「命題」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 命題とは

2008-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20080903231111

こんにちは。BI増田です。

(正社員非正社員の)格差をなくしたいなら正社員の過剰な雇用保障をふっとばした方がよくない?

この命題は真でしょう。

このプランを採択したときに何が起こるかというと、失業者を含む労働者が不利になって、資本家が有利になるということです。

国家としては、国内の企業経営が合理化されることでGDPなどは改善されると予想できますが、雇用状況は景気によって今まで以上に大きく左右されるようになるでしょう。

結果、不景気になればたちまち暴動が起こり、それを引き金として核戦争が勃発し、人類が滅亡することになります。

この人類滅亡を回避するためには、雇用保障を減らすと同時にベーシックインカムを導入すればいいんです!

マルクス主義者を略してマルキューと読んでみよう

イマドキの若い奴らにとってマルキューといえばバカの代名詞だという。

ということはマルクス主義者を略してマルキューとでも読んでおけば、

これすなわちマルクス主義者はバカ、ということになり大変批判的である。

マルクス主義でいっぱいいっぱいの国を指して「まさにチルノ」とか言ってみよう。

きっと誰も分からん。

ただ間違いなく『全てのマルクス主義者はバカである』という命題は真ではなく、

これ書いてる俺は寝るべき。

2008-09-03

anond:20080903115850

>罪人は(社会的な)人間ではない。

これは、法哲学上の見解ですか?

それとも、あなたの見解

文化を超えた法ならば国際法というのもありますが、その法の哲学上の根拠となるところは、未だに争点になっていたりする。普遍性ってかなり難しい命題ね。

ルールといっても、条文化された法律だけとは限らないわけで、条文化されていない慣習法というのもありますね。

元増田ルールのもとになる哲学上の規範のことをいいたいのかも?でも、

なにか普遍的な物差しがあると、個人的な都合上良くないひとが圧倒的多数かもしれない。なぜなら誰かに裁断されずに自分の世界引き籠もりたいから。

だから、全ては相対的価値観でかたずけたほうが楽なんだろうね。

古代中国人肉市場の話しがどこぞでちょっと出てたけど、あれはひとの本能ではなくて、危機的状況で生まれたそこの文化だと思うよ。

別にやりたくてやってたわけじゃなかろう。

2008-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20080831165959

てめえのほうが文盲だろうが。

筋書きっていってる文脈は、いくら論理学的に同じ結論に至るからって、理屈が違ったら誰も信用しねえよ。それこそ経済学者同士だって、うさんくさいギャグくらいにしかきかねえよ。

それと、なんだ言いたいのは「数理経済学者だからピュアゲーム理論家じゃないってか」。100年ROMってな。統計教科書書いてるからって統計学者にまとめるやろうと同じくらい鼻で笑われるわ。

あとさ、その「必ず」っていう命題を言いたいときにどういうふうに論理にするのか考えてみろよ。ほんとばっかだなあ。そうか、"for all"って「全部のxで」ってしか直訳できないし、それを実際に使ってモノを言ったこともないんだね。

んで、おめえはその学部一年で読むような論理さえもわかってないってわけよ。

っつうか、その最初の一段落だけしかわからないからってつっかかってくるなよ。

2008-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20080901190106

あっそう?

じゃあ必要条件は示されたんで

「真面目に30年育て上げた(30年育てるって意味わからんが)わけでないなら自信を持つのはおかしい」

が正しいことを示してくれ。

俺は背理法を使おうとしただけで、それが失敗したからと言って、元の命題の真偽には影響を与えないからな。

俺にとっちゃさっきの結論が正しいかどうかはどうでもよくて、この君の主張が正しくないだろうと睨んでるわけ。

http://anond.hatelabo.jp/20080901185056

ちょっとまって、相手が提示した命題から論理的に結論を導いただけで何で俺のせいになるわけ?

さっぱり意味がわからない。

2008-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20080831164659

> だから、「数理経済学だからゲーム理論家じゃない」って思ってるお前が馬鹿ってことでしょ。

おいおい「ピュアな」を忘れんなよ。統計の著作なんて一個も無いはずだよなあ?

> あと、無税国家になるって経路かインフレが実現されるかってので、筋書き違うだろ。

ほんとに論理学わかって無いなあ。

・「無税国家になる」か「インフレが実現される」かどちらか

・どちらでもうれしい結論

と言ってるのに、それに対する反論になってないだろ。

> 文献精読

どうでもいいから「国債を買い捲ればデフレ脱出必ずできる(のにやらない日銀馬鹿)」っていう命題が「バーナンキ背理法」かどうかぐらいは確認しろよ。

> for-allで「必ず」ってのは入ってるじゃねえか。一意はよけいだけど、まあ背反はしない。(for allならたくさんあって、そのなかの全て、uniqueなら、ひとつしかなくて、そのなかの全て。)てめえこそ、論理構造をもう一回見て来い。

for-allは∀ですが、古典論理で「必ず」なんていう限量子があるんですかww どう書くんですかww

それとも、あなたのケイザイガク論文では様相論理でも使ってるんですかww

論理構造」っていうタームがあるんですかww 定義は何ですかww

> 野矢茂樹論理学』

あれはいい本だけどさあ。ここで君が権威付けに持ち出すには初歩的過ぎるだろw

http://anond.hatelabo.jp/20080831155309

だから、「数理経済学だからゲーム理論家じゃない」って思ってるお前が馬鹿ってことでしょ。

あと、無税国家になるって経路かインフレが実現されるかってので、筋書き違うだろ。原文って所詮は啓蒙書だかpolicy paperだかの文章しか読まずに、元々のモデルを見ずに言うなよ。馬鹿が。っつうか、プロ経済学者なんて、たとえばDixit=Stiglitzモデルの展開とかするときに、元のやつなんてゴミクズなセクションもあるから精読なんかしないけど、でも引用するなんてざら。つまり、大事なのはモデル構造だけで、文献精読なんて、マルクス経済学者みたいなことはしないんだよ。

for-allで「必ず」ってのは入ってるじゃねえか。一意はよけいだけど、まあ背反はしない。(for allならたくさんあって、そのなかの全て、uniqueなら、ひとつしかなくて、そのなかの全て。)てめえこそ、論理構造をもう一回見て来い。全てと必ずが違うって馬鹿なことを言うのなら、もう一回もとの命題を厳密に言い表して来い。リフレ派らしく教科書読みたいんだったら、野矢茂樹論理学』とか楽しいんだから。

http://anond.hatelabo.jp/20080830143407

要約)日本経済学界がだめなのって、

経済学者なら経済全般知ってるはずだ/知ってなければおかしい」っていう

変な期待があるせいじゃない。で、勝手に期待して勝手にがっかりするっていうバカな大衆と、それを見越した売文家。

(というか、他の学問だってそうだとおもうんだけど。物理にしたって大槻教授プラズマ超えて色々答えなければいけないとか。)

