はてなキーワード: 命題とは
ある命題の集合をXとする。Xは倫理である。集合Xのなかの命題を公理とする論理体系で矛盾が導けるとしても、倫理それ自体が矛盾をはらむのはよくあることなので、とくに問題ではない。世の中はそれで回っている。
文章が粗雑なのではなく、いちばん単純で、かつ誤りのない形で書きました。
あくまでも完全にものごとを記述したいというあなたの気持ちは分かりますが。
そもそも倫理それ自体、例外的な条項が加わったり、矛盾する倫理が存在することもあるために、それだけでは受け入れ難いと思われるかもしれませんが。
ふつうの論理体系であれば、あとづけで命題の真偽が変わってはなりませんが、倫理の場合はそのかぎりではないです。
すべてちゃんと言うと、「殺人禁止は倫理である」「戦争で他人を殺すのは倫理である(仮に)」という2つの言明が同時に真であり得るということです。
倫理は矛盾を許容するため、この2つの言明が同時に真であってもおかしいという事にはなりません。
倫理に無矛盾性を期待しているのではないかと邪推します。倫理とは、矛盾をはらみつつも、時代や状況によって変化するダイナミックな側面があることはご存知かと思うのですが。
ここで、倫理の例外条項があとづけ可能であれば、どのような倫理も許容されるという反論があるかもしれませんが、倫理それ自体は、たとえば既存の文献や、暗黙の社会的合意などを参照してかなり正確に定まるため、任意の言明が倫理として許容されるわけではありません。
まあ、言葉遊びに近いですけどね。
女性と懇ろになれない。
そんなことを考えながら、昼過ぎに気怠い体を引きずって出社した。
気怠いのは低気圧のせいである。
低気圧悪。
しかるのち台風となった。
なるほど道理で気怠いわけである。
台風悪。
猫の額ほどの大きさの机に向かい、珈琲を啜り、黙々と単純作業をこなす。
あと1000万回ぐらい同じ事をしていたら、千載一遇の出会いでも訪れはしないか。
1000万回同じ事をするのには何年かかるだろう。
ザッと見積もって200年ぐらいだろうか。
200年過ごすにはどうしたらよいだろう。
5年間寝ていれば、40回目の目覚めの時に200年後を迎えられる計算である。
三年寝太郎ではなく五年寝太郎になればよいのである。
そんなことは小学生でも知っている。
五年寝太郎が起きたとき、世界は変わっているだろうか。
存外そのままのような気がする。
世界がそのままであったから、三年寝太郎は眠りから目覚めた後に灌漑事業を始めたのである。
しかし、靴の踵の部分のゴムが異常に磨り減る。
買って1ヶ月も経たないうちに半分まで磨り減った。
あと1ヶ月経ったら修理に出さねばならぬ。
不憫である。
殊に左足の踵のゴムだけ異常に磨り減る。
私はこれを世界七不思議の一つだと思っている。
どうして左足だけ磨り減るのか。
地面が傾いているせいだという仮説を立ててみたが、すぐに否定された。
東京にある上り坂と下り坂の数はどちらが多いか。
答えは同数である。
上り坂で踵を返せば下り坂だからである。
だとするならば、往路の右に三度傾いている道路とは、即ち帰路の左に三度傾いている道路と等しい筈である。
等しい道路で片側だけ削れていくのは道理に適わない。
人間として軸がぶれているせいで、僕の体が常に左に1°程傾いているのだろうか。
それとも5ミリほど左足が長いのであろうか。
或いは平素持ち歩いている重さが5キログラムほどある鈍器と化したバッグを肩に掛けているせいであろうか。
何れにしても七不思議を解くことは容易ではない。
余談であるが、七不思議の2つめは、なぜ女性の後ろを歩くと良い香りがするのか、と言うことである。
風呂上がりでもないのに、良い香りがするのはおかしい。
