必ず「産む」という意思決定が介在するからだ。上記で挙げたような偶然の事象により辛く苦しい人生を歩むことを強いられるかもしれないにもかかわらず、出産の意思決定においてそれらが十分に検討されているとはとても思えない。不登校からの引きこもり、ニートになってしまった子供を「お荷物、迷惑だ」などと言ってはばからないテレビの中高年ニート特集の取材に答える親、いわゆる「陰キャ」であるがゆえに健全な人間関係の形成の失敗およびそこに端を発する人格形成の歪みが生じたオタクになってしまった子供を「気持ち悪い」などと表現し友達と笑い合っている親などなど、子供がそうなってしまったことについて少しも悪びれない親たちを挙げれば枚挙に遑がない。その人たちの不幸は本当に偶然やってきたものだし、そもそも生まれなければその人たちだってそんな不本意な人生など歩まなくて済んだのに。
「育ててもらったくせに何様のつもりか」と言う人がいる。何か頼んだ上での不義理であれば「〜してもらったくせに」と表現するのは正しい。でも人生は違う。よく言われることだが、誰も産んでほしいなんて頼んでない。はじめから生まれなければこんなことにはならなかった。いくつもの不利な要素を偶然にも背負い突如として人生ゲームに参加させられた上、結果としてプレイングが下手くそだと出資者に偉そうな顔をされるとは何事か。出資者たるもの、リスクは当然織り込み済みではないのか。「勝手に産んだくせに欠陥品が出てくると文句をつけるとは何様のつもりか」
注意:こういうことを書くと、必ず「自分勝手なわがまま」などと偶然にも幸福な人生を歩めた人々からのありがたいご指摘が飛んでくるが、上記文章の意味を何一つ理解していないので出直していただきたい。また、幸福な人生を歩んでほしいから産むんだ、といった主張も考えられるが、ここではそれに失敗した場合どう責任を取るのかという話をしていることに留意されたい。
これは本当によくわかる。俺はそれより早い生まれで新人教育が担当で。 何人も育てたのが自慢。(だから文章や説明が得意) だけど結果はその通り、みんな潰されたかDQNのパシリに...