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はてなキーワード: 命題とは

2008-04-17

http://anond.hatelabo.jp/20080416084709

とりあえずあなた、頭の中のノイズが多すぎるしセグメントエラー起こしすぎ。

俺が「AについてはBだ。また別の話だがCについてはDだ」というと君は「AについてはDだと、ばかじゃねーの。そんなことを言ってるお前はEとかFなんだろ。Eなんて奴は馬鹿だしFに至っては最低だよお前は」とかそういう反応されてもまともに応答できないんだが。

本論で負けたから関係ない方向に脱線して遊びを演出し始めた、のかな?

そう思いたければどうぞご勝手に。もう、単に何とかの一つ覚えに根負けしただけであって、負けたわけではもないがね。経済効果の話をしたら君は道義性という全然関係ない反論をしてきたわけだし俺の意見は根拠なしに否定したわけだし。君は論拠があることとないことの区別がついてないみたいだからめんどくなってやめただけ。

まあ、議論は勝ち負けじゃないし、「文化の価値経済的有用性でない」っていう命題(こっちの方がよっぽど主張するのが困難だと思うんだがね)を同意してくれるのなら、そっちの方がよっぽど俺の個人的信念に叶うのだからそれでいいよ、と何度も言ってるはずだが。おしまい

それで、「文化の価値経済的有用性でない」っていう、おそらく君が一番主張したい命題については俺は同意してるんだが、それ以上君は何を望んでるんだ?主張を通すことか?俺を馬鹿にすることなのか?

何語が共通語になろうがその理不尽はどこかで発生するだろ。

ラテン語とかエスペラントって知ってる?誰にとっても平等ってわけではないが、どう考えても英語より公平だよね?君にわかりやすい例で言うと、英語を強要ってのは全員にCOBOLを強要するようなもんだ。

お前が綺麗に読んでないフレーズをもっかい書くが、「たくさんあると大変だってのは、俺の英語習熟度とは関係ない議論だと思うがね」

君こそ読んでない。「それに対して持ち出してきたのが、自分はドイツ語中国語よりも英語の方が理解できるなんてチンプンカンプンな理屈だし。大英帝国アメリカ経済支配がなければあんたは英語を教え込まれる機会もなかったということをもう少し想像した方がいい」。

いや、ナマの問題に直面し試行錯誤して整えてきた軌跡が思想に結実してるということなんだろうが

「だろうが」って何だよ。君自身の考えじゃなかったのか。西洋思想が役に立つというのは。

あと、日本人も相当なことやってるわなあ。

植民地支配と侵略戦争をたかだか五十年でやめた日本人は、五百年続けてきた西欧人の十倍賢いのかね。それとも、西欧に学ぶためにあと四百五十年虐殺しろっていうのかね。

なんだ、結局学歴くんだったわけ? でも、たかが東大くんごときで偉そうにいわれてもねえ。

俺の学歴なんか関係ない。単に、東大レベルを君は理解してないといってるんだよ。知らないものをなんでそんなにエラそうに切り捨てられるのだ、と俺はさっきから聞いている。

誰がやめろなんて話をしてるんだ? これ多分3回目くらいの指摘だけど。あと東大レベル古典教育を一般化して語る意義がどこにあるのか。

これはひどいセグメントエラーですね。東大の話と古典の話をいつ俺が繋げたんだよ。あんたが、「東大をはじめ日本大学レベルの高い教育を行うのは金の無駄だからやめて欧米先進国様の本物のエリート(笑)大学に丸投げしろ」と言ったことについて俺は言っているのだ。

俺は計算機オタクじゃないんでな。情報工学ってのは計算機オタクになることじゃないんだよ。

へえ、今FORTRANを語る意義ってオタク的なものでしかないんだー。メモメモ

これも頭の中がひどすぎる混線ですね。どこをどう読めばそう読めるんだか。一番自然な解釈は、あなたはFortranを語ることこそが情報工学を語ることであると考えている、というものだがw

2008-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20080415021345

ド・モルガンの法則とか、命題の正裏対偶とかって、高校じゃなかったっけ?

単元にあるかどうかと理解しているかどうかは別のことだが。

2008-04-11

http://anond.hatelabo.jp/20080411034151

その赤頭巾は100人に1人くらいは大当たりして、

幸福になってしまうケースがあるから確実とは言えないな。

必ず不幸にならないと命題を満たせない。

あ、赤頭巾は違う話か。

俺の記憶の中のマッチ売りの少女は赤い頭巾かぶってた。

2008-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20080407232234

あの石原にこんなこと言わさせるんだからもう絶対命題だと思うよ。

2008-04-06

http://anond.hatelabo.jp/20080406185151

ネタ師限定の命題だな。一般人にとってはネタネタだよ。

リアルだと思い込んで友達に話すと心の中で失笑されて

確実にイメージダウンする。

2008-04-04

結論は正しいが過程が間違ってる

内田樹さんのプリンスホテルの議論(http://blog.tatsuru.com/2008/04/03_1313.php)だが、http://anond.hatelabo.jp/20080404073011さんの議論は、結論は正しいが過程が間違っていると思う。

http://anond.hatelabo.jp/20080404073011さんによる内田さんの議論の再構成はこういうものだ。つまり、内田さんが

A. ルワンダのような極限状態で人助けをするには超人的な勇気が必要で、それを要求するのは無法。

B. プリンスホテルが当時のルワンダにあれば、躊躇いなく客を政府軍に引き渡した。

C. 平時に卑劣な人は極限状態でも卑劣

と述べていることから、以下のように組み立てる。

(1) 極限状態で客を助けないのは、卑劣ではない(Aから)

(2) プリンスホテルは、極限状態で客を助けないだろう。(B)

(3) 極限状態で卑劣でない人は、平時でも卑劣ではない。(Cの対偶

(4) したがって、プリンスホテルは平時でも卑劣ではない。

この再構成がおかしいのは、Aの翻訳である(1)だ。Aが述べているのは「ある人が極限状態で客を助けないからといって、その人が卑怯だとはいえない」ということである。つまり