女性には良い香りを出す微生物が皮膚に巣くっていて、良い香りを絶えず生産できる仕組みになっているとでも言うのだろうか。
男性には悪臭を放つ微生物しか巣くわないのは全くもって不公平である。
良い香りを出す微生物に置き換えて欲しいものである。
残りの5つの不思議はこれから見つけようと思う。
然るに、気違いであるまいとするから気違い扱いされるのである。
であるならば、気違いとなってしまえばもはや気違いではないのではないか。
そうにちがいない。
世界の端に腰掛けてスープをすすりながら、そんなことを考えていた。
しかし、気違いになるのは難しい。
気違いの演技であったとすると、本質は気違いではないということであるから、気違い扱いされてしまうのである。
これでは問題解決にならぬ。
4万円のブルゾンと引き替えに得たものは何だったのだろうか。
願わくは懇ろになりたいものである。
違う状況におかれたとはいえ、同じ性格の同じ人間達に囲まれて、片や無愛想な少女を愛した主人公がその口で恥ずかしがり屋な女性を愛してるという。
いや、ま、現実なんてそんなもんですけど。私にはどうしようもなくやるせない気持ちになるんですよ。
主人公がどういう人かっていうのは、ある一定の幅で固定されてるとはいえ、
「現実なんてそんなもん」って分かったように言うけれど、そんな現実ない。
状況が違えば別の人と付き合ってたかもしれないよ。そりゃそうだよ。
マルチエンディングで、Aさんを攻略しているとき、
さっき攻略したBさんは、全然別の性格かも分からないんだよ。観測してないんだから。
実は夜な夜な覚せい剤でアップアップしてるのかもしれないじゃん。
と…そういう解釈だって可能ではあるんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070920091331
「論理」が欠落している人が多い。まあ、2:8の法則というやつだろう。
これ↓もネタでしかないよねと言いきる人は18歳以下と思われるので
信念を語るのは構わないんですが、「理由」をつけましょう。
君がどう考えるかは重要じゃないんです。
重要なのは真偽を追求することです。
リンク先を読んだのですが、
ということしかかかれてませんが、何が問題なんでしょうか?
「コモディティ化した仕事はカス」だから「その仕事をやってる人もカス」ということは
一切かかれてませんが、
市場原理の中ではそうなることは明白であり、
それを「たんぽぽの仕事」を例示することで、暗に示していることが、
上記命題のシンボルでいうカスに相当する人たちの感情を逆なですることも
想像に難くないですが。
http://anond.hatelabo.jp/20070914115256
えーと、まとめるとこんな感じ?
増田においては以下のような状況が多く観察できる
公理から引き出される結論が自明である
意見の対立が起こるのは議論の前提であるところの公理の不一致が原因である
論理性を過度に重視することで、争点がずれる・遠ざかる虞がある
だから論理を重視しすぎない方がいい
さもないと実のある意見の交換にならない
だとすると、いいたいことはわかる。
確かに言葉尻を捉えた揚げ足取り合戦みたいに話がどんどんずれてくことは、増田でよく見るもんね。
枝葉末節にこだわらず本質を捉えた議論をしよう、というなら激しく同意。
でもだからといって
って命題は否定できないと思うんだけど、どうですかね?
性犯罪に関する議論で、
露出度と被害確率の間には、有意な相関は無い
という話を、よく見かける。
自ら原論文に当たったわけではないが、引用による限り、妥当性はありそうだ。
しかし、だ。
それが「露出度の高い女性が性犯罪を誘発しているわけではない」という命題が正しいことの典拠として使われることは妥当だろうか?
