はてなキーワード: 共同幻想とは
ネウヨは、ブコメに「↓」とか矢印をつけて突付いてみたり、2chならIDを晒すなど、直接に名指しすることをよくやってる。
これは、自分では叩く能力が乏しいので、ほかの人に助けを請う意味で「乞食」であり、超越したものにすがる意味で「宗教」である。
ネウヨとか、深層心理では、自分自身を否定的に評価している。近年の経済動向では、そう思ってしまう人も多いだろう。このため、「優秀な」国家という共同幻想に所属しているのだから、自身も優秀だと妄想して補償しているにすぎない。
実際には、反論する知識や能力も低く、応援してくれる人も多いと勘違いしているために、直接に名指し、自分の意見を通すために、ほかの人やってもらうのだ。自分の優秀さを証明するために、国家にやってもらうのと同じ構造。「寄らば大樹の陰」というか。
でもって、こういう人って孤立しているもんだから、タグが「これはひどい」「死ね」「死ねばいいのに」「真性馬鹿」「馬鹿ばっか」といった、ネガタグばかりだったときはウケた。
なんとなく、代表的なAAの変遷によって、2ch自体の変遷を説明出来るんじゃね?と思ったんで以下だらだらと。
●初期(開設~ネオ麦茶事件あたり)
・モナー
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____
| | |
(__)_)
丸耳の初期バージョンもあるけど、知名度でいえばこっちかな。
オマエモナーという台詞は、お門違いな上から目線や自分を棚に上げて語られる論説に対する、相対化の役割を果たしていた。
なんとなく、まだネットがマイナーだった時代(80年代のパソコン通信あたりから?)にあった、ポストモダン(笑)的価値観が背景に感じられるキャラクターである。
・ギコ猫
____∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
~' ____(,,゚Д゚)< 逝ってよし!
UU U U \________
結構モナーとの共生期間が長いキャラクターだけど、途中からコイツの方が人気出てた記憶がある。
「逝ってよし!」という台詞はオマエモナーと同じく、権威的な言論に対するカウンターだけど、こっちはよりチャイルディッシュというか、「逝ってよし!」と言ったヤツ自身が「オマエモナー」と返されかねない危うさを孕んでいる。
ポストモダン(笑)的に語れば、ネット外社会に対するアウトサイダーの溜まり場だった2chが、2chという一つの大きな物語としての存在を確立し、ネット外世界に対する批判もその大きな物語に沿って行われるようになった……ってところだろうか。
(ところでポストモダンってこういうことでいいの?よくしらない)
・モララー
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・)< マターリしようよ♪
( ) \_______
| | |
(__)_)
純粋に「面白い猫のキャラ」としてAAを使いたいという需要から、このイマイチ特徴のないキャラが人気になったんだと思う。
このことからも、2chが一つのブランド化したことが伺えるかもしれない。
・やる夫、やらない夫
/ \
/ ヽ_ .\ パシャッ!
( ●)( ●) | ____
(__人__) | / \
l` ⌒´ | / ─ ─ \
. { |/ (●) ( ●) \ ・・・
{ / | (__人__) |
,-、 ヽ ノ、\ ` ⌒´ ,/_
/ ノ/ ̄/ ` ー ─ '/>< ` ー─ ' ┌、 ヽ ヽ,
/ L_  ̄ / _l__( { r-、 .ト
_,,二) / 〔― ‐} Ll | l) )
>_,フ / }二 コ\ Li‐'
かつてモナーやギコ猫は、猫のキャラクターという非社会的存在に自分の主張を仮託することで実社会では言いにくいことを無責任に言ってのける、一種のスーパーヒーローとして重用されていた。
だがそれに対し、やる夫・やらない夫は(容貌・性格共に)より人間に近い、等身大のキャラクターだ。
その個性は、ニートであったりオタクであったり非コミュであったり童貞であったり、より(俺のような)2chの平均的(象徴的?)ユーザー像に近いものとなっている。
これらの特徴はAAの発祥がVIPであることにも起因しているだろうが、それよりも「2chの普遍化」という理由の方が大きいんじゃないだろうかと思う。
つまり、2chがあまりにも有名・巨大になった結果、おなじみの「浸透と拡散」が発生して2chは一枚岩ではなくなり、つかの間存在していた「2chという大きな物語」は消え去り、現在はゆるやかに基底部分で繋がった状態(スキズマトリックス?)になっているんじゃないか、という推測。
この状態においては、もはやモナーやギコ猫のようなスーパーヒーローに身をやつすという行為はあまりにもロマンチックすぎるのだ。
●今後
当たり前だがw、どのようなAAが流行るかなんて全く予想出来るはずがない。
AAの流行は、デザインやキャラクター性が秀逸なら良いというわけではなく、様々な偶然が重なって巻き起こるものだから。
ただ、もはやギコ猫やモナーといったようなスーパーヒーローの時代は終わり、今後はやる夫のような等身大AAキャラの時代が続く……ということだけは断言してもいいんじゃないかと思う。
#それまでのAAキャラは、(上でも書いたように)合理的に「心に棚を作る」ための一種のスーパーヒーローだったが、やる夫はイチビリな、ただのダメ人間として登場した。
#かつてねらーの共同幻想として存在したモナーやギコ猫が暮らす架空の「2chワールド」は、残念ながらやる夫・やらない夫が繰り広げるドラマの中には存在しない(ように俺は感じる)。
#それが寂しくも思えるけど、ただよりやる夫シリーズなんかは、より深く実社会にコミットしていく面白さもある。2chのAAキャラはまだまだ終わらない。
DENPA!!!行って来ました。
ここ5,6年で一番いいpartyでした。
掛け値なしに楽しい!!!