(1') 極限状態で客を助けない人の中には、卑怯な人もいるかもしれないが、そうでない人もいる

ということ。したがって(4)のような結論は出てこない。

(「私は別にこのような超人的な勇気グランドプリンスホテル新高輪のマネージャーも持つべきだというような無法なことは申し上げない。」とあるので、本当に内田さんが「助けないなら卑怯」といっているかどうかには疑問があるが、一応議論の流れに乗っておく)

しかし(1')と(2)を組み合わせると、

(*) プリンスホテルは、卑怯かもしれないが、そうでないかもしれない。

という命題が出てくる。おそらく内田さんはこういうことを言いたいわけではないだろうが、これは内田さんの議論がちょっとずさんだから。というのは、内田さんは次のようなことを書いているが

もしグランドプリンスホテル新高輪のマネージャー内戦時代のルワンダホテルマネージャーをしていたら、彼はためらうことなくツチ族顧客全員を政府軍に差し出しただろうということである。

...

だが、私の経験が教えるのは、平時に卑劣なふるまいができる人々は、軍国主義の時代や恐怖政治の時代にも同じ種類のふるまいを(もっと葛藤なしに)できるということである。

これは結局

D. ツチ族顧客全員を政府軍に差し出すことは卑怯/卑劣である。

ということであって、(1')と矛盾してしまう。ということで、わたしはhttp://anond.hatelabo.jp/20080404073011さんの結論

この人ほんとに学者

には同意してしまうのである。

たぶん内田さんがやるべきだったのは、戦時中であればプリンスホテル中の人がやりそうな------しかしそれをしないには超人的な勇気を必要としないような------卑怯なこと(しかし、彼らはそんなことは人道上しないといいそうなこと)の例を挙げることで、そうすると、プリンスホテル中の人がいかにひどいかと言うことを描写できたのだが、例を出すのをケチってしまったので、こんなことになってしまったのである。

2008-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20080328205637

マジレスすると人による。リア充なら勝てるとか、一般命題なんて立てられないのに、立てようとするのがばかげている。10年ひきこもって溜めたエネルギーを爆発させて成功する奴もいれば、リア充になってエネルギー発散しちゃって、社会出てからただの人なんてのも多いし。もう少し人間勉強しろ。

http://anond.hatelabo.jp/20080328204801

リア充人生に勝つための十分条件ではなく必要条件に過ぎない。

つまり、「リア充⇒勝ち」という命題は偽だが「勝ち⇒リア充」は真。

2008-03-15

「どうして人をころしちゃいけないの?」

A:……。

B:……。

C:殺人を犯せば厳罰に処される可能性もある。しかし君がそれでもかまわないと言うのなら

止める理由はどこにもない。一切は許されているのだから。

B:ちょっと待て。一切は許されていると言うが、その根拠は何だ。実際は何も許されてなどいない。

現に我々の社会には殺人禁忌とする通念があるじゃないか。だからこそそれを犯した者に対して

厳罰が与えられるのだ。違うか?

C:それがどうした。そのような通念は共同体の運営と維持のために作り出された方便でしかないのだ。

究極的には正当性などないし、ゆえに絶対的な拘束力もない。

B:なぜ正当性がないと言い切れる? それに共同体のために作り出されたなんて、君の想像でしか

ないんじゃないのか? わかりもしないことについて訳知り顔で語る、その行為こそ正当性を欠いている。

語りえぬことには沈黙せねばならない。我々にできるのはそこにある倫理をただそこにあると認めること。

それだけだ。それ以上に踏み込んだ言説は結局のところどれも誤謬でしかない。

C:では逆に訊くが、「それ以上に踏み込んだ言説は結局のところどれも誤謬でしかない」、この命題

誤謬でないという根拠はどこにある? 君は私が根拠もなくひとつの価値観を称揚するのを批判したが、

君がやっていることも結局は同じことなのではないのか?

B:もちろんそうだ。本来なら私も沈黙を守るつもりでいた。しかし君がさも真実であるかのように

誤謬を口にするのを見て、どうしても我慢がならなかった。それは無効だと言っておきたかったのだ。

「ねえ、どうしてころしちゃいけないの? ねえってば」

A:……あのね、神様が「人を殺してはいけません」って言ってるんだよ。だからダメなの。

「うん、わかった。ありがとう

B:……。

C:……。

2008-03-12

http://anond.hatelabo.jp/20080306023437

またブクマコメにいろいろと、というのは最後にまとめるとして。

http://d.hatena.ne.jp/repon/20080306#1204807516

これのブクマコメには、「長すぎて読めない」といっぱい書かれています。でも、考えてみれば、どんなにペナペナで内容薄くて会話文ばかりでページの下半分は全部空白、みたいな「誰でも読める」ラノベでも、たいていこのエントリよりは長いわけです。よって、「読めない」のは長すぎるからではない。

このエントリが読めないのは、

・もともとの弾さんとreponさんのやりとりからすっかり乖離したメタな話になってしまっていること。

メタな話だとしても、その中でも論理展開がメタメタであること。

からでしょう。ほめている人でさえ具体的な内容にほとんど触れてないのはその証拠。

順に見ていきましょう。

(1)「決断する」とはどういう事でしょうか?→「何らかの判断を主体的に行うことである」

ここに異論がある人は少ないと思います。

(2)決断は、本質的に論理性では解決できない「問い」から発する

 →また「決断」を要する場面というのは、パズルのような論理的判断が下せる問題ではなく、

  合理的な答えが複数あり、その中の一つを無根拠に選ばなければならないような事態に

  あるような場面です。

これは「選ぶべき答えが明白なら、『決断』なんて不要だ。よって、『決断』とは、『無根拠に選ばなければならないような事態』にすることだ」ということでいいのかな。

ふつう決断といえば、成功の確率とか、成功した場合のリターン、失敗した場合のリスク見積もってするもの(よって無根拠ではない)だと思うのですが、ここはとりあえず置いておきましょう(保留1)。