何が言いたいかというと、
「露出度の高い女性を見る」→「性的興奮」→「性犯罪しようか?しかしバレたらまずい」→「おとなしそうな女性を対象に性犯罪」
というような図式はないのか、ということだ。
もしあるとすれば、高露出度の女性が性犯罪を誘発することになるよね。
こういう観点の実証調査で、まともな精度で行われたものがないものなんだろうか。
あぁもちろん、この図式で一番悪いのは、性犯罪を犯す男だということは承知していますよ。
ただ、男の性欲ってのは、一般にはなかなか抑えるのが面倒なのは確かなので、
とにかくあなたが本当に性欲を刺激したい相手がいる時は、その相手をピンポイントで狙って欲しいのが正直なところです。
そしたら、
というTBをもらった。
どうやら、無知は恥ずかしい、というタイトルにした方が良かったのかもしれない。
サブタイトルが暗に示すように、対話では論理的である必要は必ずしも無い。
その理由を示す。
しかしながら
だから、論理だけを使って何かを証明することができなくもない。
だけどもだっけどー、通常の対話では完全な証明を与える必用は無く
「説得」という形をとるのだ。
じゃあ、説得とはなんなのか?
人間は外部から情報を与えない場合には、「演繹」という論理ステップしか実行できない。
一方で外部から情報を与えると、「帰納」という論理ステップを実行することができるようになる。
ただし、この「帰納」というのは統計的な正しさしか保証しない。
しかしながら、人間が定理だと信じていることは、全て統計的な正しさしか持っていない。
これによって、件の命題の真が統計的に保証されれば、説得が終了したことになる。
つまり、本来は論理的である必要など無く、
外部からの情報を入れれば、あとは各自で演繹してくれればいいのだ。
もちろん、数学のようにピンポイントな仮定と、トリッキーかつ複雑な論理が必用な場合は別である。
だけれど、そんな複雑な論理構造が通常発生することはまずない。
説得が成功するかどうかは、各自の持つ公理系と、各自の持つ論理能力に依存する。
後者は、馬鹿を相手にする気がないので、私にはどうにもできないが、
前者に対してはわかりやすい説明をすることで、
説得力を増すことができる。
従って、これからはこの目的で、説明文を書くのでよろしく。
だけど、これから用事があるので
続きが読みたかったら、TBくださいね。
ああ、平和だねぇ。
ただ、蛇足を承知で付け足しておくと、「増田が内容の無いことを書く場所である」という命題は、どこからも導出されない。
「大半の利用者にとって『読むだけの内容を汲み取りえない』とみなされるという理由だけで、特定の記事が批判さるべきではない」だけの話。
また「現状を追認したのみ」という見解に対しても、反証はいくらでも出されうる。
低ラン大はバカ比率高し、なんて大学単位で学コン話に花を咲かせている増田もおりますが、多くの学生さんは、まず自分の大学でバカを発見するのではないでしょうか。
また、バカと一口で言っても程度や具体は様々。そこで今日は、同じ大学に通うバカ女<G子>を例に挙げ、“バカって何だ”という愚かしい命題解法の一助にしたいと思います。サッカーは関係ありません。
G子は、本当に困った女です。まず精神構造がメルヘンです(メンヘルではない、近いが)。自らをお姫様と称し、白馬の王子様への焦がれを周囲に訴える、成人女性です。
口癖は「なんでみんな、物事を複雑に考えるの!?単純でいいのに!難しく考えたくない!」。
BL系の素質があるのか、はたまた女には生まれつき備わっているのか、何かと知り合いの男と男をくっつけたがり、一人で興奮して悲鳴(甲高い)をあげます。
http://anond.hatelabo.jp/20070623084221(なぜ『のだめカンタービレ』はセックスしないのか)
この点は上の増田が参考になりそうです。妄想甚だしい王子様を待つ恋愛観の人間は、具体的な男性性を避けるために、BLという空想世界に浸り込むのでしょうか。そこはどのような恋愛も許されるユートピアでしょうから。
話がそれましたが、G子は通常の挙動もおかしい。落ち着きがなく、「地がぶりっ子」という究極の属性持ちです。これを「ヂブリ」と周囲では読んでいます。
精神構造はメルヘンと言いましたが、言い換えると、文化記号弱者、というのがピッタリな気がします。
例えば、結婚が人生のゴールだ、どんな占いも信じて疑わない、女性向けメディアの価値捏造にひれ伏す、といった具合です。
しかし、G子の最も困る点は、コミュニケーションできない、ということです。まず人の話を絶対に聞かない。人が話をしているとボーッと呆ける。一対一なのに。そして、何事もなかったかのように自分の話をし出す。