昼間っからやってるのも健康的(←こう書いて「おっさんに優しくて」と読む)で◎。
内容、客層、ロケーション、料金すべてに満足できる、レベルの高いイベント。
ここまで"熱い"のは昨今ではかなり珍しい。マジおすすめ。ちょっとでも興味のある人は、一刻も早く行くべき。
とまぁ、ここまで書いて小休止。
自分は↓これ書いた人。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
自分語り(補)
http://anond.hatelabo.jp/20081223215937
自分語り(転)
「良いイベントだなー。こんな良いイベント久しぶりだー」と強く思ったのですが、
どうも悶々とするものがあり、それをこの2日間考えてました。
んで、marquee ( vol.70「次世代ファンタジー特集」に電刃の特集あり) とかユリイカ増刊号『初音ミク』とか買って
まだわからなくて悶々としてたんですが、主催者の"点と線"さんのブログを見つけてちょっとわかった気になったのでコメントします。
以下はアリバイとして書き残したい文章。もしかしたら読む人によっては不快に感じるかもしれません。
でも、申し訳ないけど気分を害すような文章をアップします。
(なので過去の『自分語り』で不快に思った人は読まないで下さい。)
冒頭の佐々木渉氏へのインタビュー『生みの親が語る初音ミクとアングラカルチャー』が抜群に面白い。
これだけで1,200円出す価値があります。今現在、初音ミク関連の資料として最も価値のあるものじゃないでしょうか)
きちんと書いてる暇がないので。
では先に進みましょう。
//////memo//////
[前提]
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html
慟哭 (3)
http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1019.php
栃内新,左巻健男 編『新しい高校生物の教科書』講談社ブルーバックス,71頁より
[目次]
1.「慟哭 (3)」を読んで
3.人類知に帰ろう
4.あなたはどう思ってるの?
6.参照元
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1.「慟哭 (3)」を読んで
慟哭 (3)
「あー、デュシャンか。理解理解納得納得」って感じです。
こう言ったら失礼(ネタバレ)かもしれないけど、電刃はデュシャン - ウォーホール - 村上隆のラインの音楽・ファッションverなのねと。
この流れだとたしかに「○○論」は確かに意味を成さないっす。「意味を成さないように働く機構」という罠・舞台装置だから。
(便器語ってもしょうがないし。まぁ、人類史上もっとも「すごい」便器なんだけどw)
次のエポックメイキングな事象はアキバのホコテン復活の時かもーとか妄想しちゃいました。
(補)
レディ・メイド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89
「泉」に関する個人的な解釈は、「心のヒダへの"effect"を芸術とするなら、
便器にサインして展示会に出しても芸術作品として"アリ"なんじゃね?」と提案している作品。
デュシャンは「美術を"effect"とするなら、『美しい』でも『怒り』でも『恐怖』でも何でもいいじゃん」と
「美術(芸術)」を「拡大解釈」できる素地を作っためっちゃ偉大な人。
(それまでは「真善美」を追求するファインアートが主流だった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
ウォーホールは「キャンベル缶も芸術作品じゃね?」と言った人。
(余談ですけど、村上隆は美術史的「文脈」をきちんと押さえてるから海外で評価が高い。
美術史をちゃんと踏まえ、理論として一貫しており、装置として実際に働くから「海外の美術界」では評価されています)
ガイジン「あー、そうかもそうかも!!」
(電刃は村上隆と違って商売っ気が今のところなさそうに見えるから、反発(というか"やっかみ")も少ないかもしれないですね。)
(ニコニコではちょっとあるみたいだけど)
(補の補)
電刃は「オタク等々を拡大解釈させる"装置"である」と言いたいだけ。
電刃を「芸術作品だ」とは言ってない。「芸術作品」という評価は「解釈が拡大する運動性」において無意味。
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
はてな民に対しては「気持ち悪い」かもしれませんが、
ホントは「パラレルワールドで幸せそう?に学校に行くシンジ(を描いた庵野監督)」が正解じゃないですか?