(3)ひとは「決断すること」を迫られる状況で、成長することがあります。「決断をすること」を迫られる状況が、教育的な効果を生み出すのです。

 →陪審員パスカルの賭け、労働者闘争を例に挙げて。

 (パスカルの賭けってこんな意味じゃなかった気がするがなあ。)

 →市場にも適用「その事業の成功の有無とは別に、その人は成長する」

これも、「そんな考え方もあるかな」というレベルでなら賛同できるでしょう。

(4)「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。

問題は上記、この部分の節のタイトルです。

まず命題として、『「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。』は明らかに偽です。工事現場で鉄骨が空から降ってきて、右によけるか左によけるか決断しなければ、教育効果云々以前に死んでしまいます。雪山で吹雪に閉じ込められて、決死の覚悟で下山することを選ぶかその場で助けを待つか、といったケースもそうでしょう。『「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。』というのは、まるで学校の授業のように、「誰かが教育目的で課題を出してくれている」ケースでしかありません。

それでもなぜ市民裁判制度に陪審員という形で参加させるのかと言えば、そのやり方でしか市民教育する場がないからです。

と、誰が考えているのでしょうか? 日本裁判員制度について言えば、少なくとも最高裁判所直接にはそうは言っていないようです。

陪審員制度が市民を成長させることがある」という命題が真だとしても、そこから「陪審員制度は市民を成長させるためにある」は導けません。

ていうかこういう発想自体、どこかに「教育目的で課題を設定する先生」がいるという前提に立っているのではないでしょうか。それは誰? 将軍様?

まして市場は、我々を成長させるためにあるわけじゃないでしょう。日本現在資本主義的な経済を採っているのは、そうすると競争生産性が上がるとか、あるいはそんなのは既得権益を得た資本家政府を牛耳っているからだとか、いろいろ意見はあるでしょうが、「教育のため」と主張する人はまずいないと思います。

ところがreponさんは、

しかし、「市場教育」は、二極化を目指したものではありませんから、そこで「負けた」ものを救う措置が必要になります。

市場教育のためにある」→「教育目的二極化を目指したものではない」という二重の飛躍をやってのけ、『「負けた」ものを救う措置が必要』と主張します。

『「負けた」ものを救う措置が必要』という主張自体には異論はないんですよ(BIがよいかどうかは議論の余地がありますが)。でもここまでの議論からこの主張を持ってくるのには無理がある。むしろ「ベンチャーを立てるとか、いろいろ挑戦できた方が社会全体の利得が上がる。でもそれで失敗して人生終わりじゃ誰も挑戦できないから、セーフティネットは必要だよね」という主張の方が筋は通っているでしょう。もちろんこれは典型的なマッチョ理論ですが。

「この金は自分一人で稼いだカネだお前ら手を出すな」と品性なく喚く人間は、教育と言うことがどういう事なのかを理解できていないのかも知れません。

学校の授業のゲームで「子ども銀行券」を取り合っているのならそうかもしれないけど、「市場教育のためにある」ことが証明できていないので、この文には意味がありません。

ていうかそれ以前に、『「この金は自分一人で稼いだカネだお前ら手を出すな」と品性なく喚く人間』って誰のことなんでしょう。弾さんもfromさんも、BI推進派です。

そして。

教育的効果を発する「決断」は、自分を「問われるもの」として「問う」者を想定し、自身が「問い」に応える立場に立つとき、はじめて成り立つのです。

まったくそのとおりです。これについてはまさに上で、『どこかに「教育目的で課題を設定する先生」がいるという前提に立っているのではないでしょうか』と書きました。

「すべての問いを有している審級」とは、全体主義権力に近い。

まったくそのとおりです。で、それって将軍様?

つまりね、全体主義権力を想定して論を進めてきたのはreponさんの方であり、弾さんじゃないんですよ。

実際には、幸い日本には、「真の目的教育価値であるということを隠しながら裁判員市場市民教育してやろう」と思うほどの有能な権力存在しないようです。

学校卒業したらそこはもはや学校ではなく、ゲームを仕切ってくれる先生はもういない。だからこそ、

32歳あたりで自分を決めるべき

・そんな会社なら、やめたほうが良かったんじゃないの?

といったアドバイス意味がある、かもしれない、わけです。

もちろん、このアドバイスが正しいかどうかはまったく別な話です。fromさんがここで書いてるようにいつまでも自分を決めないほうが気分よく生きられるのかもしれないし、あの時代、会社を辞めてたらもっとブラック会社にしか就職できなかったかもしれません。そういうリスクやリターンを勘案して、どう行動すべきかを決めるのが「決断」でしょう。

さて、ここで上記の「保留1」に戻ります。

ふつう決断といえば、成功の確率とか、成功した場合のリターン、失敗した場合のリスク見積もってするもの(よって無根拠ではない)だと思うのですが、ここはとりあえず置いておきましょう(保留1)。

reponさんによれば、

正しい方向を目指したから正しい方向に向かったのではなく、正しい方向と信じてその方向に向かい続けたからそれが正しくなるのです。その方向を目指したのが最初は単なる偶然に過ぎなかったのかもしれない、という事実を自身に隠蔽することで、「自分は正しい道を歩いているのだ」と信じ込むことが出来ます。