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児島はあくまでピュアゲーム理論家じゃないの。

そういうところを鑑みれば、本人の言ってるとおり、バーナンキ背理法で否定される命題は、

existence,uniqueness(or for-all proposition)を含んでるから、リフレ派の言いたいことは出てこないかもって、

いう程度で収めてあげるのがいいんじゃない。

本当は本人の矜持として、マクロなんて畑違いに口を出さないのがいいんだろうけど、マクロは既にぐちゃぐちゃだしさあ。

若手のホープっぽい先生もエネ庁の審議会とか早速、研究と畑違いなところに駆り出されてるし。

それを引っこ抜いてきた親分の先生だって純粋ゲーム理論家でしょ。

官庁からすると畑違いで、事務方の言うことを素直に聞く人のほうがいいってことだろうな。

官僚経済学マニアブロガーに聞いてみたい。

ブログの文脈だと、やはり経済学の専門的教育を受けたわけでもない、

生半可な人たちが、自分たちの信念の補強のために経済学を使ってる。

サンプルバイアスのせいかわからないけど、リフレ派とかなんと言って分からないけど、ある種の強い命題を持った人たちが

アルファブロガーなりなんなりで存在していて、それが経済学界と別の判断基準を持って、

経済学者の言説を判断してる。自分の凝り固まった知識と価値観でもって。

っていうか、僕らの仕事として見たら、けっこうしょうもないところで叩かれてるよなあ。

たとえばJR花形で働いていますっていったからって、その人がルミネとか駅ナカビジネス担当なら、列車運行とかきちんと知らなくてもしょうがないでしょ。JR職員でない鉄オタに負けるってことも。(ただJRという全社的にどうしたらいいかっていう感覚はあるかもしれない。)

陰謀論とかくだらないと思うけど、アルファブロガーっぽいリフレ派の先生がその若手のホープと喧嘩したときの「ドキュソ化計画」とかも微妙だよな。あの人のパターン見てると、その若手とか児島とかマクロ専門でない人といったん仲良くしてから、

どこかで突き落とすみたいな。でも、マクロ専門の人は最初から眼中にも入れない。あと、仲良くした人と喧嘩するときって、

彼らの専門自体じゃないしさあ。メカニズムデザインとか、よくわかんない数理とか。

なんというか「経済学者と僕は知り合いだよ、しかもやつらの理論のおかしいところも指摘できるよ」って身振りじゃないかしら。

東工大系のゲーム理論家は気をつけたほうがいいね。彼らは本当に余計なこと言わないけど。

ともかく、ブログ界なんて有象無象のところで議論しても、収拾つかなくって、しかも(ろくに専門家の話を理解しようともせずに)「議論しようぜ」的な態度で絡み続けるから、うざいだけだってこと。本とか紙媒体コミュニケーションをしていた頃には、噛み締める時間があったんだろうけどさ。ブログじゃなくて、ホームページでもそうか。(単にスタイルシートがあって編集が楽だからってことでmコメントなしのブログにすると文句言われる今日この頃。)

ケーザイガクシャを超える見識を持つ方々はほんと今すぐにでも、とりあえず宮廷とかの公共とかビジネスとかに入って推薦状とって、それで海外留学したらいいんじゃないの。そんなよほどの見識もってるんなら、あとは英語さえ頑張れば、初任給1000万円くる世界が待ってるんだしさ。見たところ、ダンコガイ以外で経済学周辺でごちゃごちゃ書いているブロガーってそんなに稼いでないっぽいし。でさ、社会人だったけど経済学に興味持ち始めたから、よっしゃといって大学院はいってるなんて、海外だとざらでしょ。中国人でさえもさあ。SEルサンチマンしてるよりかはよっぽどいいんじゃないの。(っていうか、コンピューターエンジニアなんて、社会人経験大学院生の一番の出身じゃないの。)

で、いずれにせよ、生半可な知識を持ったちょっと頭いい子たちが、専攻とか関係なく、自分の価値観に合う「経済学者」さんに会えば、それが経済学界の絶対の見識だと思って、歩兵のように従順に動き始めるってわけだ。でもちょっとしか頭はよくないから、学者にはならないわけで。(あと、そもそも面と向かって議論できる学者が近場にいない。友人とか同期とかさあ。)そういうのを見ると、尚更、経済学を学ぶのは「経済学者に騙されないため」ってのも至言。

で、さ、そんくらいのことなんて、別に経済学者じゃなくても、長くネット経済学談義を見てれば見えてくるのにね。あと、学者が輩出されるような大学にいればさ。(ナントカ先生ナントカ学なんて世間でキャッチーなことを言い始めてるけど、それは科研費取るためだろうね、とかそういうことがわからない。)とてもかわいそう。

anond:20080831121948

狭義の哲学者とは違うかもしれないけど、ブッダおふくろさんも広義の哲学者には入りうるんじゃね?