(「気持ち悪い」は悪い意味ではない。↓参照)
映画エヴァンゲリオンの最後、「気持ち悪い」ってどういう意味?
http://news4vip.livedoor.biz/archives/50801624.html
俺は電刃行って目の前ですんげぇかわいい長門がぴょこぴょこジャンプしながら踊ってて、
それ見ながらガン踊りできる幸せに絶頂を迎えそうになったけどなー。
「現実」を住みやすくする手立ては、陳腐な言葉(≠「仲良く」)の中にすでにあるのになぁと。
「アメリカヲチしようぜ!!」でいいような気がする。オバマ的な意味で。
(別にEUヲチでも構わない。もちろん)
3.人類知に帰ろう
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
正直なところ、その違いって、テクノウチ君の考察のように参加者が共通してポジティブかどうかじゃないかなとw
それで終わりじゃ駄目なの?むしろw。
(中略)
僕や参加者がそうだと言ってるんだからそれでいいじゃないと思うんだけども、
それでも解釈(知的経験の枠)の媒介を人は要求する社会学の囚人なので、
僕なりにそれ用の答を探求してみたんですが、もとよりそんなつもりはないので嘘はつけないなあというどうしようもない始末。
庵野監督が『気持ち悪い』でEVAを終わらせた心境から遠くはないです。
(関係ないけど社会学部だった僕の卒論は「社会学は永遠に社会そのものを追い越せない」というものでした)
(中略)
これは大変ありがたいことですが、DENPAはアカデミックな言説に幽閉されるよりも、ただ好きなものを好きという幼児的で野蛮で原始的な本能に基づいているのも事実です。それもコンプレックスをいだかず堂々と。
僕らは学論の探求ではなくエンターテインメントの探求をしている。
不恰好でも感動はほんものだ。
そのシンプルな行為がこんなにもやりにくく、珍しがられる時代になってしまったんだなあ
と感慨深くなりました。
marquee(vol.70)「次世代ファンタジー特集」より
文字打ちが大変なので割愛。
「アート(引用者注:「学問」という意味も多分に含まれてる)はどこに行き着くために問い続けてるかわからない」というインタビュアーの質問に対し
点と線さんが社会学のフレームで世の中をすっきり見れるように、
若い子にもその手段をゲットできるような仕組みを作ってあげたいなーと思ってみたり。
年下の子に「学問楽しいよー。いや、むしろキモチイイとすら言える!!」としか俺はまだ言えてないけど。
(カウンターカルチャーであるはずの「学問」が、「幽閉」する機構として働く日本の異常性がアレなんだよなぁ)
学生運動とか創価学会とかオウムとかプロザックとかと変わんない気がします。
最近は「死なない程度の失敗ならおk(死なない程度に納めよう)」という考えの人多し)
鶴見済ですら
http://tsurumitext.seesaa.net/category/3920016-1.html
と言ってるのだから、たとえ手詰まりでも「ポジティブであればいい」とは言わない方がいいんじゃないかなーと思ってみたり。
まぁ、アメリカとかEUは全然手詰まりに見えないので、「手詰まり」こそが共同幻想な気がしますが。
(個人的にはバンクシーみたいな手法が好き。愛しつつコケにする系。音楽だとBUBBLE-Bさんとか)
バンクシー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC
BUBBLE-B / アムロケット
4.あなたはどう思ってるの?
オタクって何?
オシャレって何?
疑問に疑問でお返しします。
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「面白い」とか「なかなかのもの」とか言ってくれた人ありがとう。
全レスすると「キモイ」とか言われちゃうので、指摘してくれたコメにのみ応答。
clonicle 言っていることはまっとうだが、「ジャンクフード」(=人によっては取るに足らない虚像)だと発言することでテクノウチを決断主義者に仕立て上げるのは悪質
「決断主義」って言葉の意味を調べましたが、よくわからなかったです。
fuldagap「「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?」が微妙に誤読な気も。「化学調味料うめえ」じゃないかなーとか。総じて現役/引退オタクの自己正当化合戦に見える
そうです。たしかに「化学調味料うめえ」なのですが、
化調まで抽象化しちゃうとかえって伝わりにくいかなーと思い「ジャンクブート」にしました。
(「化調」に対応するのが「ビート」だけになっちゃうので。音楽的広がりが欲しかったので「ジャンクフード」と表現しました)
fuldagap 「全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった」ってのは「アツ」くない人が見えにくかった時代がゆえの偽史だと思うなあ
「『おたく』とアイデンティファイされるようなファナティックな人々」が母集団ですから。
y_arim ぼくの知る限り、昔だってヌルいひとはいた。だけど時間の経過とともに彼らは「卒業」し、一貫して熱かったひとのみが生き残った。すると「昔は誰もが熱かった」という言説が生まれる。「元ヌルオタ」をどう語るか?
(『タイム・マシン』のエロイ的な意味で)幸せで「語り」に対してモチベがない人々に無理に語らせなくていいのでは?
