「ミクロ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ミクロとは

2008-01-24

戦争映画で面白いと思った2本

「第十七捕虜収容所」と「西部戦線異状なし

戦争映画ってミクロな視点での戦場の狂気を描いてそこから戦争批判に繋げてるものが多くて正直食傷気味だったんだがこの2本は面白かった。

第十七捕虜収容所捕虜収容所の生活を面白おかしく描いてその中で人の知恵勇気を魅力的に表現してた。

西部戦線異状なしは「まともな主人公」「まともな人たちが殺し合いをしてしまってる戦場」「現場なんて想像せずに戦意高揚に熱をあげてる一般市民

この対比がしっかりしてて一言で言えばわかりやすかった。そのわかりやすさが正しいかとか良いものかってのはともかくとして。

誰か比較的わかりやすくて面白い戦争映画教えてください。

2008-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20080103150731

いや純粋マジレス

とっかえひっかえのセックスを問題にしてる時点であんたが意識しようがしまいがそういう目でしか見られない。

避妊性病予防とは近いけれど違った問題だもん、それ。

オーラセックスでも性病に罹患するからゴムフェラにしましょう、ならまだギリギリで話はわかるけどな。

それでも性病危険があるから沢山の人とのセックスを楽しむのはやめましょう、って世の中つまらなさすぎるだろ。風俗もほぼ全否定じゃないの。

当然危険性を理解することは必要だとは思うけどね。君はじゃあそのリスクがどの程度なのか、って話から始めようとすらしてない。

君のかつての友人の行動というミクロレベルで語ってみれば交通事故危険だから外に出るなって言い分に近い。

政府というマクロレベルで語るとしたら感染症の特性ってものがあるからその危険性を呼び掛けるべきだってのは理解出来るよ。

2007-12-31

堕落生活…勉強本当にできない…

さて、最近の俺の生活といえば

正午ごろに起きてニコニコ動画づくしそして寝るのが深夜4時という生活を繰り返しております

もちろん勉強なんてしてませんよ

今日エルフェンリートを全話見たくらいですから

勉強やろうとしていてもやれないものなんですよ

次回のネタエルフェンリートにしましょうかね…


さて、今日ネタは前も予告してた内容にします

予告しておきながらやらないということがスタンス化しつつあるのを少しは変えなきゃねw

さて、世の中には同志社に行きながら俺は負け犬だとほざくKYな人がいるのですが

考えてみれば今は大学全入時代だといわれるくらいなのになぜ全員大学に行かないのでしょうか?

そのなぞについて少しばかり調べてみました

吉川徹の「学歴と格差・不平等」という本を少し読んだのですが

この本には学歴格差について親の学歴子供学歴相関関係について書いてある章があるんですね

その中のデータとして書いてあるのが

1親が中卒の場合、子供大卒であるのは13.9%

2親が高卒の場合、子供大卒であるのは38.9%

3親が大卒の場合、子供大卒であるのは66.4%

というデータなんです

これは1995年のデータですから今は違うだろという意見もありますが、実際社会人にしめる大卒の割合が1975年は47.2%、1995年に51.3%2002年に50.3%であって

高度成長期以降、大卒の割合はあまり変化がないということが立証されてるそうです

さらに深く調べていくと上記の2の割合も40%で推移しており3の割合も67%あたりで推移しているそうなんです

大学が増え、少子化で入りやすくなった今でさえそうなのはおかしいと思いませんか?

特に2のパターンの割合が増えてもいいはずです

その謎を解くためにある説が提唱されることになるのです

それが学歴下降回避説だそうです

人はいろいろな事情でまず、自分が大学に進学をするか否か、そしてどこの大学に進学するか否かを決めますよね?

よく2chで言われることは大学偏差値、自分の学力、そして家庭の経済状況などの個人個人のミクロ的な視点ですが

この本ではそれは学歴の問題を考える上であまり重要ではないと書いています

つまり、人が自分の学歴について選択する時、潜在的に何が強く影響するかというと親の学歴職業階層なのだそうです(※親だけではなく兄や姉ということもあります)

上のデータから考えると親(兄や姉)が大卒の場合その子供(弟や妹)はそれと同等かそれ以上を求めて大学進学の意欲を高めるそうです

逆に親が高卒の場合子供高校卒業によって相対的下降が回避され、差し迫った欲求が発動しないそうなんですよね

このようにより高い大学に行きたいという意欲を持つかどうかは親がかなりの影響を与えるそうなのです

また、近年はこの傾向がより顕著であると述べていますね

親の階層が低い生徒ほど脱学校的な要素から自尊心を獲得、つまり学校での競争を降りて自尊心を獲得する

そしてゆとり教育は意欲のない人を無理に勉強させたりしなくなったことからさらにこの影響を拡大したそうなんです

考えてみれば確かにそうかもしれません

俺の親は高卒母親にいたっては因数分解もできないほどなんですが

そういう環境に育ち、中学までは自分が行きたい大学名すら知りませんでした

塾の講師をしていて驚くのは、今は小学生ですら自分は??大学に行きたいなんて言うんですよ…

そして「何でその大学なの?」と聞くと

親がその大学卒業生だからだそうです

大学受験のころ志望校とかを名大とか馬鹿なこと書いていましたが、受験勉強がつらくなってくるとなんでこんなことまでして必死に偏差値の高い大学目指そうとしてんだろう?