とのことですが、「最初は単なる偶然に過ぎなかったのかもしれない」という命題と、「すべて偶然だ」というのとはまったく別の話です。

この、まず行動する、という主体確立が最悪の形であらわれたのがファシズムでした。

だからさ、弾さんにしろfromさんにしろ「何も考えずにまず行動しろ」なんて言ってないってばよ。

この、まず行動する、という主体確立が最悪の形であらわれたのがファシズムでした。ファシズムの要求するものは、つねに行動の形式それ自体です。内容はどうでもいいのです。内容が空虚であるが故に、そこに向かって突き進むという形式を要求できるのです。

reponさんの文章には、

(1)市場には教育的な効果がある

  → 市場教育のためのものである

   → 市場教育のためのものであるから、敗者は救われなければならない。

(2)成功した決断には偶然も含まれる

  → 決断はすべて偶然であり、空虚だ

   → 空虚であるがゆえに、決断主義者はファシズムに突き進むのだ

という飛躍があります。(1), (2)ともに、最初の命題は真なのでしょう。でも次の「→」は論理的につながっていません。

こんな破綻した文章をブクマコメで賞賛している人は、ちょっと自分のリテラシを疑ったほうがいい。

あとは余談ですが、

でも、「問う主体」として想定されているdanさんが言えば

だれかが書いてたと思うんですけど、弾さんは将軍様じゃなくて軍曹さんでしょう。今の社会でたまたまうまくいった人が、ある程度成功の秘訣を知っていると想定するのはおかしくない。とはいえ、弾さんといえど人生は一度しか生きていないのですから、実は弾さんが現在の地位を得られた要因はほとんど運で、気付いてないのは当人だけ、という可能性も十分に考えられますが。

長くなったし引用も多いけど、reponさんのもとの文章よりかは読みやすいんじゃないかな。

というわけで今日のまとめ。

Marco11につける薬はない

以上。

ありゃ、ツリーの付けるところ間違えたんですが、これ、修正しても直らないんだっけ?

なんつーか、じじぇくよめとかけんとうはずれのこめんとがつきそうなよかん。いまのしゅだいはじじぇくじゃないっての。…というこめんとをいれておいたことをしょうめいするために、ぎょたくとっとこう。

2008-03-10

ゆとり教育について哲学する。

 教育基本法の第一条には【教育目的】として「教育は、人格の完成を目指し、平和民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康国民の育成を期して行われなければならない。」とある。この文面からわかることは、教育の目指すものは人格の完成であること、そしてかなり包括的なプロセスであることの2点だ。

 人格の完成においては知識の伸張(知育)だけでは教育とはいえない。頭でっかち人間をつくることは教育目的ではなく、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)を包括的に行うことが、教育の真の目的だ。それらを兼ね備えて始めて人格は完成する。彼らは必要な資質をもった理想的な「社会の形成者」となり、社会を理想の方向へと進めて行く。

 すなわち、教育とは理想の社会と構成員を作り出すプロセスなのだ。そしてそのプロセス社会から教育へ、教育から社会への順に、無限ループを繰り返す。「理想の人格者によって構成された社会こそが理想の社会だ」という考え方。これがその無限ループに与えられた、たった一つの命題である。

 問題は、「理想の社会」と「理想の人格」が変化するということだ。そしてその変化と同時に、教育プロセスカウンターをもって方向転換(あるいは反転)する。以下にその例を挙げる。

 1970 年代までの慢性的に教師不足な社会が「でもしか先生」をうみ(社会から教育へ)、その弊害として校内暴力が多発した(教育から社会へ)。指導能力の低い教師たちには、生徒の暴走を食い止めることは不可能だったからである。この時期は、生徒のそのパワーを身体の伸長(体育)に向ける方法が多くとられ、その中で道徳の伸張(徳育)、知識の伸張(知育)を行うというプロセスが行われていた(例:スクールウォーズ)。

 その後1980 年代に入り、「荒れた学校」へのカウンターとして、もしくは均一で効率的な労働力を求める社会の要請で、管理教育が再徹底された(社会から教育へ)。その後、管理教育の弊害として、はみ出すことを嫌う没個性社会、管理教育に伴う知識の詰め込み、学歴偏重社会が形作られた(教育から社会へ)。知識の伸張(知育)に特化したこの教育は、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)をないがしろにした。この時期、社会では小学生の体力低下や犯罪の低年齢化といった社会問題が話題となった。

 それに対して、文部省(現文部科学省)がはなったカウンターが「ゆとり教育」である(社会から教育へ)。知識偏重を見直し、多様性、主体性をもつ豊かな人間性とたくましさ、すなわち「生きる力」を育むことを目的とした。しかし結果は周知の通り、利己主義社会学力低下が起きた(教育から社会へ)。主体性を自己主張、わがままと履き違えてしまい、道徳の伸張(徳育)が不完全にしか行われなかったことに原因がある。しかし学力低下については、学力偏重教育を批判して方向転換したのだから、知識の低下を嘆くのはおかしい。もともとが社会の要請によって行われたものである。授業科目を減らせば学力が低下するのは至極当たり前の結果であって、単純に批判することは出来ない。

 ゆとり教育の失敗は、知識の伸張(知育)を犠牲にはしたが、その対価となる道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)政策を徹底できなかったことだ。生徒達は週休2 日制によって、学校のなかで社会性を学ぶチャンスを毎週一日分捨ててきた。その結果得たものはなんだろうか。「見た目はいいが機能性は低い」まるで国会議員のような、まるで週休2日制のような人間だけであった。理想の人格者になるために足りないものは、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)だったはすが、知識の伸張(知育)まで足りなくなってしまった。それゆえ現在教育のための包括的なプロセスは不完全にしか機能していない。愛国心についての議論もよい。しかし、今やらなければならないことは、教育目的の再確認と今現在足りないものについての議論なのだ。

教育方針が時代によって変わるのは仕方のないことなのかも知れない。それをここまで書いてきた。しかし、私にはどうしても許せないことがある。

 私の妹はど真ん中の「ゆとり教育」世代である。彼女はたまにつぶやく。

「わたしゆとり世代やねん。あほばっかりの世代やねん。」

ただ普通に生きていただけなのに、社会からは「理想的な社会の形成者」たりえない、失敗した世代だとレッテルを貼られてしまった。そんな彼女言葉に潜む絶望がわかるか?彼女が失ったプライドゆとり世代劣等感をどうしてくれるのだ。