宗教には哲学的な要素はあるし、

なんやかんやで母親哲学に基づいて子供は育てられるからね。

しかしそもそも、哲学定義もどっからどこまでなのかわからないのだけど。

人間はどこからきて、どこにいくのだろう?という命題が、哲学の出発点か。

2008-08-30

バーナンキ背理法とやらの騒動

>今、「期限までに目標インフレを達成できなかったら、中央銀行総裁死刑になる」というえげつないルールを作ろう。そして、期限はあと一回の売買にかかっているとする。このとき国債を持っている国民はどうするだろうか。中央銀行総裁の命がかかっているのだから、いくら高くても国債を買うはずだ。だとすれば国債価格無限大になってしまう。価格無限大になる、ということは、ぼくの理解では、資産にハイパーインフレが起きたことではなく、モデル破綻している、ということだ。つまり、均衡動学経路が存在しない、ということになる。

たぶん「モデル破綻してる」という背景にあるのは、横断性条件。でも横断性条件が動学的最適化を解くときに必要かというと、必ずしもそうでもない。

横断性条件で目覚しい業績を上げている日本人が、明治学院大学の上東隆志。彼の"Simple Proof of Necessity of Transversality Condition"は動学的最適化を用いるマクロ理論家にとっては、一応読んでは置かないといけないリストに数えられる。まあ、証明自体がとても読みやすい。というかこれが読めない人はマクロ理論を理解する数学能力に欠ける。リフレ派がほんとうにRBCだのSDGEだのを理解できるかはこれを踏み絵にすればよい。まあ、マニアックなんで、マクロについてきちんとした教育を受けてなければ知らなくても仕方ないが。日本語でも西村・福田編『非線形均衡動学』(東大出版会)に収められている。

ともかく、邦訳版で上東がまとめるところによると、横断性条件が必要になる十分条件としては

1)最適経路(*)全体を比例的に押し下げたときに、目的函数が-∞にならない

2)利益函数がn次同次かそれに近い性質を持つ

というのが挙げられるという。あくまで、上東自身の研究で分かってる十分条件に過ぎない。(つまり、横断性条件の必要性にとって必ずしも必要とも限らない。ややこしいな。)

しかし、少なくとも、児島さんの考えている「期限までに目標インフレを達成できなかったら、中央銀行総裁死刑になる」というルールは1)を満たしていない。(実際、目的函数が-∞になるからこそ、中銀がいくらでも国債を買うのだろうし。)2)はまあモデルによるのだろうけど、大概利益函数が1次同次なら、簡単に静学的な均衡stationary eqm(つまり最適動学下でのrest point)までは明示的に求められそうな気がする。あとはそのrest pointの安定性くらいが問題か。

どうでもいいのだけど、ハリ・セルダンが「その乖離した地点から、均衡へ収束する経路」のことなら、通常それはsaddle pathと呼ばれており、日本では多くの場合「鞍点経路」という訳語を割り当てると思います。」というのは情報操作が過ぎるのじゃないか。たしかに数学的には「鞍点経路」が定訳で、またsaddle pathが決まった用語だけど、必ずしもそのsaddle pathが動学的最大化を満たす経路とは限らないので、別に「最適成長経路」だのなんだの言うときも十分にある。(場合によっては発散するような経路でも最適経路になることはある。資産の量kや価格\lambdaが無限大に発散しても、それが割引率で抑えられる限りは標準的な横断性条件exp(-\beta t) k_t \lambda_t =0を満たす。)

そして、「成長論」でなければ「最適成長経路」なんていうのは気持ち悪いから、他の用語、そう動学的な均衡ということで、「均衡動学経路」って言ったっていいだろう。(ハリ・セルダンのいう「均衡というのは通常、無時間だと矢野は理解している」というのもSDGEの文脈では意味がわからない。stationary equilibriumに絞るという意味か?よく物理屋stationary eqmでないと「均衡」でないと経済学を非難するけど、経済学での均衡はrest pointというよりも、モデルの全式(需要=供給とか)がconsistentである、つまりモデルに出てくる方程式の解になっているという意味で使われる。だから、その方程式が動学的なもので、「未知数」が経路(時間tの函数)であるなら、「均衡」は当然に時間を含むものだが。stationaryだって、経路が時間tに対して一定というだけだし。えーと、マルコフにしたって同じように範囲を狭めてるだけだし。)

児島さんの最初の指摘である、バーナンキ背理法ではリフレ派の言いたい「国債買う⇒どっかで物価上がるさ」という命題を証明できない、というかそういうのに気づかないあいつらは馬鹿というのは賛同する。(つまり背理法で出てくる、「仮定された命題が偽である」っていったときに、「仮定された命題」をcompletely graspできないやつ。)

ただ、その「仮定された命題」としては、「均衡の存在」よりも、quantifierに重きを置いたほうが反証しやすいし、彼のひきつけたかったゲーム理論(複数均衡)に持っていけたんじゃないだろうか。つまり、こういうふうに言えばよかったと思う:

あたかもリフレ派はすべての解(均衡)で「国債買う⇒どっかで物価上がるさ」という命題が言えるとしてる。しかし、横断性条件も必要でないかもしれず、(経済学的には非現実的だけど)「物価上がらず無税国家存在する」というのが均衡として否定できない。つまり矛盾は導けない。なので、国債を買い続けても物価が上がらないことだってあるかもしれない。

唯一の均衡が横断性条件を満たさない(つまり「すげえ」発散する解)なら、それはモデルがまずすぎるけど、複数均衡でならそういうのがあっても認められるだろう。

いずれにせよ、今回の「騒動」とやら(所詮はリフレブログと崩れいちごで騒いでいるだけだと思うけど)は、背理法論理もわからない馬鹿挑発しすぎて、彼らの土壌に引っ張り込まれて、結果として自分の言いたいところと違うところで勝負させられて墓穴を掘ったように思える。そもそも児島自身もマクロ経済学者じゃないから、日本の現状がどうかなんていわれても困るだろうな。すげえマニアックゲーム理論家というイメージがする。(どこかのSE崩れのブログで、「確率統計」ではすごいなんて言ってたけど、それは教科書しか本当に知らないかわいそうな子。)今回言いたかったのはそれ以前の論理構造のことだろう。

まあ、マクロ経済学者が誰も出てこないあたりでこの議論は先が見えているのではないかと。ってか、加藤涼くらいしかいちごとかブロガーリフレ派にかまってるやつなんていないし。

