いろんなWEBコミュニケーションサービスが展開されている現在、どれもこれもIDやプロフィールっていう言説の仮主体みたいなもんを作らされる。
積み上げられた言説群が、まるで「自分ですよ」と名乗ってやがる。そんな妄想にかりたてられ、個人特定されるかも知れない不安をあおられる。
現実世界でも、「もしかしてこの人は自分のブログや書き込みを知っているんじゃないのか」という被害妄想。
誰かが自分のネット上の言説と絡む話を出したとき、その妄想は爆発する。
特に教育機関という構造上、教えられる側としては、教える側の未知なる情報把握の可能性に怯えざるを得ない。
増田で書くのもそろそろ限界だ。自分の言葉には、まさに自分が生きている。
匿名、なんていうシステム上の概念にだまされるほど、人間は鈍感じゃあない。
言葉をつむがせることを主目的としたシステムに、なんの匿名性があろうか。
IPアドレスだけを頑なに守ってきたアングラ時代の匿名という概念は崩壊してしまい、いまや匿名は共同幻想の中でしか意味をなさないではないか。
そしてネット人格ができあがる