ジャンプの発行部数見れば、「いた」ことはわかりますから。
mkd5 オタク 「おたく」のうち岡田氏の守備範囲が「オタク」となったってことかなあ/「(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)」これがヌルオタなのでは
「ヌルおた」は言語矛盾を引き起こしますが、「ヌルオタ」は新語なので好きに定義しちゃってください。
『竹熊健太郎氏との対話(1)』での解説が一番しっくり来るのかなぁ。
「おたく全般」にまで広げちゃっていいのかどうかはまだ自分として決めてないです。
6.参照元
は文字数制限を避けるために↓こっちに移動。
http://anond.hatelabo.jp/20090115000935
おまけ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1756156
フック
(追記)
ああ、そうかそうか。書きたいこと書き殴ってたらレポ忘れてた。
"DENPA!!!"に行ってきたよ。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090113/p1
お三方とそう変わらない印象。
3Fではアニソン流してカラオケノリでオイオイって感じ。2Fと3Fの交流はぼちぼち。曲や3Fの込み具合次第かな。
ロンドンナイトは行ったことないけど、普通のライブとか新宿で昔やってたグルービー・ロックキャラバンとかと相似。
僕は2Fで「普通に」踊って楽しんでました。
テクノウチさんの時間は、3Fのお客さんが大挙していらっしゃいましてまったく踊れなかったので、僕的には一番…w
NHKの方(ETVのカメラマンさん)は「アンディー」かなーっとちょびっとヲチしてました。
(こっそり追記)
metamix きちんとオーガナイズされてる良イベントだっていうのは分かったけど、
その先があるのかどうかをもっと知りたい/クラブピーポーには文化考証なんてどうでもいいんですよ。
要はその現場があるかどうかだから。
「その先」「現場」ってのがどんなものをイメージしてるかにもよるなぁ。
「Dir en grey」なのか「RYUKYUDISKO」なのか「初音ミク/ニコニコ」なのか「third summer of love」なのか。
「超ライトオタク」や「越境」云々は主催者も意図してない(?)「バズワードでのプロレス」(@inumashさん)なんで、
どの層がたくさん「ひっかかる/ひっかかってる」かにもよるかと。
(まぁ、お客がみんな「かっこいい/かわいい」と書かれているってことは、
ちょっとキモ目の"いわゆる"「おたく/オタク」はあまりいないってことでもあるような気がするのはきっと気のせい。)
(昔に比べて非寛容な人が減っただけのような気がするのもきっと気のせい。)
【佐々木渉】 三年くらいしたら「初音ミク?そんなのもあったね」で良いんですよ。(中略)
まあウチも営利団体なのでもしかしたらヴァージョン・アップ版とか出すかもしれませんけど(笑)。
ただ、引くタイミングは考えないといけませんね。初音ミクにまで泥を塗って、
グダグダと退いていくようなやり方は、やっぱり不味いので。
ユーザーさんからも「『ぷよぷよ』を作った会社(株式会社コンパイル)が辿った末路を、よく調べておいて下さい」という
(独り言)
表題の文字数制限が結構シビアでした。
本当の表題: 本当に初音ミクを用いた自己言及的で無いオリジナル曲が広く受け入れられるきっかけになったのはメルトが原因だったのか
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20081207/1228685979
元エントリの内容については、一つの流れから何を汲み取るかは人それぞれだと思うので特に反対とか賛成とかはありませんが、表題の件については記事中の「共同幻想」を楽しんでいた自分の個人的な実感とは明らかに違っていました。
あの曲もあの曲もメルトよりずっと前に出ているのに、と。
そこで、メルトが発表される前までの時期のニコニコ動画の「VOCALOID殿堂入り」タグが付いている動画(再生数10万回以上)から「自己言及的でない」(初音ミクやVOCALOID自体を歌詞のネタにしていない)と思われる動画を並べてみました。
(自己言及的かどうかについて一部微妙なのもあります。主観です。また、あくまで2008/12/08 5:00現在「VOCALOID殿堂入り」タグが付いている動画からのみ取っているので現実とのズレはあります。例えば重要な「私の時間」(10/22)には「VOCALOID殿堂入り」タグが付いていませんでした)
もちろん、メルト以降に再生数が大幅に増加した動画(記事中で指摘されているメルトによる影響を受けた動画)もあるとは思いますが、ほとんど全部が発表当初から親しまれている動画だと思います。
10月からの分しかありませんが、こことか見るといいです。
http://www.geocities.jp/vocaran_link/
8/31 | 初音ミク発売 |
---|---|
9/09 | WhiteLetter(原曲は9/09。アニメPVで爆発的に伸びましたが、そのPVは10/27) |
9/17 | すくーる・うぉーたー・こすちゅーむ |