2008-08-11

http://anond.hatelabo.jp/20080810180720

 そこは事実命題というよりは、規範の問題ですから。

 「分けられる」という前提を棄却してしまうと、そもそもディスカッションによってすべてを解決しうると言う民主主義の原則がぐらつくので、とりあえず「分けられる」と信じていただかないといけないのです。

 あるいはヴォルテールルソーのあたりまでさかのぼって、まったく新しい民主主義の基盤理論を考えるか、ね。

2008-07-31

大学生ファッション(20代後半)の基本を考える

anond:20080729232044

↑の記事の趣旨には賛同するものの、内容的には大事なところが欠けているような気がしたので、自分なりに脱大学生ファッションの基本を考えてみました。以下、ファッションオタクでもなんでもないので、ブランド専門用語のあやまりなどあるかもしれませんがご了承下さい。

外見は内面のいちばん外側

ファッションについて考えるときにぼくがいつも念頭においているのはこの言葉です。要は、自分がそうである以上のものにはなれない、ということです。服装は想像以上にその人そのものをあらわしているもので、客観的にみておおかれすくなかれ「お似合い」ではない服を着ているひとってほとんどいないような気がします。

イタイかそうでないかを決めるのは、第一にその場のコードとずれてないかどうかということであり、第二に、本人の自意識の乱れが透けてみえやしないか、ということであると思います。正直、10代のファッションはたいていすごくイタイ。なぜかというと、いまの自分ではない自分になりたいという自意識の乱れがまたまだうまく解消されていない時期だから。そういった迷いが内面のいちばん外側であるファッションに透けてみえるから、こまかいファッションの知識だのセンスだの云々をぬきにして、どうしたってイタくなる。田舎から東京にでてきたとき、東京生まれ東京育ちのひとたちが、大した服を着ているわけでもないのに、妙にあかぬけてみえた記憶があります。それは、彼らはダサい恰好でもダサいなりにさらりと着こなしていて、田舎から出てきたぼくのような「成り上がり」特有の自意識の下品さをもっていなかったからであったと思います。

大学生ファッション根本は、こうした青さのイタさからの脱却にあると思っています。20代もなかばにさしかかれば自意識の問題もほとんど解決が済んで自分を前よりはうまく受け入れられるようになっていることでしょう。一方でまだ成し遂げるべきことはたくさんあって、内側にはより現実的なエネルギーが満ちている。そういった時期の自分にあった、余裕と力強さを感じさせる服装をしていたい。これが、脱大学生の時期の自分のファッションを考えるにあたっていちばん基礎においていたコンセプトです。

男性ファッションシンプル:生地と手入れには気をつかう

夏にはカットソーなりシャツを一枚着て、暑さもやわらぎはじめたら薄手のジャケットを一枚はおる。秋が深まれば冬物のジャケットにとりかえて、寒くなったらその上にコートを着る。冬本番になったらさらにマフラーを巻く。春のきざしがみえたら、マフラーをはずし、日差しのなかにあたたかさも感じられるようになってきたら、コートを脱ぐ。以下、逆順で着るものを薄くしていき、また夏を迎える。男性ファッションなんて、いってしまえば、インナージャケットコートの組み合わせに尽きる。慣れてしまえば失敗のしようがない。お洒落がわからないの意味がわからない。それくらい、すごくシンプルなものではないでしょうか。この一年のサイクルをぐるぐるまわして、損耗したものを買い替えていきつつ、品目の数を増やしていったり、品物の質を上げていく。

人にもよるかもしれませんが、ぼくは、シャツやズボンなどの服本体には色などのポイントを極力入れないようにしています。色は黒、紺、茶、グレー、白のどれか。それだけでは寂しい印象になってしまうというのは当然のこと。それではどこに力を入れるのかというと、生地の良さと手入れの良さ。シンプルな服ほど生地の良さのちがいがきわだつ。生地にだけは手をぬかないようにしています。日焼けした服や襟がよれてしまった服は捨てる。そうなるともったいないので、普段からネットにいれてあらうなりクリーニングに出すなり、手入れには気をつかうようにしている。シャツには当然しっかりアイロンをきかせる。手入れのいきとどいたいい生地のシンプルな服装に勝るものはないのではという気がします。

下はたいていデニムをはきます。スーツを着なければならないような場所ならほとんどこれでいけるし、スーツを着なければならない場所ならスーツを着ればいい。高級感のあるトップスと合わせれば、気品も十分でる。ただ、これは、「成り上がり」特有の内面の気性のあらさとそれを表現しうる服装のちょっとした粗野な雰囲気を失わずにいたいという個人的な理由にもとずく選択だと思われるので、ひとの参考にはならないかもしれません。

ポイントや遊び心は小物にこめる:異素材、色、柄

男性ファッションの「色気」担当は小物にあると考えてます。小物の種類としては、個人的に大事だとおもう順番に、靴、鞄、時計ベルト、眼鏡、財布、アクセサリーなど。服装本体をシンプルにしたぶん、ポイントには小物をうまくつかうよう心がけています。ポイントの種類は大きくわけて、異素材、色、柄の三つ。異素材の代表は皮と金属。仕立てのいいシンプルな服装に皮と金属はよく映えます。色は季節感をだすのに使います。

男の小物でいちばん重要なのは、やっぱり靴。女性に聞いてもいちばんよくみているのが靴ではないでしょうか。そして、靴で一番重要だと思われるのは、やはり、手入れがいきとどいているかどうか。ピカピカに光っていない靴は履くだけ品位を下げます。そんなわけで、靴は同時に二、三足買うようにしています。毎日家に帰れば、最低限タオルで(革靴はストッキングで)全体の汚れをおとして詰め物をして日替わりで違う靴を履くようにする。歩くのが早いせいもあって、以前はシューズなど半年で底に穴をあけてしまうこともあったのですが、最近は二、三足同時に買って履き回しするようにしたので、随分綺麗なまま長持ちしています。