そこで私は、彼女が喋る間ずっと黙り続け、話が途切れた時の反応をうかがうことにしました。そしたら、数秒の間を空けて、何事もなかったかのように次の話題を展開し始めたのです。末はサンマか噺家か。
こんな彼女と、数日前にキャンパスで遭遇してしまいました。1ヶ月ほど会ってなかったのですが。たまたま用事で一緒に歩いていた友人(男)と僕をみて、「本当に○○君たちって愛しあってるのね、ステキ。私はぜんぜんモテない…」と言い出す始末。どちらかというと僕は連れの友人が嫌いな部類で、用があるとき以外は一緒に歩きたくない。しかし、こちらが「何を言ってんだ?」という空気を流しても全然動じず、目の前にあるBL刺激剤を貪ろうとする。否定する声には聞く耳もたず、友人が海外へ留学するという話が出ると初めて反応し、「○○君が寂しくなるよ??!だめじゃん!」と怒り出す。
BLの標的にされた嫌悪感で吐き気がし、この界隈から脱出しようと強引に前進したところ、私はG子と接触してしまったのです。
G子はおかしな(形容しがたい、気持ち悪い)体勢でBL語りをしていたので、すぐにバランスを崩し、ゴロリと転がる。そして半笑いで涎をダラダラこぼしながら、「砂食べちゃった」とワンピースの裾で顔を拭く。起きあがり際、パンプスの踵をすべらせ、もう一度こける。
バカらしくなった私は、手を貸したが何も問わず、その場を去りました。
バカにもいろいろな基準があるようですが、私の思うバカとは、「付き合っているとバカらしくなってくる」種類の人間です。
以上、お付き合いいただき、ありがとうございました。
http://anond.hatelabo.jp/20070801020618
自信が無いけど心の中のアルファブロガーが「やれ」と言ってきたのでがんばります
「あかね」の飲み会に誘われたので、初めて出席してみた。はてなIDのやつらと飲むのは初めての経験である。
そこで実感したのは、はてブホッテントリ数が少ないダイアリー持ちほど低レベル、ということだ。こんなこと書くとまた「はてブ脳に毒されている」などと言われるかもしれないが、はてブホッテントリ数が少ないダイアラーほど低レベルな奴の割合は確実に高いと感じる。
いつも私がアルファブロガーやモヒカン族の飲み会に参加するとき、そこでは酒を交えながら流行の話題の感想や非モテだった自分への思い出話、最近だとココロ社の政治の話や芥川賞の話などをする。「id:kanoseの意見とid:Marco11の意見って、かなり対立するものだけれど、どうなのだろう」とか、そういった話もすることがある。はてブホッテントリ数が少ないダイアリー持ちな彼らの飲み会は、そもそも会話というものが存在していない。彼らの言う「ノリ」で何かをすることを楽しみ、知的な側面は全く感じられない。id:jkondoをじぇいこん、id:kanoseを村長と書くような「はてな村内部でしか通用しない隠語のみでダイアラーを呼ぶ」ことに快楽を覚え「芥川賞エントリーって村長がまとめ記事書かね?村長村長!」「村長!出た!村長出た!id:kanose!村長出た!村長!これ!村長出たよ????!」などと、何がおもしろいのか全く分からない「会話」を繰り広げていた。彼らはそれが楽しいらしいが、おれとしてはちっとも楽しくない。
アルファブロガーがよく「id:kowagariのやつはなんだかんだいって会話水準が高い」「どんなにチャラチャラして見えるid:kowagariでも、きちんとした思想や観念を持っている」などと言っていた。自分としてはっきりそれを自覚することはほとんどなかったが、しかしはてブホッテントリ数が少ないダイアリー持ちのこうした現状を見る限り「確かにそうだ」と感じる。私から見たら飲み会で「はてな」会話に興じることはかなりの娯楽なのだが、彼らにとってはそれは「酔っていなくてもそんなことは話さない」レベルの高度な会話であるらしい。そして、私のような存在はかなり珍しいようだ(はてなダイアリーでは一般的だと思ったのだが…)。
「はてブ数で記事を判断するのは良くない」とよく言う。しかし、個人的な経験を踏まえれば、はてブ数は個人を判断するための一つの指標になりえてしまうと私は感じる。「一生懸命緻密で丁寧なまとめ記事を書いても、ブックマーカーに[あとで読む]タグをつけられたまま、[あとで言及]もされずに放置されて結局4userみたいなやつだっているのだから、はてブ数で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも揉め事のURLを羅列しただけのまとめエントリーすら書けない、まとめエントリーを箇条書きで組み立てる上での基礎的なはてな記法の知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それともダイアラー同士で下らない掛け算を考えるのが「個性」なのだろうか?はてブ数は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