9/25 | この想い伝えたくて |
9/26 | Chocolate☆Magic -ドキドキ大作戦- |
10/05 | celluloid |
10/08 | 護法少女ソワカちゃん |
10/08 | Dreaming Leaf -ユメミルコトノハ- |
10/22 | 子猫のパヤパヤ |
10/27 | Lividus |
10/29 | moon |
11/02 | 桜の季節 |
11/03 | 涙にさよなら |
11/04 | after resolution |
11/06 | 星空に願いを込めて -Good Night |
11/13 | なぜか変換できない |
11/21 | サウンド |
11/22 | ミラクルペイント |
11/25 | ストラトスフィア |
11/28 | Holy Star |
11/29 | 白の季節 |
11/29 | 永久に続く五線譜 |
11/30 | ストロボナイツ |
11/30 | ぴんぽんだっしゅ! |
12/03 | 雲の遺跡 |
12/05 | Daybreak |
12/05 | SING&SMILE |
12/07 | メルト |
ちなみに「恋スルVOC@LOID」は9/13で「みくみくにしてあげる」が9/20です。
OSTER_projectは「恋スルVOC@LOIDシリーズ」以外はほとんど自己言及的では無いですね。
「Packaged」(9/25, 自己言及的な曲)で有名なlivetuneのかじゅき氏も,「リラホルン」(9/21)や「シューティング☆スター」(9/23)など全然自己言及的では無い曲を同時期に出しています。
(「Packaged」の作者はkz氏ですが、例えばリストに載っている「ストロボナイツ」(自己言及的で無い)にも関わっています)
週刊VOCALOIDランキング(当時のみくみくランキング)や、当時のはてなダイアリーなんかでも見ればわかると思うんですが、メルトが出るまでに既に自己言及的では無い曲が受け入れられていることがわかると思います。
(その頃のはてなダイアリーは、初音ミク関連の話題で盛況でした)
思ったことなのでソースとか特にありません。
歌ってみたを含めてランキングの上位を独占し続けたことが大きな理由だったんじゃないかなと思っています。
記事中に記されている「メルトに対する反発」は、「コミュニティー内部からの反発」のことだと思うんですが、当時VOCALOIDの楽曲を楽しんでいたコミュニティー内部から、「曲が自己言及的である」ことに起因していそうな理由での大きな反発は……あったのかな?
「歌ってみた」自体に対する反発は結構あったと記憶しているんですが。
反発の件とも関係してきますが、次のニコニコ大百科の記事が自分の記憶とそれほどズレていないので引用します。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF
反発について
具体的には、8時更新〓13時更新の総合ランキングの1位から4位まで『初音ミクがオリジナル曲を歌ってくれたよ「メルト」』に関連する動画(原曲、halyosy ver.、ガゼル ver.、ミク+halyosy ver.)が並んだ。さらにはhalyosy+ガゼル ver.も一時7位まで迫り、5位まで独占もありえたというものである。これらが全て同じサムネイルであったことから、その異様な光景を目のあたりにした多くのニコニコユーザが衝撃を受けた。
歌ってみたについて
一方で、当日はサムネの強烈な印象からその存在に触れる声は少なかったが、実は原曲以外は歌ってみたであり、11/28の自演発覚祭り以来一時的に萎縮していた歌ってみたが復活の狼煙を上げた日でもあったといえる。
初音ミクが発売される前と、このメルトの前に歌ってみたで「自演騒動」があったんですね。
詳しいことは省きますが、とにかくそれで歌ってみた界隈の勢力はかなり縮小していたんです。
そこに、外部から有力な歌い手(プロ歌手のhalyosy氏)がやってきて高品質な動画を投稿し、メルトの曲としての親しみやすさも相まって本家と共に爆発的な人気になった。
それが引用元に書かれている「復活の狼煙」の一因になっていると思います。
それ以前にも歌ってみた自体は沢山ありましたが、これの件が「歌ってみた」分野からの進出が増え、「VOCALOIDオリジナルを歌ってみた」の再生数がこれ以前よりも伸びやすくなったことの一因になっているというのは間違いないと思います。
ただ、この件と「自己言及的」とのかかわりがどの程度あるかはわからないです。
とはいえ、やはり初期の空気(元記事で言うところの終わってしまった「神話」)というのはあったと思います。
ただ、それはどのコミュニティーでも同じだと思うので「自己言及的」との関わりは私にはわかりません。
例えば、メルトの人気でコミュニティーに新しい人が沢山やってきて……といったように何かのきっかけの一つになったというのはあると思います。
その時には「非自己言及」でそれまで「初音ミク」に興味を持っていなかった人にとっても聴きやすかったということが一つのキーになっていたとも思います。
こう書いてしまうと元記事の否定のようになってしまいますが、もう少しだけ。
(記事の趣旨自体に対する肯定否定ではなく、事実関係についての疑問です)