靴選びのコツは個人の趣味なのでよくわかりませんが、シューズではドラゴンベアードやプーマのルドルフダスラーオニツカタイガーあたりを愛用しています。さすがにこの年になってコンバースははかないようになりました。ドラゴンベアードは一万円代で買えるのにちょっとした高級感や遊び心もあって、友人にオススメを聞かれたときにはこれを推しています。ぼくは今履いているので四代目です。鞄は、ひとつ推せといわれればフェリージをあげます。5万円くらいです。今愛用しているのは紺地に明るい茶色の革の縁取りがついたもので、「どんな服装とも合うシンプルさ」と「それ単品でコーディネートの顔になれるようなキャラ立ち」の双方を求めた結果、その鞄になりました。鞄を買うときにはこの二つのコンセプトをはずさないようにしています。

コンセプトをもつ:自分にしっくりくるような

ファッションの全体感をととのえるためにも、今の自分にしっくりくるようなコンセプトを自分の中で決めておくと、服選びの参照軸になります。たとえば、ぼく自身は、ここ数年来、「リラックスラグジュアル」をコンセプトにしています。これは、力の抜けた、余裕のあるたたずまいをもちつつ、それがだらしなさや気の抜けた感じに堕すことのないよう、そこはかとない品位をつねに保つように意識する、ということです。服えらびに際しては、フォーマルな服をみて「これだとかっちりしすぎててリラックス感がないなあ」とか、妙にファッションファッションしている服をみて「これじゃがんばりすぎ」とかいう風に選択肢を切るのに使います。リラックスラグジュアルのように、共通点をもちつつ相反する要素もあるような二つのキーワードをならべるというのが、簡単で、しかも使えるティップスかもしれません。ちなみに、大学時代のコンセプトは「インテリ歌舞伎者」でした。どんなものかは想像におまかせします。

香水をつける:自分が今いる位置を確認するために

男のひとで香水をつける人というのは意外に多くはないようです。が、ぼくは、香水は必ずつけるようにした方がいいと思います。それは、人生のなかでの自分のステージの変化をいちばん敏感に映し出してくれるのが香水だと思うからです。香水をつける意味は多々あります。身だしなみとして、自己暗示として、お洒落に気をつかっているという印象を与えるため、朝、1日の始まりの儀式として、女性に自分の印象を香りとともに記憶してもらうため…。こうした効能からも香水使用は推奨できます。しかし、やはり、香水をつけることの最大の意味は、自分の人生ステージを確認すること、であるように思います。これは極私的な意見にすぎないかもしれませんが。

大学時代社会人になってから、その後と、不思議と、つけていたいという香水は変わっていくものです。ぼくは、大学時代ニコスのフォーメンという乳酸系の甘い香りの香水を、社会人になってからはディオールのファーレンハイトという、夏の夜の雰囲気の情熱的な香水を、一年ほど前からは、ディオールのオーソバージュという、一切甘味のない、野蛮な気品を感じさせる香水をつかっています。人生の転機を迎えると、自然に、以前使っていた香水が自分から乖離していることに気づきます。その度に自分にフィットする新しい香水がみつかります。その新しい香水は、香りで与えられた先のコンセプトなようなもので、自分のファッション全体を統御してくれます。

香水売り場に行くのを躊躇する男性も多いと思いますが、実際に香りをたしかめずに香水を選ぶのはよくないと思います。香水選びに前知識は必要なく、とにかく売り場にいって、いろいろかいで、しっくりくれば買う、こなければ買わない。男性が一日に一回つけるのであれば小さな瓶でも一年はもつので、気に入ったものを、あまり浮気せず、気に入らなくなるまで使いつづけるのがよいように思います。

蛇足ですが、香りといえばボールドなどの柔軟剤の効力は意外に大きいように思います。以前つきあっていた女性が、やたら「服からいい香りがする」と繰り返すので、なぜなのかと思っていたのですが、家の洗面所わきにおいてあったボールドをみて「これだ!」と言ってました。なんでも、「男性がてっとりばやくモテるためにはボールドをつかえばいいのではないか。それぐらいいい香りがする」のだそうです。さすがP&G。あちこちのセミナーボールド日本での成功譚を吹きまくるのもうなずけます。

お店のひとと話す:社会人ならやはり名刺交換ぐらいは

服屋に行って店員に話しかけられるのがすごくいやだという人はよくいます。とても勿体ないことだと思います。専門知識をもっているひととの直接の会話ほど役に立つものはありません。むかしむかしの就職活動で学んだことですが、いろいろ聞かれていやならば、逆にこちらから踏みこんでいろいろと質問をしてみればよいのです。専門家はやっぱりいろいろなことを勉強しているし、勉強した成果は話したい。質問をすれば、喜んでためになる情報を与えてくれます。ぼくは、いつも、店員さんとは仲良くなって、最後は名刺までいただくことがしばしです。

店員さんにはいろいろなことを聞きます。このインナーに合うジャケットはどのようなものがありますか?と聞いていろいろもってきてもらって試したり、家にこんな服があるんですけど、それと合いますかね、と聞いたり、今年の流行りを聞いたり、手入れの仕方を聞いたり。本当に彼らはいろいろなことを知ってます。「ベルトは真ん中の穴でとめたときにいちばん綺麗なシルエットになるようにデザインされているのでサイズには気をつけてくださいね」だとか「この服は後ろ側に絞りがはいっているので、前からはわかりませんが、後ろ姿が映えますよ」だとか。