って思うようになるんですね

そしてその時に支えになる大きな根拠がないんですよ…

俺の場合その理由が、ただ学校貢献するだけでしたから

もちろん高い偏差値大学の方が就職で有利なのはわかっていますが、実態が見えないし、親が高卒体験談も聞けない状況では「絶対いけるように勉強しなきゃ」という根拠として成り立たないんですよ

そう思うとやはり親が大卒とかだと影響ありますよね

「俺は??大学だからダメだったんだ」という話も聞けるだろうし

俺の場合親は「大学行っても私たちは大学について全然しらないから自分でしっかりやりなさいよ」しか言いませんでしたからね

学歴について話なんてしたことなんて一回としてありません

そのような中で勉学意欲を維持するのは難しいものですよ

よっぽど勉強好きでない限りね

この世の中は格差社会とは言いますが教育面は「意欲格差」ということではないでしょうか?

いくら自由になったとはいえ、眼には見えない「意欲」という壁が格差を生み出してるのではないのでしょうか?

あと言いわけかもしれませんが…

2のパターンはFラン含めて40%だから準マーチレベル学歴ピラミッドの上から7%)の南山だとかなり珍しいのかな?

名市受かるレベルってこの40%の中でもどれくらいだろう?3%くらいなのかな

名大なんて行ってたら奇跡レベルだったかもね、2のパターンでたぶん0.5%くらいだからw

今考えたら行けるわけねぇよな、高校時代の俺は相当馬鹿だな…

出自から見れば俺は名古屋商科大学くらいが相当レベルだろうから






長文スマソ<(_ _)>

2007-12-25

学歴主義批判について

学歴主義批判について(1) ー対象の限定ー

社会において実質的に機能している「学歴主義」って、会社書類選考上のスクリーニングだけでしょう。

面接過程にはいったら、学歴よりももっと生の情報がたくさんあるんだから、人事担当者が合理的であるかぎりは、非学歴的な情報のほうが重要視されるものとおもわれます。でなければ、そんな会社はすぐにつぶれてしまう。

いわんや入社後のキャリアをや。「能力がないのに学歴だけはあるひとばかりが昇進していく」というのはルサンチマンゆえそれが目につくだけで、それが大勢であるとはとてもおもわれません。でなければ、やはり、そんな会社はつぶれてしまうでしょう。

商売人というものをあまりなめないほうがいい。

学歴のことでいじめられた、とか、そういう話もあるかもしれませんが、そういう社会意識上の対立はミクロ政治的対決によって乗り越えていくしかないわけで、ここでは、給料ポストといった客観的地位を決める上で学歴というものが効いているかどうか、ということだけを考慮にいれます。

ついでにいうと、それが学歴によって決まっているとしても、それだけでは問題になりません。問題となるのは、そうした選抜が、社会的に見て非効率であったり、不公平であったりする場合のみです。

学歴主義批判について(2) ー問いの設定ー

ここでは「社会において実質的に機能している『学歴主義』って、会社書類選考上のスクリーニングだけ」だということにして、この点についてのみ考えてみましょう。これ以外の場合については今回は考慮しません(たんなる予想ですが、これ以外の問題はすべてルサンチマンによる色眼鏡でしょうね)。

この場合、学歴主義批判の第一答弁はつぎのようなものになるはずです:書類選考上のたんなるシグナルにすぎない学歴候補者を切り捨てるなんてけしからん!

この主張に対する反対答弁はこうなるでしょう:入社時にシグナルとして使われていることなんてはじめからわかってるんだから、そのシグナルを身につけられるようにがんばっておけばよかったじゃない。

話をイメージしやすくするため、ここでは「書類選考上有利なシグナルを身につける」=「良い大学にはいる」ということにしておきましょう。

この反対答弁を生き延びられる学歴主義批判はほとんど存在しないと思います。「学歴重要だなんてことははじめからわかりきっていたことなのに、なんでそれを手に入れておかなかったの」。そうではないですか?

この反対答弁を生き延びることのできる学歴主義批判はふたつだけだと思います:(1)入試で必要なスキル社会人に必要なスキルはちがうのに、入試で人々を選抜するなんて、社会的に見て非効率だ、(2)お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめる。これは不公平だ。

問題は、かくして、「良い大学にはいる上で社会的な非効率性や不公平は生じているか?」という問いへと移ることになります。

学歴主義批判(3) ー非効率性についての考察

現行の大学入試社会人になって役立つスキルをもった人間を選抜するうえで役に立たない?そこには社会的な非効率性が存在している?