もちろん、そのコミュニティー全体としての初期の空気のようなものはやっぱりあって、
それが時間と共に変化していったということは間違いないことだと思うんですが、
「メルト」や「サイハテ」といった一つの動画によって何かがガラっと変わってしまったということには疑問符を付けたいです。
元記事では象徴としての「メルト」だとは思うんですが、どうも違和感が拭えません。
どうでもいい話ですが、私個人にとっての神話の終わりはデッドボールP楽曲削除事件でした。
終わったといいながら特に何が変わったわけではありませんが。
今もVOCALOID関連の動画はチェックしていますし、所詮私個人にとっての神話が終わっただけ。
まあ、人それぞれですよね。
ニコニコ動画の投稿動画を古い順に見ていくと懐かしさとかそういえばあったなあとか思うところが色々あって楽しかったです。オススメ
同期間の「VOCALOID殿堂入り」な「自己言及的な歌詞」の曲一覧
8/31 | 初音ミク発売 |
---|---|
9/13 | 恋スルVOC@LOID |
9/20 | みくみくにしてあげる♪ |
9/25 | Packaged |
10/09 | タイムリミット |
10/10 | えれくとりっく・えんじぇぅ |
10/14 | ハジメテノオト |
10/16 | もっと歌わせて2107 |
10/22 | 初音ミクの暴走 |
10/23 | 恋スルVOC@LOID-テイクゼロ- |
10/27 | melody... |
11/06 | みくみく菌にご注意♪ |
11/24 | あるお節介な言葉 |
11/30 | きみをわすれない |
12/07 | メルト |
(薄暗い部屋。タイプの音とディスプレイの青い光。はたと男はタイピングをやめると、くるりと椅子を回転させこちらに顔を向ける。男は、その血も通わぬ爬虫類を思わせる青白い顔を隠そうともせず、語り始める。左手には空になったワイングラス、右手には陰茎を握り締めている。)
「パンチラによる興奮とは」
(そこで言葉を切るとニヤリと笑みを浮かべ、こちらに視線を送ってくる。その目は、あらゆる汚辱を連想させるのに十分な汚らわしさ持っている。)
「スカートの下に、パンツが、下着が、もっと言えば、さらに深層には陰毛、そして性器がありますよね。それらが隠蔽されているけど、確かに存在するというギリギリのせめぎ合いの中にこそパンチラの美の断章があるということは、おのおのが胸に手を当ててみるまでもなく共有された、一般的な感覚でしょう。ここで重要なのは実際にパンチラがそこに見えた瞬間にそのエロティックな、張り詰められた緊張は突如として色を失い、泡のように溶けてしまうというです。私たちはパンチラに、はかない夢を見ているといってもいいのかもしれません。しかし、我々はパンチラという原始的で、その下に陰毛が群生していて、さらにその下には性器が待ち構えているという分かりやすさの中に現れる単純なエロティシズムに、我々のちんぽ的なものをあずけていいのでしょうか。我々、複雑さを好むオタクにとってパンチラなんていうのは児戯に等しいとさえ思います。実際に、パンツなどというものはとるに足らないものです。ではその下に欲望されるべき陰毛はどうでしょうか? 性器なら? 逆です、逆、これは逆なのです。性器に近づけば近づくほど、エロティックな情感からは遠ざかっていくのです……エロティシズムの井戸から、とめどない興奮と激情を汲みだせるのは想像力、それだけです。真にエロティックなものとは性器でも性交そのものでもなく、それを暗示し、ほのめかし、イメージさせる固定観念にまで凝り固まったイコンでなくてはなりません。
では、どのようなものがエロティシズムを喚起するにふさわしい、我々オタクのちんぽ的なものをあずけるに相応しいエロティックなイコンとなりえるのでしょうか。順を追って考えていきましょう。
まずパンチラの例を再度考えます。それが低レベルであってもエロティシズムのかけらを保有していることは、さっき確認しましたね。ではその際、重要なファクターとなったものも覚えていますね。そうです、隠蔽されているということです。スカート-パンツ-陰毛-性器というふうに多重に隠蔽されているからこそ、それを想像し、それを犯すことが出来るというわけです。では、どんどん性器から、性交から遠ざければ、多重に隠蔽すれば、エロティックな様相を帯びてくるのでしょうか。十二単? チャドル? ブルカ? フフ……確かに、個人的にはそれらに劣情を催すこともあります。個を排除し、まったいらにする……どこかみたいですね。しかし、それらは物理的な多重構造です。我々オタクはもっと知的になるべきです。物理的な多重性よりも、観念的な多重性を重視すべきです。布が何枚重なろうと、我々の想像力は北風や太陽よりも早くそれらを剥ぎ取ってしまうでしょう。
観念的多重性とは、観念的にスカートでありパンツであり陰毛であるところのものとは、つまるところ禁止の概念です。タブーです。我々はしてはいけない禁じられた遊びの中にこそエロティックなイコンを見ることができるのです。
それは実際の性交においても当てはまります。初めての性交は、少年と少女の共同犯罪ということができます。それはエロティックな、痙攣的激しさを持って行われる魂の完全犯罪ということができるでしょう。彼らにとって、それはしてはならない「禁じられた遊び」に他ならないのです。うしろめたさ、背徳と堕落が絡み合う瞬間……ひひ。