 教育目的は、知育・徳育・体育の伸張による人格の完成にあると最初に述べた。ゆとり馬鹿だと蔑む奴等。彼ら彼女らの劣等感煽り、踏みにじって笑う奴等に言いたい。ゆとり世代だって立派な「社会の形成者」だ。馬鹿にするな。困っている子がいれば助けてあげる。泣いている子がいれば慰めてあげる。そう習ったはずだ。彼らの絶望に気付けないお前たちこそ、「徳育の足りない不完全な社会の形成者」だ。

 完璧人間はいない。ゆとり世代は不完全かもしれない。しかし、それをあざ笑う奴等だって、所詮は不完全なのだ。「ゆとり世代」。キャッチーキーワードのせいで浮き上がってしまった世代。彼らを見下すことなんて、本当に下らないことなのだと気付いてほしいと思う。

2008-03-06

reponさんの日記のへんなところ

reponさんの日記「敗残兵から一言」(d:id:repon:20080227#1204119760)を読んだときには気の毒だと思った。長時間残業の話とか特に。ひとごとではないしね。

でも「召還していないのにマッチョマンから応答が届いたので、せっかくだから質問します」(d:id:repon:20080304#1204598324)には引いた。なにこの品のなさ。まわりでさわいでるブックマーカーとかはさらに下品。

いや、上品とか下品とかはどうでもいいけど、そもそもの話、弾さんが年収を賭けてもいいと言ったのは

その彼らに思い切って聞いてみればいい。「なんで僕にこんなひどい仕打ちができるんですか」って。

君の年収分を賭けてもいい。彼らにはそんな自覚ないから。それどころか彼らは彼らで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」、と思っているから。

「彼らに、reponさんを苛めているという、加害者としての自覚があるかどうか」

だ。

reponさんは「これマジですか?ホントにくれるんですか?なら納税証明書を送るので、はてなポイントでください。」と勝ち誇っているけど、reponさんは、上司やお局さんに加害者としての自覚があったか、ということについてなんら証明してないじゃないか。この記事に書かれているのは、reponさんがどう彼らに立ち向かったかだけであり、上司とかお局さんの言葉は「怒鳴られてお互いスッキリできるならそれでいいだろ」しか登場しない※1。この言葉が許されないものであることは確かだが、この言葉は、弾さんが言うように「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」と上司が思っていたとしても出てくる言葉だ(実際に言う奴は鬼畜である以上に馬鹿だが)。よって弾さんに対する反論にはなってない。題意からずれた解答。現国試験なら0点だ(で、これを賞賛してるブックマーカーはさらに気味が悪い)。

ふろむださんの言葉を借りれば(d:id:fromdusktildawn:20080305:120468989120080305)、

「うひゃひゃひゃ。

あいつ、トロくてよ、あいつをイジメると、おもしれえんだ!

なんかムカつくことがあると、難癖をつけて、

あいつを怒鳴り飛ばすことにしてんだ。

ストレス解消、すっげえスカっとするぜ!」

なんてことを上司なりお局さんが言ってたというなら別だが。間接にでもこういう証言が取れているのなら※2、堂々と弾さんに年収分のはてなポイントを要求すればいい。

さて、あらためてreponさんの証言を読み返すと、

アナタの言っていることには矛盾がある。アナタは何時何分にこういう発言をしていたはずだ。記録も残っている。その点についてアナタ意図的に口をつぐんでいるようだが、論理破綻していませんか?仕事上のトラブル感情的に処理するのではなく、お互いミスを生まないような環境を作り、支え合うのがひいてはお客様のためになるのではないですか?どうしてそういったチームプレーを飛び越えて、特定の誰かを些細な理由で傷つけ、その毟り合いに同僚を動員しようとするのですか?」

とお局を詰めたこともありますよ。頭に来たので、社員旅行に行ったとき公開で一晩詰めて詰めて詰めまくったら泣き出しましたよ彼女

おいおい、

いじめてるのはどっちだよ!

どうしてこれが

お局が僕のことを「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」と思い、加害者の自覚がなかったか?彼女は確信的にやっていました。

という根拠になるのか? さっぱりわかりません。

どうもこのお局さん※3についてはよくわからないところがあって、最初の日記によれば、

お局が後ろで糸を引いていたからだ。そのことに気づいたのは3ヶ月くらい経ってからだった。お局は、若い人間相談役だった。だから、気づかなかった。

「後ろで糸を引いていた」人らしい。影の権力者? 上司愛人か何か? まあ何でもいいけど、直接にはreponさんに暴言を吐いたりしなかった、ってことでいいのかな。3ヶ月も気付かなかったらしいし。

そんな人を社員旅行の晩公開で吊るし上げたらそりゃ泣き出すよ。「後ろで糸を引いていた」ということ自体、reponさんの推測でしかないわけだし。そもそも具体的にどう「後ろで糸を引いていた」のかすらわかりません。若い人の相談役やってたくらいだから、お局さんは、結構人望に厚い人だったんじゃないの?

それでみんな納得して、うなずいたのに、お局の情報網の方が素早かったのか、みんな口をつぐんで、会議では自分以外パワハラモラハラに対する発言しないですっかり浮いていましたよ。四方八方から集中砲火を浴びせられ、吊し上げられました。裏切られたと思いましたよ。ふざけんなと。お前ら俺の言うことに賛同しただろうと。何で俺だけが矢面に立っているんだと。

陰謀論?