それは正直わかりません。もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれません。そんなの、誰にもわからないでしょう。

とりうる方策は、大学教育目的(ここでは「よい会社にはいれること」になってしまうわけですが)の達成スコアがその大学への入学の難易度に反映するような仕組みをつくることだけでしょう。実際の具体的な選抜の方法は各大学が試行錯誤のうえ見いだしていくしかありません。

結局は各大学目的達成スコア歴史がその大学ブランドを決定し、その大学への入学難易度を決めるのです。そう考えれば、すでに何十年ものモニタリングをへて形成されてきた大学ブランドには、おおむね一定の有効性がある考えるのが妥当でしょう。学校教育の成績と社会でのスキルがまったく相関していないとすれば、この制度が何十年にもわたって存続しえたはずがありません。

もちろん、「もっとよい制度」はありうるとおもいます。それは否定しません。事実世界の選抜システム日本とおなじわけではありません。しかし、そうした批判は、(1)「もっとよい制度」を具体的にデザインして、(2)その制度が優れたものとなりうる根拠を論理的にしめしたうえで、(3)何年、年十年かそのシステムを走らせることによって実績をつみかさねる、ことによってしか現行の制度にかわることはできないでしょう。そんな途方もない!と思われる方は、現行の選抜制度はこのプロセスを生き延びてきた制度なのだということを忘れるべきではないでしょう。

現行の選抜制度の非効率性についての結論はこの通りです:非効率かもしれないけど、非効率じゃないかもしれない。すくなくとも何十年も存続しているんだから、そんなに悪くはないんだろう。文句があるなら、もっといい制度をデザインしてからにしてくださいよ。

学歴主義批判(4) ー不公平性についての考察

最後に、もっとも重要な点ですが:お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめる、というようは不公平は存在しているのでしょうか?もしこれが本当だとすれば、学歴主義は間違いなくけしからん制度です。機会の平等という、近代社会の基本原則に抵触します。

この文脈でよく引き合いにだされるのが「東大学者の両親の平均年収は1000万円をこえている」というはなしです。Presidentなんかでもよくみるはなしです。

この話を聞いたときにいつも思うのが次のようなことです:それって疑似相関なんじゃないの?ほんとの要因は遺伝で決まる能力なんじゃない?「親の能力高い→親の年収高い」、「親の能力高い→子供能力高い→子供学歴高い」、という因果関係存在しているだけで、「親の年収高い→子供学歴高い」というのは疑似相関であって、因果関係ではないんじゃないの?(疑似相関の意味がわからない人はググって下さい)

だから、被説明変数を「大学志願率」として、その決定要因を探りたいのであれば、最低限、「親の年収」にくわえ、「親の学歴」をいれるべきでしょう。このモデルで「親の学歴」が有意で影響大となる一方、「親の年収」の影響力が下がるのであれば、その結果は、「子供学歴を決めるのは親の年収だ」という主張があやまりであることを支持するものになります。

また、「親の年収が高いほど子供教育お金がかけられるのでいい大学に行けるようになる」と主張したいのであれば、そのままずばり「○○時点教育投資額」のような変数も決定要因にいれてみればよいのです。

お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめるのは不公平だ」と主張したいのであれば、最低限これぐらいの論拠はしめしてほしいものです。

そんな論文ないものかな?と思い、google scholarで「教育 学歴 年収」といれてみたところ、そのままずばり、次のようなレポートがでてきました。

大学進学行動の教育経済学的分析

これは、子供大学志願率を

(1) 自分が大学に進学するとどれぐらいのリターンがあると考えているか(主観ベネフィット

(2) 保護者年収(客観的資金調達能力

(3) 保護者子供の進学にかかる資金を負担できると保護者が考えているかどうか(主観的資金調達能力保護者

(4) 保護者子供の進学にかかる資金を負担できると子供側が考えているかどうか(主観的資金調達能力高校生

(5) 中三時点までにどれだけの教育投資を行ったか(中三時点既出教育投資額)

(6) 保護者の最終学歴

(7) 性別

ロジスティック回帰分析したものです。

結果は次のようなものだったようです:「すべての経済変数が、大学進学希望に関して予想される形で影響を及ぼしていることを意味している。また同時に、親学歴を含めると大学進学行動の予測を7割強の確率で行えることを表している。また、標準化したロジスティック回帰係数に注目すると、進学行動を強く規定しているのは、保護者最終学歴(父親)、主観的資金調達能力保護者)、性別、主観的資金調達能力高校生)、主観ベネフィット、中三時点既出教育投資額、客観的資金調達能力の順となっている」

要するに、父親の学歴と、親が資金を負担できると考えているかどうかという主観的評価の影響がもっとも大きく、中三までにどれだけの教育への投資が行われたか、親が客観的にみてどれだけの資金負担能力をもっているかは、もっとも影響が小さかった、という結果になったわけです。

この結果をうのみにするわけではありませんが、これを見る限り、「お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめるのは不公平だ」、という主張はかなり論拠があやういということになります。