我々オタクはいつまでたっても本質的には子供ですが、禁止も侵犯し続ければ当たり前になってしまいます。そこにはなんのエロティシズムも見られなくなる……エロティックなイコンの神様はうつり気で恥ずかしがり屋なのでしょう。幾重のベールをめくり、やっと会えたとしても、すぐに隠れてしまいます。
しかし現代日本において、共同幻想として機能するエロティシズムは絶望的といわなければなりません。何一つ禁止されることなく、どのような性的なものでさえあけすけにばら撒かれているのですから。私くらいのオタクになれば、目を瞑って URL を適当に打ち込んでも幼女のどぎついポルノに行き着くことができますよ。ははは」
乾いた笑い声が響かせながら、男は机の上から茶封筒を取りあげる。
「これがなんだか分かりますか。これは、夢の残骸です。セカイを変えようとして、それでも変えられなかった、そんな夢の死体です。性を禁止し、徹底的に取り締まらなければならない、その理由と、それがもたらす平和についてかかれています。性を徹底的に匿名化し、性別という概念すら血液型レベルにまで追い込んでしまおうとするものです。そのセカイでパンチラを体験すれば、おそらく誰であろうと、今までのように低レベルなエロティシズムだ、などと思うことはないでしょう。それどころか、涅槃にまで到達できるでしょう。これを、我々の手にエロティシズムを取り戻すために、国会にねじ込もうとしたのですが……かれらは目もくれませんでしたよ……人をキチガイ扱いして! 何が性の抑圧は変態性欲をつくり出す、だ! 何が前時代的だ! 何が表現の自由だ! 奪え! そんなものは刈り取って抑圧してしまえ! アスファルトの下に咲くたんぽぽこそが、最も美しいたんぽぽだろうが! 貴様等、海外幼女買春ツアーの、想像力欠如の!! 蛆虫レベルの低次元のエロスに満足する豚どもが! いいさ! セカイが変わらないならこっちから願い下げだよ! 我々は、我々のセカイに逃げるのだよ! ははっはっははは!!!」
男は突然立ち上がり自らの陰茎を引きちぎり、両目を潰した。
「ひぎぃ! ふふふふ……いいんだ、これで、いいんだ……何もなくていい。何も見えなくていい……目を瞑ってみるセカイこそ、私に、もっともエロスを与えてくれるのだから。私はこれから記憶の澱の中で、過去の苦い経験の中で、エロティシズムをすくい続けるのだよ……もはや、ちんぽなどという分かりやすい絶頂は必要ないのだよ……」
そのとき、男の目から確かに一筋のエロスの涙が零れた。
その関係性が交換可能なものでもいい。むしろ、交換不可能な関係性などというものは存在しないのだから。メリットがなくてもいい。風俗に行った方が、性欲を解消するという意味では経済的だ。全然特権的でなくてもいい。純愛じゃなくてもいい。それが唯一でなくてもいい。不毛でもいい。その人を「本気で好き」じゃなくても構わない。システムの奴隷でもいい。ファッションでもいい(むしろそれはスタイルの問題なのだろうから)
独りよがりな妄想だと言われればそうだろうし、宗教みたいなものかと思う。なんだったら、それを恋愛と名指さなくてもいいのだ。感情と記憶の問題ならば、それは私の思い込みに過ぎない。どうやったって、相手に「それ」を確認する手段なんて存在しない。単純に、相手は私ではないのだから、分かりようもない。分かる努力はできるけど。だったら恋愛などというものは存在しないも同然だ。宗教が実態として存在しないように。それは存在するのだから存在するというトートロジーと共同幻想だろう。なんか当たり前過ぎる事言ってるけど。
ただ、時間の経過や、記憶の積み重ねや、コミュニケーションの試行錯誤や、体の重みや、快楽の切なさや、感情的応報や、そんなものが自分が生きているという実感を強めるような、現実の彩度が鮮やかに強まるような、重力に引っ張られるような、そんな体験をしたいだけなんだろう結局は。
http://d.hatena.ne.jp/noraneko/20071012/p1
これは、「来るべきものが来たな」という感じですね。
流れとしては、むしろ必然的なのかな、と。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20071012/uf
雇用だけでなく経済や産業構造だって流動的な時代だから、上の世代と同じように技術に習熟すれば同じような人生が待っている訳ではない。生産拠点ごと海外移転するかも知れないし、技術革新によって熟練した技術がコモディティ化してしまうこともある。
オイルショック以来、成熟時代へ向けて価値観を転換することの必要性は幾度となく語られてきたにも関わらず一時的な好況の度に議論は振り出しに戻ってきたのだ。企業の新卒志向、学生の大企業志向も同様。もはや持続しないことが明らかなスキームなのに、逃げ切りかかった大人たちと、あまり深く考えない若者たちの共犯関係の中で共同幻想が温存される。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20071008/bug