この話の後日談が知りたい。会議の場では、上司やお局さんの報復を恐れてreponさんを裏切るような結果になってしまうこともあるかもしれない。でも、それならその後新人さんの方から謝罪とかあると思うんだけどな。どうも、reponさん、新人クンにも引かれてたんじゃないの? という気がしないでもない。

3年4年経った後、すっかりマッチョになったreponさんは上司にもその矛先を向けます。上司はもはや

「怒鳴られてお互いスッキリできるならそれでいいだろ」

とぼそっと言うことしかできない。これがなぜ「加害者の自覚がなかったか?とんでもない!」の根拠になるのかは相変わらずさっぱりわかりませんが。でも、ここまでマッチョになったreponさんは、新人クンに裏切られ、統括役員にも無視されるわけです。こんなパワハラや長時間残業がまかりとおる会社がそんな大会社とも思えないので、統括役員だって顔の見える範囲にいるんじゃないかな。でも意見を聞いてもらえない、と。

どうも、書かれていない事実があるように思えてしょうがない。

reponさんが提示した直接的な事実がすべて事実だったとして、それでも私には、この上司やお局さんは、愚かで感情的ではあったかもしれないけれど、積極的に加害者の自覚を持ってreponさんをいじめていたとは思えない。以後は想像だけど、reponさんは、(こんな現国0点のエントリを書くことからわかるようにどう考えても論理的な人ではないけど)弁の立つ人ではあったんでしょう。だから、こういう日本的だか体育会系だかわからんような会社では疎まれた。それだけのことだと思います。

こんな腐れた会社(部署?)を是とするわけじゃないです。でも、会社内において視点が顧客じゃなくて役員を向いてるなんてのはよくある話。上司さんは愚かではあったけど積極的な悪人ではなかった、と思う。

だからこそ、「小市民小市民の足を引っ張る」現象なんですよこれは。

そうそう、補足。

2年で辞められたら、会社としては1??2千万円の損害なんですよ。それまでに支払っていた給与や社会保険折半分、雇用保険労災保険の負担が全てムダになるんですから。

まったくです。

「使いすて」なんて、投資費用を回収せずにどぶに捨てるようなものなんですよ。人事や経営陣がそれをきちんと理解していれば、経営的な観点から見ても新人をモラハラ長時間労働スクラップにすることは大変な損害で、そんな一文の得にもならないことはやめさせて当然なんです。

なら雇い入れるなと。採用するなと。投資を回収できなくて何が経営だと。

経営者だって神じゃないんだよ!!

どうもね、最近の一連のはてダを見てて、上司とか経営者を悪者にする人には、「自分がそれをやったらどうなるのか」という視点がすっぽり抜けているように見えるんですよ。弾さんの

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50841971.html

うらやましいなあ。上司のせいに出来て(棒読み)。

という言葉が身にしみる、中間管理職残業代出ない残業バリバリの日々。

※1「repon君が異動するのは我が部署にとって大変な損失だが、みんなでカバーしよう」は本意ではない発言として扱われているようなので除外する

※2 で、実際には大人がこんなことをそうそう言うわけないので、この命題はもともと検証不能なのね。だから弾さんは気楽に年収を賭けることができるわけだ。ここが弾さんのずるいとこ。

※3 この言葉自体侮蔑語だと思うが。

2008-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20080222075422

ごめん、この議論に関わるつもりは全然無いんだけど、会社勉強会命題論理勉強したのの

いい復習材料になりそうなので、使わせてもらいます。

()は文章に書いてないけど勝手にこっちで補足した箇所。

----------------------------

[主張1]

私は近藤さん頭がいいと思わない(頭が悪い)

(なぜなら

)

[主張2]

優秀な社員は次々にやめ、はてなどんどん衰え(てい)る。

  • 近藤氏はインタビューで「私が日本にいたら彼らも留まっていたかもしれない」といっているが、そうではない。
    • 彼らは
    • はてな”という会社に魅力を感じなくなったから
    • かつ
    • 近藤氏の行動にも魅力を感じなくなったから
    • やめた

[主張3]

Googleなど基盤を持っていないIT企業にはどうしても会社としての賞味期限がつきものだ。

(よってこの主張の対偶 「IT企業がすぐに倒れない ならば 常に新しいサービスを出し続け、ユーザーの興味を持続させ続ける かつ 広告以外でのビジネスモデルを展開する」 が導かれる)

[主張4]

(

  • [主張1]頭が悪いし
  • [主張2]社員にも見限られているし
  • [主張3](新しいサービスを出し続ける) かつ (広告以外でのビジネスモデルを展開する)ができていない よって はてながつぶれる

なので

)

近藤氏ははてな社長として適任ではない

[主張5]


----------------------

こんなところかな。この文章自体の主張は主張5になると思う。

主張5に反論したければ、主張4か、主張1,2,3の全部を否定すればよい。

さすがに「近藤氏がはてなの成長を望んでいる」というのは否定しちゃまずいだろうし。

手っ取り早いのは「はてな経営の適任者の必要条件てなによ?」と聞いてみることかな。

この文章の隠れた前提として、近藤氏より優秀な経営者がいる(、かつ、その人が

はてなに来てくれる)というのがあるみたいだし、優秀な経営者の条件を聞いてみて、

その穴を指摘してやればいい。

2008-01-25

誰もお前にそんなに興味ないから大丈夫だと思います。

これは言っちゃ駄目でしょ。いや、確かに命題としては正しいのだろうけど。

2008-01-09

書評サイトに対する作り手側の視線http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080104

ダメ書評」に対するマンガ編集者の視線http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080105/1199483357

映画監督原田眞人監督日記サイトから抜粋したものを引用しておこう。

2007/8/28より

ネットのおかげで「映画ファン」のスタンダードどんどん堕ちている。どんなにつまらない感想でもだれかに届く時代になってしまった。幼稚な否定的意見が数値となり記録され作品の「評価」として定着する事態も生まれている。こういう「悪貨」を駆逐することは作り手にはできない。「良貨」、「良識派」といった本物の映画ファンの使命だ。彼らが前へ出て大きな声でものを言うことを時代は要求している。すぐれたものに出会ったら本気で褒める。本気で拍手する。それは、映画作りのプロセスに比べたらそれほどむずかしいことではない。