学歴主義批判について(5) ー結論ー

今回はまず、対象の範囲を「社会において実質的に機能している『学歴主義』って、会社書類選考上のスクリーニングだけだ」という風に限定しました。つぎに、「書類選考上のたんなるシグナルにすぎない学歴候補者を切り捨てるなんてけしからん!」という「学歴主義批判派の主張」を、「入社時にシグナルとして使われていることなんてはじめからわかってるんだから、そのシグナルを身につけられるようにがんばっておけばよかったじゃない」というリーズナブルな批判にさらすことで「良い大学にはいる上で社会的な非効率性や不公平は生じているか?」という問いに変換しました。そのうえで、「現行の大学入試制度は非効率か?」「現行の大学入試制度は不公平か?」という点についての若干の考察を加えた結果、「おそらく、非効率でもなければ不公平でもないだろう」という暫定的な結論がみちびかれました。

多くの点で不十分ではありますが、すくなくとも理にかなった論旨の展開にはできたのではないでしょうか?

http://anond.hatelabo.jp/20071224235855

そういう側面はあるね。自分は、その基準が100個なら生産力の向上でなんとか達成出来るかもしれないけど(そしてそういう社会には肥満なんて影響もついてくるけど、人類飢餓との戦いの歴史が長かったので、肥満に対応する遺伝子はないとかそういう話ね)、今の日本社会では基準が絶対量じゃなくて他人との比較になってしまっているのが根本的な不幸だと思うよ。

あと他の先進国を見るに、これは絶対超えられない問題でもないと思ってる。とりあえずマクロにはそういうことだけど、ミクロには先に気がついた奴が勝ちだ。

2007-10-30

まとめよう。学歴と化粧の話は似ている。

心根の話

http://anond.hatelabo.jp/20071030173444まちがえた。こっちhttp://anond.hatelabo.jp/20071030173741

そうだね。

  1. 絶対的な頭の良さ(そんなものがあるとして、の話)
  2. 勉強しなきゃ!」と思う気持ち
  3. いい大学に行った

は別の話。

これと

  1. 絶対的なキレイ(そんなものがあるとして、の話)
  2. キレイになりたい!」という気持ち=お化粧
  3. 社会的にモテる

は似ている。

たしかにそれぞれは、個人レベルでは独立。でもマクロの視点で見れば因果関係はある。んで、

  • 対人判断として問題となるのは1.、だけど「あるとして」と書いてあるとおり、その評価は実は文化的なものなので、ミクロな文化ごとに「頭の良さ」「キレイさ」は違ってくる。
  • そうなると修正可能性、伸びしろとして評価される2.はすごい大事。
  • でもそれは目に見えない。一見では評価できない。(さすがに一切やる気がない人は分かるよ
  • なので証明書として3.があると安心。

っつーはなしで。

つまり「化粧なんて毒だ!するな!」という話は詰め込み教育子どもの自主性を阻む!ゆとり!」って言うのに似て。「ゆとり」って言うか「受験廃止!卒業校を人前で話題にするの禁止!」くらいですね。まぁ言ってることは原理主義的には間違ってないかも。でも、社会的に見ると、おかしいよね。

そーゆー感じでどーよ

2007-10-29

MacOS9

ユーザー居たら、何故OSXに移行しないのか教えて。

いや、挑発とかではなくて、ミクロの事情を純粋に知りたいんだ。

2007-09-20

デザイナーはみんなバカ

どうでもいい事に拘ってミクロの世界の違いをああでもこうでもないと騒ぎ出す基地外です。

2007-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20070914230922

少し早く来た ミクロ系のかわいい子が

デブじゃなかったよ

予算オーバーなので断ったがオプション誘われた^^;

結構早く時間がたったなぁ

2007-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20070905170808

ええと、言いたいことがまとまらないのでばらばら書きます。

ハードディスクメモリ上の情報構造物が dense であるとか sparse であるとかいいますよね。当然何かその情報構造物について「密度」を考えているわけですが、その単位はよくわからないものです。気体の「体積」「1分子あたりの熱エネルギー」「モル数」はそれぞれ違う次元の数ですが、ディスク上の情報構造物の「占有領域」「最低/平均ブロックサイズ」「圧縮した場合のバイト数を表現するのに必要なレジスタ幅」はまったく意味が違うのに、いずれもバイト数で表されます。これは情報科学の根底にあるトラブル原因ですが、いまは統計力学情報理論の間に安易な橋渡しができないことだけを意識してください。

ただ、気体でも極端に自由度の低い系(絶対零度近くとか、強い磁場の下にあるとか)では体積は圧力にも温度にも比例しないでしょう。それと似たような話として、自由度の低い情報構造物は情報理論の適用外です。個々のビットの間の関係恣意的であって、あまり統計的扱いに向かないからです。

古典力学の前提で、粒子間の引力も斥力も無視するとボルツマン統計量子力学ならボーズ統計フェルミ統計に従うという話ができますが、すべてのアプリケーションが書き出すビット列にそういう統計を考えることはできるでしょうか?

アプリケーションの各論を展開できるほど柔軟で包括的な数学を使えば、情報構造物のミクロ理論は好き勝手に展開できるでしょう。ただ、それはアルゴリズムの単なる記述ではありませんか?