だから日本政治が迷走から脱却するには、恐らく理屈抜きに共有できる目標をつくるのが手っ取り早い。結局のところ戦後民主主義も戦前の価値観も同じように、目的合理的な価値体系に過ぎない以上、目的が異なる現代から参照しようとしても、国民にとっての普遍的価値観とはならない。
明治政府が一神教を前提とする近代国家に強引にキャッチアップし、戦後政府がラジカルな民主主義を建前として受け入れたように、これからキャッチアップすべき価値観を受け入れようという姿勢の中で、日本的な執拗低音によって、外部の価値観を換骨奪胎していくプロセスが必要なのだろう。日本で何かプリンシプルを打ち立てようと足掻いたり、過去の日本にプリンシプルたり得るものを探すことは難しいのではないか。
匿名ダイアリーの id:20070718150956 を読んで思ったこと。
ひょっとしたら、自分の「はてな」本館((ここはあくまでも匿名で名前は書かないのが流儀なんだろうから、今の所は伏せておくけど))で同じネタ書く((下手すりゃ、コピペ?))かもしれないけど。
正直な所、男性が性的な視線で見られるという事に鈍感だというのはあると思う。
逆に言うと、そのあたりは社会的な。と言うか明治以降、男性が身体性を否定されつづけてきた日本社会のジェンダー観がかかってくると思う。
実際、戦前戦後と男性というのは労働をすると言う役割が強くて一部の「種馬」は逸脱した存在であったと言う暗黙の共通認識((っつーか共同幻想))があって、その中で、男性のリビドーというのは存在しつづけたわけで、その部分を「赤線」「青線」なんかや「お見合い」と言うのがガス抜き装置として作用していたんだけど、そこいらも社会的な部分から否定されて、残ったのは、「恋愛」を通じたセックスの回路だけになってしまったと言う感じがするんですよね。
逆に、女性の側も身体性を否定されていて、「良妻賢母」だ「貞操」だなんだと言うあたりで抑圧されてきていて、抑圧がきつかった分、逆にアメリカ文化が入ってきたときにハジける具合が早くて、女性は男性のセックスアピールを見る目も、自分のセックスアピールがどう見られているかという視点も「鍛えられた」
そういう意味では、ガス抜き装置がある程度作動している分、男性の方が鈍感な場合が多くなるのは必然だし、「性的な視線で見られている」と言う意識は、実は男性の場合は恋愛と直結している訳ですよね。
笑えないのは、男性の女性に対する性的な視線と恋愛が直結している訳ではない。と言うパラドックスがある事なんですけど。
それはともかく、実際の所、「恋愛資本主義」って言葉に代表される最近の状況ってのは、男性が、自分の性的魅力がどう見られているのか、敏感になりはじめていることなのではないかな。と思います。
「恋愛でモテること=自分の性的魅力があること」であると言う事を、直感的な部分で感じているのではないかと。
ただ、そこをまだ言語化できていないとか、自分の性的魅力も他人の性的魅力もを通り一遍の基準で見ようとしている辺りが、ジェンダーの縛りがまだ(最低でも男性には)かなりきつい状況から抜け出せていないのではないかな。とかおもうんですけおね。
いろんなWEBコミュニケーションサービスが展開されている現在、どれもこれもIDやプロフィールっていう言説の仮主体みたいなもんを作らされる。
積み上げられた言説群が、まるで「自分ですよ」と名乗ってやがる。そんな妄想にかりたてられ、個人特定されるかも知れない不安をあおられる。
現実世界でも、「もしかしてこの人は自分のブログや書き込みを知っているんじゃないのか」という被害妄想。
誰かが自分のネット上の言説と絡む話を出したとき、その妄想は爆発する。
特に教育機関という構造上、教えられる側としては、教える側の未知なる情報把握の可能性に怯えざるを得ない。
増田で書くのもそろそろ限界だ。自分の言葉には、まさに自分が生きている。
匿名、なんていうシステム上の概念にだまされるほど、人間は鈍感じゃあない。
言葉をつむがせることを主目的としたシステムに、なんの匿名性があろうか。
IPアドレスだけを頑なに守ってきたアングラ時代の匿名という概念は崩壊してしまい、いまや匿名は共同幻想の中でしか意味をなさないではないか。
「恋愛なんてのは基本的に勘違いだからさ」
彼女はそういう。
「例えばこの千円札、君は千円分の価値があると思っているでしょう?まあ大概の人はそう思っているよね。ただの紙切れなのにね。だけど、この幻想が共有されている限り、千円札は千円分の価値がある。共同幻想は実体を持って成り立つんだよ。勘違いっていうのはそういうこと。恋愛ってのは比較的新しい発明なんだよ。発見ではなくて発明。それ以前には恋愛は存在しなかった。友情はたぶんあっただろうけどね。でも、恋愛という発明は偉大だった。共同幻想として成立しうるほどにね。けれど、恋愛が幻想だってのはみんな無意識的に認識してるんじゃないかな。少なくとも貨幣制度が幻想の上に成り立っているというのと同じくらいのレベルでは。だから自分のだけは幻想じゃなくて本物だって確認したくなる。それって、罪深いことだよね。悪いことではないけれど。そう、悪いことじゃない。ただ、共有されなくなったときに、幻想は実体を失う。みんなその恐怖に耐えながら恋愛してるのかな。少なくとも私は怖いよ。」
「なるほど、それはつまりぼくのことが好きってこと?」
「ん」
彼女はじっとこちらを見て、目を瞑る。