2007/12/25より

日本人の劣化はいろいろなところで顕著だ。ネットの書き込みに見られる「映画ファンの声」でも良識派は少数。席巻しているのは恐ろしくレベルの低い連中だ。自分の小さな世界フィットするものが「いい映画」でそれ以外は「ダメ映画」と言葉少なに切り捨てる幼児的な権威主義がまん延している。当然、学ぶ姿勢が皆無だから映画的素養の深い映画というものは全否定してかかる。そういう「縁なき衆生」に「一票の重み」を与えて増長させているネットとはなんなのか。少なくとも英語圏では映画的素養の深い人々によるプロ映画評がどういうものか集めて読ませるROTTEN TOMATOESのようなサイトがある。日本語ではこれに匹敵するものがない。ネットで高得点を弾き出しているのはベタ映画だけだ。マニュアルのごとき情報垂れ流しで見る前からどん映画かわかっていて見たらそのとおり、なんの発見もない映画が好まれる世界だ。そして、映画界がこういう傾向に迎合して動いている。ヒットする映画はますます公式化して、無能な監督を要求する。ビジネスは成立しても文化は荒廃していく。日本ではとっくに「映画は死んだ」のかもしれない。

2007/12/29より

ヴァーチャル多重人格のテアイの書く「酷評」というのは酷評になっていない。プロ映画評論家の酷評でも作り手にとってどこまで酷評になりうるかという命題を先ず理解しなくてはいけない。作り手をどきりとさせる酷評を書くためには最低でもその作品の背景、技術面をおさえていなければ無理だからだ。

同じことを作家がやったら懸命なる書評ブログの方々はどう反応するのだろうか。

2007-12-21

大体の人は、開発が終わった時点でそれに気づき

「へーそーなんだ便利だねえ」

で、別にそれがなかったからと言って充足しないわけではないと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20071221144203

あと食物をそんなにいっぱい作っても価格が下がって交換できなくなって、奢侈品や便利なものの価値が上がって、それを作るのを生業にする人も出てきて、洗濯機冷蔵庫や工芸品や自動車はてなシステムを作るのが生きていくために合理的になるわけだ。あなたもたぶん第一次産業以外の労働者だよね?

http://anond.hatelabo.jp/20071221111101

開発が終わると財の価値が下がるんだよ。だから新しい財を作らないといけない。遺伝子組み換え作物が出来たのもどんどん農作物価値が下がったからより価値のある財を求めた結果なんだよ。

だから人間は自律運動する経済機械で、ここをブレイクスルーしないと環境リソースを使い果たしちゃって自分たちのエントロピーで首を絞めることになるんだってば。それをどうするか、またそもそも前提となってる「経済機械リソースを使い果たす可能性がある」って命題が真か偽か、ってのが環境問題の本質だろ?

2007-12-20

相変わらず何かずれた反応が返ってくるんだなあ

シロクマ氏がこんなに簡単に釣れるとは思わなかった。ブクマより。

つまりあなたは、その階梯を念頭において優越感ゲームをなさりたいわけですね。そしてそのお山の頂上に君臨することを理想としているわけだ。尊敬、して欲しいんですか?

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20071219225747

そのとおり、これは優越感ゲームというものですよ。ただし誤解めさるな、そのゲームを仕掛けてきたのはモテの側であって私ではありませんよ。私はただカウンターを一発返してやっただけのこと。ゲームから逃げようとするよりもゲームに負けない方が手近な手段だったからそちらを取ったまでというわけですな。


あと、こちらの増田氏はなんかずれてるんだよなあ。

さてあなたはどうだろう、高学歴と言う戦略を選んだようだが収益はあげられているかい?

こんなところで愚痴めいたエントリーを書いてるところを観るとそんなにうまく行っている訳じゃなさそうだ。

リアルで充実』とはかけ離れた生活を送っていないかな?

低学歴モテは、『あなたがモテによって収益をあげられるのであればその努力をしろ』と言っているのである。

そこであなたが、学歴以外の手段で収益をあげることに成功している人間に向かって

学歴努力なんでしなかったのww』と言ったところで無意味である。

彼らは目的に達するための戦略選択に成功しているのだから。

たとえば鉄道会社にとって、飛び込み自殺が増えると大損害であるわけですよ。事故処理だけではなく、客足も遠のきますからね。これを改善するために必要なのは「サービス向上」とかではないでしょう。まずは飛び込み自殺を何らかの手段によって防止すること。そのためには国に働きかけてメンタルヘルス対策や失業対策などの施策を打って自殺を抑止するのも手段でしょうな。

この場合「飛び込み自殺」にあたるのが「モテの『努力しろ』攻撃」なのですよ。おわかり?収益が上がらないのは外部の環境が悪化したからであって、経営努力が足りないのではないのですよ。

それからもう一つ、学歴社会に延々と怨恨を撒き散らしている人間が「収益をあげることに成功している」とはこれいかに。それならば、私も恋愛以外の面では「収益をあげることに成功している」と評価していただいてもよさそうなものですけれどねえ。

※ちなみに人間と言う括りをはずした生物としての生きる目的は言うまでも無く子孫を残すこと。

よくある間違いなのでここにはちょっとマジレスしておきますが、これは全然違います。違うというかそんなこと誰が決めたと問いたい。あなたは多分「自然選択」という記述命題を当為命題とごっちゃにしているんです。「自然選択」というのはいうならば「生存能力を備えた個体が(統計的には)生存する」というようなトートロジー(というか自然科学命題は性質上全てトートロジー)なのであって、「生存能力を備えることが個体の目的である」なんてのは余りにもひどい飛躍ですよ。

2007-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20071204230324

もし、議論における勝利が、圧倒的な論理によって相手を屈服させることだと仮定するならば、プロセスを楽しむための議論とは相容れない。

だが、そもそも、議論において我々が目指すべき最終到達地点は、相互に尊敬の念を交わし合うことを基点として、自分の主張の正当性を主張し、相手の反論に見るべきところがあれば採り入れ、見るべきところがなければ再反論をし、また相手の主張に対しても反論、再反論と重ねていくことによって、お互いの総力を結集し、ある命題についての自らの持つ主張をよりよい主張・解決方法・結論に昇華させるところにあると考えるべきではないだろうか。