信用できる店員を見分けるこつは、個人的な意見を具体的に挙げられるひとがどうか、であるように思います。たとえば、ある服を買おうかどうか迷っているときには「なにかこう、この服を買いたいと思わせるような、この服への愛着がわいちゃうような、ヒトコエを下さいよ」とか聞いたりします。そこで、たとえば「マニアックなはなしなんですが、このシャツはそでの部分を立体裁断しているので、さっくり一枚はおっただけでも横からみた姿がすごく綺麗だと思うんです」など言ってもらえると、信用できるな、という気になります。あとは、店員とはいえ、そのシーズンのラインすべてを気に入っているわけでもないので、「正直、今シーズンのラインでも好きじゃないものとかってあったりするんですよね」だとか質問をして、こうこうこういう理由でたしかにこの商品とかは個人的には気に入っていないんですよね、などと正直に答えてくれる店員も信用できます。あとは、「このブランドってどういう顧客ターゲットにしてるんですか?」であるとか「この二、三年で景気がよくなったりわるくなったりしましたけど、そのたびにお客さんのファッションへの嗜好で変化したなと思うところとかあったりしますか」など、経営面からの質問もぶつけてみると楽しいし、どれだけまじめに普段から仕事のことん考えている人なのかもわかったりします。女性の店員なら、恋人と服を選びにきたつもりで「これ着て○○に行くとかありですかねー」とか楽しく会話をしながら服を選びます。

これだけ質問したり試着をたくさんしたりすると、買わないわけにはいかなくなるのではないか、と心配される方もいらっしゃると思います。しかし、これがまったく逆で、仲良くなればなるほど別段試着をたくさんしても買わずに済むのです。なぜなら、営業の人間にとって、一個のものをただ売るよりも、一人の顧客と深いリレーションをつくることの方がずっと大事だからです。これだけ会話をして名刺まで交換すると、店員としても「顧客関係が築けた」という満足感が得られます。だから「ほかもちょっとみてから予算もあわせて考えてみます」と言ったとき、喜んで「またのお越しをお待ちしていますね」と言ってもらえるのです。

実際、ぼくは新宿伊勢丹メンズ館で買い物をすることが多いのですが、そのときは、上から下までめぼしいものをみてから、予算を考えて買いに戻ります。そのとき、さんざつきあってもらったのに買わずに帰ってしまうお店には、「さっきは恰好いいジャケットをみせてもらったのにすみません。やっぱり今日はシャツを買いに来たという初心にかえることにします。予算的にも今厳しいので(笑)また次のシーズンによろしくお願いします」などひとこえかけます。それで気持ちよく送ってくれない店員はいません。

最後に:人の意見には耳をかたむける

最初に「外見は内面のいちばん外側」ということを書きましたが、その外見を客観的にみてくれるのは他人です。服装にみょうな自意識がみえかくれすると絶対にあか抜けたかんじにはなりませんが、そういう自意識の乱れほど、他人からみて気づきやすいものはありません。新しい服を買ったときは人前に来ていって、反応をみてみます。ほんとにしっくりいった恰好をしていたら、100%の確率で、二人以上のひとから独立にこちらがら促してもいないのに、「それ恰好いい!」とか「それかわいい!」とかいってもらえるはずです。経験則上、ファッションに限らず、二人以上の人から独立に同じことを言われたら、それは、自分に関する真である命題だと考えてほぼまちがいありません。ファッションとは直接の関係はありませんが、たとえばそれが自分の性格に関することであったりするならば、それを直す努力をしてみる意味はあると思います。

女性と服を買いにいくのは、自分のファッションのなかに新しい要素をとりいれるためのいちばんいい方法だと思います。たいてい、自分の趣味とはちょっとズレたものをオススメされますが、どうしてもいやだと思うのでないかぎり、そうしたひとのオススメに素直に乗ってみて損はしないと思います。最初はちょっとアレだなと思っていた服もしばらく着ていれば「お似合い」になってくるものです。それは、その相手との関係を通じて自分の中の何かが変わった証拠かもしれません。

香水の段のはなしにしても、このパラグラフの話にしてもそうなのですが、「外見は内面のいちばん外側」という理解に立つならば、ファッションとは、絶えず少しずつ変化していく自分の有り様を素直に受け入れ、それを素直にたたずまいの中に表出していく、ということ以外のなにものでもないように思えます。そして、青い時代を終えた20代こそ、余裕をもってファッションというものに向き合うのに最適な時期なのではないかと思うのです。

2008-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20080709180018

じゃあ、「女性差別!」って言ってる増田は、そういう(いわゆる女性に人気のある)業界での女性差別が問題だって言ってるのかな?

そういう業界女性差別するとは考えにくいんだけど…。

それとも、そうでない業界の話してるのかな?だとしたら、相対的に女子学生のが入社試験の成績が優秀ってのは疑わしくない?

つまり、職業全体を互いに重複しないAとBの二つの部分に分けて、Bである命題が成り立つことを証明するためにAでの事例を使うような、詭弁っぽい臭いがする。

2008-07-03

http://anond.hatelabo.jp/20080703192513

「25歳以下は無条件でちやほやする」の対偶命題は「無条件でちやほやしないなら26歳以上」であって、

命題は「無条件でちやほやするなら25歳以下」、裏命題は「26歳以上なら無条件ではちやほやしない(条件つきでちやほやすることもある)」だ。

逆や裏は元の命題が正しいからといって正しいとは限らないし、そもそも

「26歳以上は常にちやほやしない」はこれらに該当すらしない。

頭悪すぎるぞ。はてな民とは思えない。

2008-07-01

関西人元増田です。東京が嫌いなんて誰が言った?

こちらを書いた人間です。

ブックマークトラックバック、一通り読ませていただきました。あまりの反響の多さに驚いています。好意的な反応も悪態も含めて、ひとまずはどうもありがとうございました。

しかしそこで敢えて憎まれ口を聞くと、結局は半分ぐらいの方にしか理解して頂けなかったのだなあ、と思います。あの話を、東京やら関西やらが好きか嫌いか、とか、そういう話だと思ってしまった方がかなり多かったのは相当がっかりしました。そういう風に誤解されないように気をつけて書いたつもりなのに。

個別に返事をすると量が爆発するので、まとめてお返事することにします。ただし、論拠を示さず「関西弁は下品」だの「大阪民度が実際に低い」だのと繰り返すだけの発言にはコメントしませんのでご理解ください。

元記事で一番言いたかったこと

まず、親関西東京)の人にも反関西東京)の人にもこれはあらかじめご理解頂きたいのですが、私が元記事を書いた前提には、

東京であれ、関西であれ、その他の地域であれ、文化や言語に優劣などありはしないのだ」

という認識があります。元記事の趣旨はもっぱら、「東京こそが中心である」という思いこみへの批判でしたが、当然「関西東京より優越している」という命題も全く同様の理屈で論破できることがおわかりでしょう。すなわち、「東京関東)のローカル文化を特別視して押しつけるな」と言うからには当然、「私も関西の文化を押し売りする気はない」ということも表明しているつもりです。

なぜ関西弁で書かなかったか?