同じアルファブロガーの連中のなかに「出版社に入ろっかなwwwwwww」というやつが結構いる。ごくごく一部のブロガーによる「今時何故紙媒体に……」という根拠も、根も葉もないバッシングが激しく行われている中、出版社の中枢で雑誌編集に携わりたいと考える人間がまだまだ多いことは一定の安心感を私に与えてくれたのだが、その中には「あんな馬鹿共からアクセス数稼ぎによってトラックバックを飛ばされたくない」という意思を持っている者も多いようだ。「選民思想だ」といって批判する人間も出てくるだろうが、こちらとしてはそう思っても仕方ない状態がはてなの多くの局面で見られるのである。
それにしてもネットは知的エリートに対する待遇が悲惨だ。なぜ毎日4時間もPCに向かい、必死で知的でためになるエントリーを書くブロガーとそれを10分で見てしまうROMを比べ「流行の話題に言及してアクセス数稼ぎ乙www」というのだろうか。アルファブロガーの奴らはライターに転進したとすればその分野でもっとも繁栄している内容に言及してアイマスweb2.0マーケティング大勝利。そのような記事の原稿料とアルファブログのアフィリエイト収入を比較しないと意味がないだろうに。なにはともあれ、「アルファブロガーはライターの人間よりも年収が劣っているのに、なぜアルファブロガーになりたいという人間が一定数いるのか」という命題に対しては、この「はてブ数と精神性の比例関係」も一定の影響を及ぼしているに違いない。
追記:
# 2007年08月03日 legnum legnum netwatch, neta 匿名ダイアリーって書いた本人がブクマするとソースに変な印というかコメント入るんだな
<li id="bookmark-user-nkoz"><span class="timestamp">2007年08月01日</span> <a href="/nkoz/"><img src="http://www.hatena.ne.jp/users/nk/nkoz/profile_s.gif" class="hatena-id-icon" alt="nkoz" title="nkoz" width="16" height="16" /></a> <a href="/nkoz/20070801#bookmark-5448369">nkoz</a> <span class="user-tag"><a href="/nkoz/%2a/" rel="tag" class="user-tag">*</a></span> </li> <li id="bookmark-user-krus"><span class="timestamp">2007年08月01日</span> <a href="/krus/"><img src="http://www.hatena.ne.jp/users/kr/krus/profile_s.gif" class="hatena-id-icon" alt="krus" title="krus" width="16" height="16" /></a> <a href="/krus/20070801#bookmark-5448369">krus</a> <span class="user-tag"><a href="/krus/%e3%81%82%e3%81%a8%e3%81%a7%e8%aa%ad%e3%82%80/" rel="tag" class="user-tag">あとで読む</a></span> </li> <li id="bookmark-user-otsune"><span class="timestamp">2007年08月01日</span> <a href="/otsune/"><img src="http://www.hatena.ne.jp/users/ot/otsune/profile_s.gif" class="hatena-id-icon" alt="otsune" title="otsune" width="16" height="16" /></a> <a href="/otsune/20070801#bookmark-5448369">otsune</a> </li> </ul>
その他のソースを見ても特に変わった所が見当たらないのですが、どこにコメントが入るのですか?