そうとするならば、プロセスを楽しむための議論とは矛盾しない。

ここにおける勝利とは、楽しく論理的で、たまに感情的プロセスを経て、よりよい主張・解決方法・結論を導くことだといってよい。

http://anond.hatelabo.jp/20071204155426

間接民主はそれを薄めただけだから無意味

民主政自体が「定義は発展する」という命題に反している

定義は発展するという基本公理に合うのは

人格者

2007-12-03

何不自由のない暮らしだけど何か満たされない

そんな夜もあるだろう

何を恐れているのかも わからず街を飛びだした

必死でつかもうとしている 栄光は大きな意味

明日に投げかけたとしても 望まない結末もある

繰り返す暮らしの中で 避けられぬ命題を今

背負って 迷って もがいて 真夜中

出口を探している 手探りで

賽を振る時は訪れ 人生の岐路に佇む

共に見た数々の夢を 追いかけ汗を流す仲間もいたな

声を上げ駆ける少年を 振り返る余裕すらなく

擦り切れた若さの残り火 この胸にくすぶらせている

「未だ 夜明けは遠く」

「生きてゆく為の賢さを 今ひとつ持てずにいるの?」と

誰かがふいにボヤいても それはみんな同じだろう

細やかな喜びの為に いくばくかの情を捨てた時

夢を大事にしろよなんて いつからか言えなくなっていた

独りにはなりたくないと 泣き濡れた夜もあったな…

あの日々の2人がなぜに こんなにも愛しく見える ずいぶん遠くへずっと遠くへ

2人肩をならべて歩んだけれど

愛は愛のままじゃいられず いつか形を変えるだろう

共に生きる家族 恋人よ 僕はうまく愛せているのだろうか

よくできた解答の果てに 悩みぬく世の中はなぜ?

平凡で手アカのついた言葉でも 愛してると伝えてほしい

親の言葉も聴こえなくなるほど 遠くに来ました 幼い頃の子守歌を手に

夜明け前 独りで高速を走った 過ぎゆく景色 季節 思い憤り全てを越えてみたくて

賽を振る時は訪れ 人生の岐路に佇む

今いる自分を支えてくれた人 この歌が聴こえてるだろうか?

祈るような毎日の中で もっと強く生きてゆけと

少しだけ弱気な自分を励ます もう戻れぬあの日の空

人の優しさに触れた時 なぜか想い出す事がある

初めて独り歩き出した 幼い僕を見つめるその愛

2007-12-01

そもそも

民主主義論理破綻してるんだが

ここをろむっているような頭の悪い市民

マスコミの強弁で洗脳されているので

みんなで決めることが正しいと

思い込んでいる

人格者まとめは民主主義が虚偽命題であることを

証明しているので必見

http://anond.hatelabo.jp/20071201170633

マスコミが刷り込んだ陳腐な命題価値観はバラバラ」を

信じてる可哀想な人発見

早く悟ればいいのにね

人格者まとめ再掲 2

定義には優劣がないとすると

社会をよくするという発想はないことになる。

しかしそういう発想は確実に存在する。

ゆえに前提がおかしく定義には優劣がある。

優れた定義とは何か。

人格者のいう定義である。

では人格者とは何か。

道徳的な人格者の議論をする人がいるが、

定義は社会に共有されるものなので

人格者道徳人格者と一致する必要はない。

定義を生む人格者は、社会的な人格者であればよく

プロセスを経て生まれた資格者である。

資格を与えることで反証可能性が生まれ

「俺が人格者だ」「いや俺だ」という

神学論争が消える。

そもそも神学論争を消さなければ社会

前進しないのでこれは必須。

ではプロセスとはいかにあるべきか。そもそも

プロセスは単線的に決まるのではなく、

社会の中で生成される

これは言語文法が最初からあったわけではないのと

同じだ

言語文法は言語的発展の中で結晶

プロセスもまた同じである

すなわち言語社会はそれ自体を乗り越えて

発展させようという性質があり

それがプロセスを発生させる

プロセスが完成した後は、プロセスによって

生まれた人格者の判断の積み重ねにより

発展する

つまり社会の試行錯誤で一応のプロセスが出来、

それが約束となり、プロセスから人格者が生成され

人格者がそのプロセスに手を加えて改良し

よりよい人格者を生成するプロセスを作る

そして他方で人格者は判断を積み重ねることで

よりよい定義を生み出し、悪い定義は消し、

そうやって定義が発展していく

それが一応でも良好妥当ならそれを

正義と思うしかない


日本ドイツに範をとっていた頃は

そのシステムがあったが

アメリカに鞍替えして

もとあったシステムアメリカシステム

接合させたのでガタガタになった

よい定義を追及するのを捨てたわけだ

定義群をメタ的に捨てた

アメリカというのはよりよい定義の発生しない国だが

そのアメリカ文化をどうにかくっつけようとして

すっころんだわけだ

いま日本が狂ってるのはこのせい

消化不良と言うか要はごっちゃにしたので

糖質になっている

政治は統一的でないと国内が混乱する

そこで政治を統一する必要がある

そこで生きてくるのがこの議論

で、ではプロセスはどこにあるかということ。

これを見つけ出すのが問題。

ちなみに、民主主義は、人格者ではなく大衆が定義するわけだが

定義に優劣がない、改善の契機がない時点で

意味が発展するという直観と

定義には優劣があるという命題に反する。

ゆえに、民主主義自体、虚偽。

民主主義完全敗北

民主主義の敗北が確認されたので、

みんなで議論して決めることの価値が否定された

ゆえに議論は意味がない。

そういや

一番初めに「定義に優劣はない。決まったものが定義だ」と

いってたがこれが民主主義


定義に優劣がないという命題背理法で消え去った

定義には優劣がある。

この時点で民主主義は完全に誤り

良い所取りではない

当たり前の政治理論

理想論に強引にカテゴライズして

理想論は幼稚という命題

押し込み、安心したい人がいる様子なのが分かった。

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