そういうわけで、私に対して好意的な反応の中には「関西弁で書けばよかったのに」という意見もありましたが、これは私の立場に反するということをご理解いただきたいと思います。元記事でも述べているとおり、私が「じゃん」や「じゃね?」が嫌いなのと同様、関西弁を嫌う人もいることは想像に難くない訳で、それを押し売りするのでは全く筋が通らないでしょう。だから私はここでは共通語(元記事では「標準語」と書いたけれど、「共通語」が適切でしたね)で書いた。それが、日本語文化圏で公共の場でものを言うときの作法だと思うからです。同様に、私は自然科学論文なら英語で書くでしょうし、無理に日本語で書こうとは思いません。そういう世の現状に対して言いたいことは山ほどあるけれども、です。ルールが気にくわないからと言ってルールを無視するという態度は私は取りません。

「地方人」は地元を誇ればいいのに

同様のことは、関西以外の一切の地域について言えます。私が「東京に対抗意識を燃やしている関西人」だと思った方がいらっしゃるようですが、そう思われるのは私としては不思議であり、不本意でもあります。関西弁関東弁に劣るものでないのと同様、東北弁に優越するわけでもない。関西文化が九州文化に劣るわけでもないし、琉球文化に優越するものでもない。それはあまりにも当たり前のことです。

誰しも、自分の言語や文化を卑下する必要はありません。標準語との距離がどれほど離れていようと、それは僻地方言などではありません。同様に、郊外の文化は大都市の文化に従属するものではありません。

敵は本能寺に「も」あり

こうしたことがよく理解されていないとしたら、その責任は別に東京だけにはありません。早い話、関西人にも傲慢な輩はいるでしょう。しかし私はそれにとどまらず、地方人の屈折した態度全体に問題があると言いたい。

たとえば今回の私の元記事に「関西人はよその土地でも平気で関西弁をしゃべる」という文句を言われた方がいますが、では、外国人があなたの地元外国語をしゃべっていたら腹が立ちますか?それに腹が立たないとすれば、関西人があなたの地元関西弁をしゃべろうとも、あなたが世界のどこの土地であなたの地元言葉でしゃべろうとも、誰も文句を言われるいわれはありません。それだけのことです。

こういうと「方言外国語は違う」と言われそうですが、それは事実に反しています、とだけ述べておきましょう。詳しくは、たとえばロシア語ウクライナ語の関係ドイツ語オランダ語関係などを調べてみられればそのあたりの事情がおわかり頂けるかと思います。

そういうわけで、皆さん、変な奴隷根性や、その裏返しの傲慢さはやめませんか。あなたの言語価値は、「標準語」からの距離にあるわけではない。実用上は、日本語共通語だとかあるいは英語その他の外国語だとか、そういった言語を話さざるを得ない状況ももちろん出てくるでしょう。しかし、それはあなたの言語が劣っているせいではないのです。

だから、お互いに意思疎通が負担なく可能な状況であれば、あなたがあなたの言語を話すことに何のはばかる必要もないはずです。逆に、東京関西人同士が関西弁でしゃべっていようと、中国人同士が中国語同士でしゃべっていようと、それに文句を付けるのは、あなたが何者であれ、了見が狭いことではないでしょうか。

蛇足:「関西人の傲慢さ」は実は自虐ネタだったりする

最後に、どうでもいいんですが、「関西人は傲慢だ」と言われる原因についてちょっと自覚があるので書いておきます。

これは大阪に限らないと思うのですが(私も大阪人ではありません)、関西では「負け惜しみ」を自虐ネタとして言うことがあります。一番わかりやすいのは、阪神の低迷期の阪神ファンの言動で、たまに巨人に勝とうものなら「勝った、勝った、また勝った、弱い巨人にまた勝った、勝たんでもええのにまた勝った!」とお祭り騒ぎをしていました。言うまでもなく、このセリフの真意は言葉の表面とは全く反対のところにあります。阪神ファンは「強い」巨人に勝ったから喜んでいたのであり、「勝たんでもええ」どころかどうしても勝ってほしかったから喜んでいたのです。つまり、このセリフ巨人侮辱しているどころか、憎らしいほどの強敵として賞賛するための屈折したセリフなのです。その証拠に、阪神が強豪と呼ばれるにふさわしくなった昨今、このセリフは余りはやらなくなりました。

ただ、こういう言葉の表裏というのは案外通じにくいものらしいということは、私も最近実感しつつあります。ごく稀に、自虐ネタを言ったつもりが気まずい空気が流れてしまってとまどうことがあるのですが、「暗黙の突っ込み待ち」という文化が関西ローカルであるということを最近ようやく理解して、原因がわかってきたように思えます。私見ですが、関西で一番受けている部類の芸人が全国放送でまるではやらないという理由はこのあたりにあるのではないでしょうかね。

ともあれ、関西人(というか特に大阪人)が「東京なんて所詮あずまえびすじゃボケがぁ、わしらがほんまもんの西側先進国やぞ」とか言っていたとしたら、それは上記の通り、半分以上は負け惜しみ自虐ネタですので、あまり真に受けて怒らないでやっていただけると幸いです。

追記

こんなことぐだぐだ書かずに「マイ・フェア・レディでも観たら?」とでも言えばよかったかな。標準語首都方言の違いとか(もっともドイツ語なんかだとベルリン方言標準語は全然違うんだが)、言語で優劣を付けることのばからしさとか、「民度」なんて概念のむなしさとか、あの映画を観れば一目瞭然なんだけれどね。