2007-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20070831005830

多分この人は転職するだろう。

そして、多分今より幸せになるだろう。

でもそれは個人の幸せミクロの話。


みんな同じ目的に向かって進んでいるはずなのに、なぜこんなに壁があるのだろう?

COBOLerWeb業界を羨み、

JavaScriptプログラマCSS+HTML書きを蔑み、

SEコンサルに不満を持つ。


人間は、ベルリンの壁を作りたがる種族なんだなぁ。

2007-08-30

医療問題でもめているのを見て

格差問題と似ている。

当座のミクロな問題をどうするか(今日明日どうサバイブするか、弁護士訴訟に勝つために雇われている)ということと、社会システムというマクロの問題(格差や医療過誤の取り扱い)が混同されている。

弁護は業としてしているのだから、医者弁護士もなんとしても勝たないといけない。そこでイナゴに「てめーは医療システム全体のことを考えていないだろ」とマクロの問題をぶつけられても、弁護士はそんなことなんて知るかよ、と一蹴したくなるのは当たり前。けどよっぽど頭の悪い人でなければ、双方ともコストが上がれば結果的にどのようなことが起こりえるかは想像がつくし、現に起こっているのだろう。

とまあ色々思うのだが、双方が欲しがっている物は現状で満たされているのか、それを得るためのコストは現状で適正か、などを考えるとゆがみがあるように見える。そこに燃料を投下したがる運動家がいるようで、それはそれでうざいのだが。

2007-08-24

http://anond.hatelabo.jp/20070824125319

さらにもう一段階。

ミクロに見ていくと、ネジ1本などの部品コンクリートガラスといった素材にたどり着きます。

すると、その先は少しマクロへ後戻り。ネジの転造機やセメント高炉などへ。

当然その機械や構造物もまたミクロな要素の複合体。

機械を作った機械を作った機械を……

すべての機械の祖たるイブがあるのでしょうか。誰がどのようにしてどんなものを作ったのでしょうか。

そういった産業の歴史もまた面白いものです。

2007-08-06

anond:20070806024408

移民問題は今後10年間で一番ホットな話題になりそうな気がするけど。

ミクロレベルでは地方自治体レベル移民労働者の子女向けの教育整備とか考えているところもあるわけで。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/kaigi/brazil/sympo_2004.html

女性企業で働くことっていうのは「働く環境を整備すべきである」ということが社会のコンセンサンスとなっているので、

そっちのほうは何気にどうでもいい。

2007-08-01

視点をミクロにとれば「個人の問題」だとしても、

勤労人口の何分の一かが不安定雇用・・・ということになってくれば

事態は「社会経済の問題」をおびてくる。

それを直視しないでいたい人は、あえて個人の問題「のみ」を言いつのるのではないか。

たとえばイラク人質になった人の問題にしても、

まず「イラク侵略支持国家としての日本」という大きな構造があるわけで、

その中で個人として何ができるかを考えて、現地に入る行動を選択する人も出てくる。

おりあしく米軍ファルージャ虐殺でイラクの住民が激怒し、各国の外国人誘拐する奴も出る。

日本人の三人はそのうちの一部にすぎない。

彼らの「自己責任」とやらを言い立てて問題を矮小化しようとした奴らは、

じゃあイラク侵略支援を止められなかった手前の「戦争責任」を、どのように償ったのだろうw

小泉イラク戦争加担を止めようとしたのかと。「大量破壊兵器」出てこいと。

少なくとも高遠さんはイラクのために行動し続けている。井戸を掘るカネを集めてイラク人に感謝されてる。

http://iraqhope.exblog.jp/

小林よしのりでさえ感嘆したように、たかが国家なんぞに彼女を止めることなどできない。

彼女匿名有象無象など眼中になかろうよwww

格差も戦争もまぎれもない現実の構造だ。ただし「個人にできること」がゼロなのではない。

その両側面を見るべきだろう。

2007-07-03

http://anond.hatelabo.jp/20070703123556

正論というのは、いついかなる時でも言えばいいというものでもないと個人的には思う

正論を言う人というのは、いついかなる時でも「正論なのだから」を盾にどんどん進んでくるが、敢えて極端な事を言えば、「正しいかどうか」なんて人間社会ではどうだっていいのだ。必要か不必要か?そっちの観点の方が大事なのではないかと思う。

彼の愚痴で言えば、彼女上司立場からの見解なんかを提示してみたところで、彼はいい方に流れてくれるのか?ってことだ。彼がいい方向に流れるために、「上司立場からの見解も示してみる」という行為は果たして本当に必要か?不必要か?