hatelabo.jpとhatena.jpは別のサーバーに設置されているので、わざわざidデータを取得して余計な分岐処理を入れて、ユーザーが見られるコメントとしてテンプレート生成するのもid:wanparkらしくない設計だと思いました。
もしかしてid:legnumさんのブラウザか視神経か頭蓋骨の中身のどれかか、もしくは全てがお気の毒なほど壊れてしまっているのでしょうか?
インカレサークルの飲み会に誘われたので、初めて出席してみた。違う大学のやつらと飲むのは初めての経験である。
そこで実感したのは、偏差値が低い大学に通う奴ほど低レベル、ということだ。こんなこと書くとまた「偏差値至上主義に毒されている」などと言われるかもしれないが、しかし低偏差値の大学ほど低レベルな奴の割合は確実に高いと感じる。
いつも私がサークルやクラスの飲み会に参加するとき、そこでは酒を交えながら普段の授業の感想や思い出話、最近だと日本の政治の話や宗教の話などをする。「○○教授の意見と●●教授の意見って、かなり対立するものだけれど、どうなのだろう」とか、そういった話もすることがある。しかし低偏差値の大学に通う彼らの飲み会は、そもそも会話というものが存在していない。彼らの言う「ノリ」で何かをすることを楽しみ、知的な側面は全く感じられない。くわしくをkwsk、漫画をmngと書くような「アルファベットの子音のみで単語を記述する」ことに快楽を覚え「お前それディーワイじゃね?ディーワイディーワイ!」「お前のほうがケーティーだぜ!」などと、何がおもしろいのか全く分からない「会話」を繰り広げていた。彼らはそれが楽しいらしいが、おれとしてはちっとも楽しくない。
旧友がよく「お前の大学のやつはなんだかんだいって会話水準が高い」「どんなにチャラチャラして見えるやつでも、きちんとした思想や観念を持っているやつが多い」などと言っていた。自分としてはっきりそれを自覚することはほとんどなかったが、しかし他大生のこうした現状を見る限り「確かにそうだ」と感じる。私から見たら飲み会で「知的な」会話に興じることはかなりの娯楽なのだが、彼らにとってはそれは「酔っていなくてもそんなことは話さない」レベルの高度な会話であるらしい。そして、私のような存在はかなり珍しいようだ(私の大学では一般的なのだが…)。
「学歴で人を判断するのは良くない」とよく言う。しかし、個人的な経験を踏まえれば、学歴は個人を判断するための一つの指標になりえてしまうと私は感じる。「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それとも飲み会で下らないアルファベット列を考えるのが「個性」なのだろうか?学歴は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
同じ学年の連中のなかに「官僚になりたい」というやつが結構いる。メディアによる官僚バッシングが激しく行われている中、国の中枢で国家運営に携わりたいと考える人間がまだまだ多いことは一定の安心感を私に与えてくれたのだが、その中には「あんな馬鹿共と同じ職場で働きたくない」という意思を持っている者も多いようだ。「選民思想だ」といって批判する人間も出てくるだろうが、こちらとしてはそう思っても仕方ない状態が多くの局面で見られるのである。
それにしても日本は知的エリートに対する待遇が悲惨だ。なぜ国家公務員の月給と一般企業のサラリーマンの月給を比べ「公務員の月給は高いですねえ…」というのだろうか。国家公務員の奴らは民間就職したとしてもその時にその分野でもっとも繁栄している企業にしか就職しない。そのような優良企業の月収と国家公務員の月収を比較しないと意味がないだろうに。なにはともあれ、「国家公務員は他の東大卒の人間よりも年収が劣っているのに、なぜ公務員になりたいという人間が一定数いるのか」という命題に対しては、この「学歴と精神性の比例関係」も一定の影響を及ぼしているに違いない。