書評サイトに対する作り手側の視線http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080104
「ダメ書評」に対するマンガ編集者の視線http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080105/1199483357
映画監督の原田眞人監督の日記サイトから抜粋したものを引用しておこう。
2007/8/28より
ネットのおかげで「映画ファン」のスタンダードがどんどん堕ちている。どんなにつまらない感想でもだれかに届く時代になってしまった。幼稚な否定的意見が数値となり記録され作品の「評価」として定着する事態も生まれている。こういう「悪貨」を駆逐することは作り手にはできない。「良貨」、「良識派」といった本物の映画ファンの使命だ。彼らが前へ出て大きな声でものを言うことを時代は要求している。すぐれたものに出会ったら本気で褒める。本気で拍手する。それは、映画作りのプロセスに比べたらそれほどむずかしいことではない。
2007/12/25より
日本人の劣化はいろいろなところで顕著だ。ネットの書き込みに見られる「映画ファンの声」でも良識派は少数。席巻しているのは恐ろしくレベルの低い連中だ。自分の小さな世界にフィットするものが「いい映画」でそれ以外は「ダメ映画」と言葉少なに切り捨てる幼児的な権威主義がまん延している。当然、学ぶ姿勢が皆無だから映画的素養の深い映画というものは全否定してかかる。そういう「縁なき衆生」に「一票の重み」を与えて増長させているネットとはなんなのか。少なくとも英語圏では映画的素養の深い人々によるプロの映画評がどういうものか集めて読ませるROTTEN TOMATOESのようなサイトがある。日本語ではこれに匹敵するものがない。ネットで高得点を弾き出しているのはベタな映画だけだ。マニュアルのごとき情報垂れ流しで見る前からどんな映画かわかっていて見たらそのとおり、なんの発見もない映画が好まれる世界だ。そして、映画界がこういう傾向に迎合して動いている。ヒットする映画はますます公式化して、無能な監督を要求する。ビジネスは成立しても文化は荒廃していく。日本ではとっくに「映画は死んだ」のかもしれない。
2007/12/29より
ヴァーチャル多重人格のテアイの書く「酷評」というのは酷評になっていない。プロの映画評論家の酷評でも作り手にとってどこまで酷評になりうるかという命題を先ず理解しなくてはいけない。作り手をどきりとさせる酷評を書くためには最低でもその作品の背景、技術面をおさえていなければ無理だからだ。
原田眞人ってあのめいさく「ガンヘッド」の監督だよね
原田眞人監督の映画に木村拓哉と二宮和也の出演が決まった。 役者ははまると思うから楽しみだ。 役者の相性さえよければいい事なのでどうでもいい事なのだろうが ジャニヲタと、原...