万人が、「正論」でいい方向に流れるわけではない。正論をぶつければ、中立的立場の正しさをぶつければ、全てがうまくいくわけではない。極端に言えば、間違っていようが、偏っていようが、「物事がうまく行けば」それでいいのだ。勿論正論が何においても優先されなければいけない事はあるが、ミクロ人間社会ではその方が少ないのでは、と感じる。

無論「上司側の見解を指し示した」ことで、「そうか、俺は完全に自分側からの考えに固執していたけど、確かに上司からすりゃそうだよなぁ」と反省し、改善する人になら、そうするのもいいだろう。

ただ、実際に、今彼女が指し示した事で、彼はただ凹んだだけだった。へこませるのが目的ならいいのだが、勿論そうではないだろう。

正しさというのは時に何の価値も持たない。

2007-06-19

その「外国」って、君の漠然としたイメージ投影したものでしかないよね

http://anond.hatelabo.jp/20070619200203

日本国憲法のことを知っていようが知っていまいが、自衛隊のことを知ってようが知っていまいが、

そんなレベル以前の話として、自分のよく知らない遠くの国が根拠はないけど明日戦争するかもしれないと

考えているような人がいるならば、その人はよほど思想的に偏りがある人だと思うけどね。

それと、「フランス戦争するかも知れない!」と言われて驚くのと、

言われる前から「フランス戦争するかも知れない!」と思い込んでいるのとでは天と地ほどに違う。

そのたとえ話は不適切。

あと、「日本を客観視」ってどうやってやってるの?

君の言う「外国」というのは漠然かつ抽象的なイメージの産物としか読み取れない。

中国都市部の30代インテリビジネスマンと、韓国都市郊外部の20代下流階層の青年と、

アメリカ70代国粋主義者の年金生活者を同列に量れる?

この仮定がミクロ過ぎて無意味だと考えるならば、逆に最大公約数の大多数の人々のことを

想定してみようか?答えは簡単。

「そもそも日本なんかに興味はないからニュースにでもならない限り特に考えもしない」だよね。

根本の発想からして自意識過剰なんだよ。

2007-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20070613225800

  • 俺のことを「ミクロからマクロを持ち出す人間である」と決め付けるな
  • でも俺はお前らを「統計数字ばかり持ち出して別の視点を持たない人間」と決め付けるよ

こういうこと?

Re: 犯罪を数でしか見ない人への違和感

犯罪ゼロには決してならないし、被害者ゼロにはならない。

数で考える人たちも、被害者へのケアが不必要だと言っているわけではない。

個別事例であーだこうだ言って、個別の事例に対してどう対処するか語るのはいい。

でも個別事例派のひとたちは、すぐにミクロな事例からマクロな対策を引き出そうとする。

それは大抵極論で、弊害が大きすぎる案だったり全く全体の犯罪量を減らす役に立たなかったりするんだ。

被害者になってしまった人を助けるのと、被害者になる人を減らすのとでは全く別の視点が必要なのに被害者ミクロに見るのが好きな人はその区別が付かないんだよね。

2007-04-15

anond:20070415195650

宇宙天体人工衛星が回ってるシーンでゴゴゴゴみたいな音が入るけど宇宙って音聞こえないんじゃなかったけ。どっちにしろ音は録音したわけじゃなくてそれっぽいのをいれてるだけだろう。

昔の特撮とかで、「ここは宇宙ですよ」を示す音(ぷおーん、ぱわーん、みたいなの)が好きなんだけれど、あれは誰が考えたんだろうね?

あの種の音、「ミクロの世界」みたいな教育番組でも使われてるよね。

漫画の擬音「シーン」の発明に匹敵すると思うよ!

2007-03-21

人類への反抗だ。子供など作ってやるものか。

http://anond.hatelabo.jp/20070321115611

悪夢の様なガキを量産して、社会をちょっとずつ痛めつけていくことの方が

余程人類への反抗になるのではないかな?

http://anond.hatelabo.jp/20070321120121

反抗が「実効的な結果」を目指すための手段であるとしたら、

どっちがより実効的かということはミクロレベルじゃ多分決定できないんだよね。

産まないことで子孫の可能的生産をひとり以上減らすことは、後世に行くにつれてネズミ算的に「もしその時に産んでいれば存在したであろう仮想的人口」を殖やすことになる。

でも、もし産んだとして、その子が大きくなった時に、他人に対して子供を持ったり家族を持ったりすることを諦めさせるような政策決定をする(あるいは大量殺人でそれを物理的に不可能にする)人間になったとしたら、そちらのほうが人類に対するマイナス影響はより大きくなる。

さらに。

上記では「産めよ殖やせよ」が人類への貢献で、その逆の「産むな殖やすな」が人類への反抗だと単純に考えたけど、もしかしたら子供社会にひとり余計に送り出すことが、それ自体としてかえってマイナスになる場合だってあるかもしれない。

2007-03-14

とりあえず一番目のツッコミに答えてみるテスト

http://anond.hatelabo.jp/20070314100032

レディースデーというマーケティング戦略男女差別か?