ひとりごと

約一名、普段「リテラシー」が云々とかおっしゃってる方がこの記事にひどくお怒りのようで、言いたいことをちょっと書きかけたのですが、この人だけに反発するのも不公平な気がするのでやっぱりやめときます。元記事もこの記事も、真意は題名その他で強調している通りなので、それ以上に邪推をされる方と話をしても生産的とは思いにくいですし。

2008-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20080627215801

知能が低いというより、話をいったん一般原理的なところに落とし込むのが

好きなだけじゃないのかな。

命題A:「人の目を見る人は失礼である」

命題B:「人の目を見ない人は失礼である」

これが別々の人間によって全称命題として提起されている場合、

矛盾する両方の全称命題を共に回避することは不可能である。

……ということなんだろう。

はてなってこういう形式論理立脚した理屈っぽい話が好きな人が多そうだし。

ラッセルとかフレーゲとかウィトゲンシュタインとか好きそうな人多そうだし。

2008-06-26

「私はいま匿名ダイアリーを書いていると感じている」は真なる命題ですか?

私はいま、はてな匿名ダイアリーを書いているわけですが、その時点において「私はいま匿名ダイアリーを書いていると感じている」という命題は真なる命題なのでしょうか?

大学1年で、「この世界真理など一つもない」と感じて以来、真であると心から思える命題を探してきましたが、10年後の28歳の今日、このたぐいの命題は真ではないかと気づいたのですが、皆さんはどう思いますか?

2008-06-16

トミノ監督のトークイベント東大の下山教授が言ってた話、

石油ストーブエアコンと、暖房としてどちらがエコか? という命題

石油ストーブは温度を上げるにエネルギーを費やしているのに対して、

エアコンは温度の移動にエネルギーを使っている。その分エアコンのが効率がいい」というんだけど、

これって送電コストとか火力発電の発電効率とか考えてないよなー

まあ今やエアコン技術が進展しててだいぶエネルギー効率はよくなってるんだろうけど

東大教授がテキトーなこと言っちゃいかんよ!と思いながら聴いてた

そんなんだからトミノにヤマシタ先生とか言われるんだよ!

2008-05-31

http://anond.hatelabo.jp/20080531174619

「死ね」なんてコメントを残す方こそ、精神が成熟してないと思う。

いやそりゃそうだけどさ。世の中が薄汚いのは既定事実で基本的に変えようはないんだから個人レベルで対応するしかないっしょ。

そういう意味で防御力が十分じゃない奴はアリアハンから出ちゃだめですよと、外の世界にはルチ将軍(レベル1300)みたいな奴が沢山いるからね、ってわけで。

だからといって、今の子どもからネトゲ漫画ブログを取り上げることによって、

精神健全に育つとも思ってないよ、俺は。

マンガは取り上げなくてもいいと思うけど。

まぁそれはいいとして、その意見は「ネット使用精神健全な成長に悪影響を与える」の裏命題だから関係ないだろう。

2008-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20080521132157

言いたいことは分かる。

で、論理的な話にそれるけどw

人間として有効でかつ女性に対して有効でないスキルの例をあげてみてよ。

これは逆じゃね?

「対女性スキル」ってのは人間能力のほぼ全てを包含する

という命題を否定するのであれば、女性に対して有効かつ男性に対して無効なスキルを挙げなければならない。

まぁ、これいっぱいあります。

上の質問だと、人間能力は対女性スキル包含している、ということしか証明できなくて、これは間違いなく真。

2008-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20080517121710

いや恋愛=性欲じゃないし…。

それはそうだが、性欲無き恋愛は無いという命題が真ならば、元の話は論理的に破綻することはない。

2008-05-14

http://anond.hatelabo.jp/20080514170342

それは強引すぎないかwwww

そもそも「世の言動がより過激化している」という命題や「オタクの方がそうでない人よりも芝居がかっている」という命題が真かどうかがまず疑わしいと思うのだがね。

2008-05-03

世界のナベアツ問題に対する哲学的アプローチ

「3の倍数と3の付く数字だけアホになる」世界のナベアツ整数列においてどの程度アホになるかを判定する、所謂「世界のナベアツ問題」があり、どうやら死ぬほど続けていくと、限りなく100%に近い確率でアホになるようであるが、この問題に対しする数学的アプローチは理系の方々に任せ、数学が病的に出来ない私としては、この問題に対し哲学方面からのアプローチを試みたいと思う。

クレタ人のパラドクス」というのがある。

クレタ人は嘘つきだ」と(クレタ人の)エピメニデスが云った。
というもので、仮にこの命題が真だとすると、エピメニデスは嘘つきなので、『「クレタ人は嘘つき」』は嘘になるはずなのだが、本当のことを云っていることになり、矛盾が生じる。

逆に、この命題を偽とすれば『「クレタ人は嘘つき」』という発言は嘘になり、矛盾が生じる。

『「私は嘘つきだ」』という嘘をついたエピメニデスは正直者だ、ということになるのだ。

ここで、世界のナベアツパラドクスについて考えてみる。

つまり、「3の倍数と3の付く数字だけアホになる」と発言するナベアツは、この説明時に「アホ」にならなければならないのではないか、ということである。

ゲーデル不完全性定理によれば、『「事実(観測された事項)」が定理に合致する』ということをもって初めて「『証明』として完結することが出来る」ということから、ナベアツのアホについての説明はできないこととなる。

私が数学が嫌いな理由は、解が一つに収束することである。

世界のナベアツ問題」について、どのような回答をするか。

ニーチェなら、「ナベアツは死んだ」というだろう。

京極夏彦なら「世の中にはアホなナベアツなどありませんよ。アホだと感じるなら感じる者が無知なだけです。」というだろう。

村上春樹なら、「完璧なアホのナベアツなどといったものは存在しない。完璧絶望存在しないようにね。」というかもしれないし、

サン・テグジュペリなら「大人は、みんなはじめはアホだった。」というだろう。

問いに対して、バラエティーに富んだ答えがある、哲学的な命題を愛して止まない。

そして、「2の倍数と2が付く数字のときに感じる滝川クリステル企画の実現を切に願う。

2拍子で喘いで、20から29までラッシュ、みたいな。

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