もしレディースデーが公共機関(役所とか)における各種手続き・申請受理やにおける男女の差別意味しているのであれば、恐らく差別に当たる。公民としての取扱の格差に当たるから。

しかし、マーケティング戦略における男女の扱いの相違については、原則として「差別」とはされない。何故なら、それは公民としての原則平等の上に立った「自由で理性的な合理的経済人」の行為に関するものであるから。不当な差別云々とは原則として政治制度の問題であって、市場経済におけるミクロ行為主体の意志決定という問題系の中で語られる話ではないのだよ。

2007-02-20

賃金の決まり方

一般教養マクロ経済講義を受けただけのぼくが、一昨年買ったけど全く読んでなかったミクロ経済教科書片手に、論争の経済学的な面を経済学的に完全(誇張)に解説し、論争そのものがなんだったのかまとめてみせよう。(数式は基本的に使わず、微分じゃなくて差分で説明してます。)

まず経済学の一番の基本である需要と供給(wikipedia)は押さえておこう。需要、供給、均衡のとこと図に目を通せばいい。価格ごとに需要量や供給量が決まる。そしてそれぞれの曲線の交点が実現される量と価格になる、ってのを押さえればおk。あとわざわざ書いてないけど、これが労働市場にもあてはまって、その場合は価格が賃金で量が労働者の数となる、ってのも一応。

そして限界生産性の原理なのだが、まずは準備から。

1. 雇う労働者の数が決まれば生産物の量が決まる(生産関数)

ほんとうはもっと一般的に労働者以外の生産に必要なもの(生産要素)の数量にも生産量は影響されるんだけど、以下ではその辺は一定として考えるので気にしない。生産物というのは、例えば喫茶店だと客へのサービス全てのこと。

2. 1の関数から、雇っている労働者数ごとに、そこから1人雇う人を増やしたとき生産量がいくら増えるか決まる(限界生産性)

限界生産性というのはすでに雇ってる人数で変わってくるってのがポイント。(導関数なんだから当たり前だけど。)

ただ、今回の論争では限界生産性と言った時点で、すでに生産物の価格も入ってるようなので、売り上げ = 生産物の価格 * 生産量 ということにして

(※労働者以外の生産要素は一定として考えて、労働者だけ1人増やした場合と比べるのだけど、レストランなんかだといくら人数が増えても食材が一定じゃ生産物は増えようがないじゃない! とお思いの方は「生産物の価格」のとこを「生産物の価格 - 原材料の価格」としてくだされば以下の議論に支障はございません(売り上げと呼ぶのがちょっとアレになるけど)。)

2'. 1の関数から雇っている労働者数ごとに、そこから1人雇う人を増やしたとき売り上げがいくら増えるか決まる(限界生産性)

こっちを使う。生産したものは売れるということで、売れ残りとかは考えない。「限界生産性でなにかが決まる」といっても生産物の価格が入ってるので、価格に影響をあたえるものは、そのなにかが決まるにあたって影響することに注意。山形循環論法とか言ってた半分はそのこと。

そして賃金が限界生産性に等しくなるということを言うのにあと2つ必要:

3. 限界生産性は(労働者以外の要素が一定で)労働者が十分に多いとき、労働者がさらに増えるにしたがって下がっていく(限界生産性逓減の法則)

限界生産性ってのは従業員が増えたときの売り上げの増え方なわけだが、その増え方は徐々に減ってくということ。

4. 生産者(雇用主)は利益を最大化しようとする

これが重要。この仮定のもとで、労働者の価格(賃金)が与えられたとすると、もしも限界生産性がその労働者の価格よりも高いとすると、限界生産性ってのは労働者以外を一定にして労働者を1人増やしたときの売り上げの増加なわけだから(上の※も参照)、

売り上げの増加 = 限界生産性 > 労働者の価格 = コストの増加

となり、つまり1人増やしたほうが利益は増える。そうして 限界生産性 > 労働者の価格 である間は労働者の数を増やしていくわけだが、3 により次第に限界生産性は下がってくるので、最終的に 限界生産性 = 労働者の価格 となるところまで増える。(論理的にはイコールでなく≦となるんだけど、これは労働力連続的な量じゃなくて離散的な量にして、微分じゃなくて差分で限界生産性を定義したからで、あんまり本質的でもないし、大雑把に見ればイコールになるんだということで気にしないでくれ。) 限界生産性がその労働者の価格よりも低いときは、従業員を減らすとコスト減が売り上げ減より大きく、利益が増えることになるので、減らしていって結局イコールらへんで落ち着く。

というわけで、限界生産性原理が出てくるわけだがこれってどういうことだろう? 限界生産性で賃金が決まったんだろうか? 賃金は最初に与えられたとしたのに? 普通に考えて、決まったのは、ある賃金のもとで雇おうとする労働者の数だ。つまり決まったのはこの生産者の企業の労働需要(曲線)なのだ。wikipediaの労働経済学のとこにも

労働の需要主体は企業である。ミクロ経済学によれば、企業の労働需要(雇用量)は実質賃金限界生産力が一致するように決定される。

と書いてある。(その下に賃金決定の理論というのも書いてあるがとりあえずそれはスルー。) もちろん教科書にも普通に同じ意味のことが書いてある。

ここまでくれば賃金の決まり方はわかったようなもんだ。需要と供給で決まる、ってそれは最初からわかってるか。わかったのは、限界生産性が賃金と等しくなるということと、賃金は需要と供給で決まるということの関係だ。

限界生産性は各企業の労働需要曲線を決める。そしてこれを足し合わせればマクロな需要曲線がでてくる。足すってのは価格ごとの需要量を足す。でも、なんでも足し合わせればいいんじゃなくて、同じような労働力の需要について足す。プログラマーだとか、経理がわかる人だとか、コンビニ店員ができる人(ほとんど誰でもいい)とか。あと地域もある程度限定して足すもんだろう。そんな風にすれば首都圏で働けるプログラマーマクロな需要曲線なんかがでてくる。そしてそれと供給曲線の交点によって賃金が決まるってなわけだ。

ここで供給曲線というものにも注意。さっき、限界生産性でなにか(ってのは賃金じゃなくて労働需要曲線)が決まるとしても、生産物の価格が影響すると書いたが、賃金が決まるにはさらに供給曲線の影響もある。半分って書いたのはそういうこと。

というわけでそろそろ論争のまとめ。上に見てきたように、賃金は限界生産性に関することと供給曲線と生産物の価格(これは2'の定義だと限界生産性のとこに含まれ、2だと含まれない。けどどっちにせよ影響はする)によって決まる。山形の最初の議論は、供給曲線と生産物の価格(これらには関係がある)に関することで、それが賃金に効いてくるということだった。それに対し池田は賃金は限界生産性で決まるんだ、とイチャモンをつけた。つまり山形のそれに対する反論のとおりで批判になってない、ってことだろう。あとはなんかごちゃごちゃ言い合ってただけ。

…。まとめとかいってもすでにありふれた見解で全然面白くねーよって? そうですね。そうでした。ついでに池田の間違ってるっぽい発言を(山形あやしいのは多いのだけど、間違ってるってほどでもない)挙げて、どう間違ってるか書こうかと思ってたんですが、もうかなり疲れてぐったりしてるので、探して挙げるのはやめます。

1つの企業だけ見れば、賃金は限界生産性によって決まるんじゃなく、世間の水準としてすでに決まってて(1つの企業の需要を足したところで影響は無いし)、限界生産性が等しくなるのは、雇う人数を調整するから。

というのが正しいのだけど、これと矛盾してるあたりです。各自で読んでください。ぼくが思うには池田限界生産性原理のなんたるかがわかってません。山形限界生産性自体がなんかあやしい(「各人の限界生産性を足しあわせて平均することになりますな」とか。意味が通るように「各人の限界生産性」ってのを好意的に解釈することもできるけど…)。

2007-02-19

難しいことわからんー

anond:20070219104330

anond:20070219094329

なんか「ミクロ物語」とか「小さな物語」ってのがキーワードなのかな。

上の方は具体的に書かれてない?からいまいちレッテル貼りだとか「まともな」社会人化、原理レベルでは??政策レベルでは??っていう言葉意味しているところがわかんないなー。アホですー。

解同って初めて聞いた、部落開放同盟?の略みたいですね。それの利権化っていうのはなんかこの前ニュースに出てきてた奈良の職員が??って話だとかのことを言っているのだろうかな、と思った。

なるほど、多分ズレて話すと思うけど、とりあえず内包的?否定表現は嫌いだから少し嫌悪感を感じるのはまあどこにいっても人間ってそういうものだから、として。→

そういった低賃金の若年者等の将来的な下層層は昔の部落のようなものと同じで新たなレッテル貼りってことで。

そして現状、また将来の社会構造化での類似層の扱いをどうするかって話、ですね(なのかな)。

その問題は、そんなお金どうするんやとかの話などでもあって。

結局のところは今ある社会構造をいろいろ変えていって様様な現行の諸問題に適応させる政策をどうにかしなきゃいけないしそれを自覚的自発的にそれぞれ(国とか、個人・家族とか)が取り組もうとしなければ早晩一気に暴落が来る、と。

やっぱ、教育社会保障の問題が大きそうですね。

まあ見当外れのテキトーな日記なので、(自分は間違っていても馬鹿でもあんまかまわないで発言叱咤教授受けたいって人で)、こんな日記読むという寛大な人は大目にみて読んでください苦笑

あい。

http://anond.hatelabo.jp/20070219092106

本田氏が挙げる具体的な政策の例としては『無償ないし生活費保護を伴う職業教育訓練の大幅拡充や、丁寧なカウンセリングと選択可能な複数の就労ルールを整備した確実性の高い就労支援、生活保護対象の基準緩和

ミクロ物語になんでそこまでこだわるのかがわからん。

そうであると結論づける正確なデータかなにかあるのだろうか。

マクロにやっぱり見合った職が無いだけなんじゃないかと。

これから先富を生むであろう産業を国策として打ち出してその人材の育成としてならあり得るかな。理想として。

でもまあこのままズルズルと沈んでいくんだろうなあこの国は。てへっ。

で、やっぱり行き着くわけだ。

この国は弱者を守る意思も無ければシステムエネルギーもないよ自己責任で、と。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん