はてなキーワード: ヒトラーとは
また、児童ポルノ法の問題が再燃しているので増田に書き込みます。
例のゲームについて騒いでいる市民団体が「サヨク団体だ!!」と言われているのを聞いて、
思ったのですが、我々反対派は、規制推進派が言う「日本は児童ポルノ大国」
などという主張に対し、嘘だと反論しているわけですし、
「児童ポルノ法など、表現規制をもくろむ連中は、日本を不当に貶める反日連中だ!!」と言って、
というのも、実際に、児童ポルノ法に反対している保守系の人間はいるのです。
例えば、保守系運動家のカリスマ的存在である水間政憲氏のコピペには
児童ポルノ法についても言及されています。
2009-01-04 12:17:23
ネット上に蔓延している「反日法」にたいする不安は、確かにそれぞれ国を弱体化させる由由しき問題です。
しかし、津波のように押し寄せてくる「反日国家解体法」に対して、浮き足立ってバラバラに対処していては適の思う壺です。
そこで『日本鎮護』を成就するため、皆様が「反国家解体法」対処順位を認定して、ネットの力を最大限に活かす必要があります。
その第一は、国家主権に直結する反日法阻止です。それには、国籍法・外国人参政権・1000万人移民推進阻止を主要ターゲットにして、付随する偽人権擁護法案・ノービザ観光客推進・児童ポルノ法(法律の悪用の防止策)を監視・阻止するために、日常的に国会議員へ問題点を継続して手紙・FAXで要請することが重要なのです。
現在、緊急を要する問題は、外国人犯罪者第一・二の韓国・中国へのノービザ観光推進阻止です。中国観光客の添乗員廃止など言語道断です。観光客の逃亡実態を記載して、外務委員会・国交委員会に所属している国会議員を中心にFAXで要請しましょう。
と水間氏の定義では児童ポルノ法改定は「反日法」の一つに入っています。
国民が知らない反日の実態には、児童ポルノ法改定案についても反日法として言及されています。
人権擁護法案や国籍法改定案などの例を見ても、右派が騒いだ法案はかなりの確率で潰れています。
残念ながら規制推進派に議論は通用しません!! そのままでは必ず押し通されてしまいます!!
「反日」「国賊」「売国」と保守派を煽ることにより、法案を潰しましょう!!
水間政憲氏を動かすのが非常に効果的です!!
規制反対派には、左派の方も多いので不快に思われる方も多いと思いますが、
右派が「売国」「反日」と騒いだ法案はかなりの確率で潰れています!!
チャーチル首相は、独ソ戦が始まった時に「もしヒトラーが地獄を侵略したら、私は悪魔を支持する」と言ったそうです。
つまり、大きな敵を倒すためであれば、別の敵とでも組めということです。
ウヨクだろうとサヨクだろうと、味方になる人は味方にすべきです。
そういう心構えを持たないと、法案は阻止できないのです。
丁寧な説明で痛み入るけど、ますます解らない。
>普通にユダヤ人であろうと診療は受けられてたのは自明の理なのに、
いつの間に「自明の理」になったんだろう?そのあたりの正否の話をしてたんじゃ?
提示された「入院記録」の背景にこういった話がある以上、同じような「入院記録」が幾つあっても同じてな話はしたよね?Solomon Radaskyの入院記録は彼の証言を裏付ける資料になってるよ。
報告の手紙があれば資料としては充分だと思うがね。証言を裏付ける資料になってる。
>全く労働力のない子供も収容所にいたこと、この質問もまだちゃんと答えられていませんね?
これも意味が解らない。俺は「子供はいない」て書いてないでしょ?トラバ読み直しちゃったよ。「子供もいるでしょ」みたいな事は書いてるが。出産の話でしょ?違う?
>一度読んでみるといいですよ。
http://www.nizkor.org/hweb/people/z/zundel-ernst/supreme-court/1992-on-appeal.html
俺は少し認識に間違いがあったようだ。1・2審で敗訴、控訴審で言論の自由ではなく「表現の自由」を憲法違反ではなく「カナダ国連憲章違反である」との判決で勝ち取っているね。
>「絶滅収容所なら他へ移送するのはおかしい」とも答えたはずですが、それはどうなんですか?
これはね、ソ連軍がアウシュヴィッツに迫ってきた際に行われた移送でしょ?アンネがベルゲン・ベルゼンに送られたのもそうだよ?Solomon Radaskyもダッハウに送られてるね。
>私の提示したリンク先全然読んでないんですね。
いや、読んだよ?そこでの論調は「この文書が偽造されたものであることを証明しているわけではありません。」に尽きると思うが?俺の認識では、今ではヴァンセー会議メモの真贋に関する論争なんか無いよ。
>そしてこれらが偽造だったとしても、内容はユダヤ絶滅を示していないという、正史派の意見。
これがまた解らない。俺は「ユダヤ人絶滅」が書かれている、とは書いてないんだよ。書かれているのは「労働とそれによる人口減少」だがね。なお、イェッケルにせよバウアーにせよ、ヒトラーの意図を最大限に考える学者(意図派というよ)はヴァンセー会議メモを重視はしないよ。官僚によって政策方針が決定された事になるんでね。
あと、プレサックの件なんだが、多分「The Machinery of Mass Murder at Auschwitz」だと思うんだが、そういう記述が確認できない。
http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm
「ヴァンセー」でも検索できないんだが、どうなってるの?それどころか
>ゆっくりとではあるが、経済管理局のメンバーは、「ユダヤ人問題の最終解決」を新しい焼却棟の処理能力と結びつけ始めた。
との記述があるんだが。どういうこと?
ちなみに「Technique and Operation of the Gas Chambers」の45pにもそういう記述はない。
>http://anond.hatelabo.jp/20090327200606
あんな、「矛盾だらけです」てね、俺が書いた「矛盾だらけの収容所像」はね、あなたの上げた資料とその周辺の資料と、あなたの信じてるサイトに書いてある事から、組み上げた収容所像ですよ?まぁ、子供の絵と焼却炉は俺の資料だけんども。あれか?ここは笑うところか?
あのね、あなたの上げた人の証言は診療記録等が裏づけ資料となって信頼性が上がるワケなんだけど、解っとるかい?オレも最初のトラバで「プリーモ・レイヴィーの本に実情が書いてあるよ」て書いたよね?イタリア人とポーランド人の証言がなんで同じような収容所病院の実情を示しているのか、てことだよ。あと、こういった証言がある以上、何人分の診療記録があろうが、病院の実情を否定する材料には為らん。オットー・フランクをだそうが、それは彼の運と体力の問題でしかない。それに治療を受て回復した人が多いというなら、何故巨大な焼却炉をアウシュヴィッツは必要としたのか。何故、収容人数が10万人程度のアウシュヴィッツはパンクもせず大量のユダヤ人を受け入れ続けられたのか。治療の甲斐なく人々は死んでいった、というなら何故解放しなかったのか。ユダヤ人は運べて医療物資は何故運べなかったのか。証明する必要がある。
それからね、死亡記録の件はご本人達がそう書いてあったんだよ。「ゴルビーから秘密で見せてもらった」てな。実際は遺族向けに販売もされとるよ。そんでな、その死亡記録は収容された人のみしか記録されていない。収容前に処理された人達は記録されとらん。「選別がなかった」というなら何故、アウシュヴィッツには老人がいないのか、鉄道会社の運行記録が残っているそうだが(ヒルバーグの被害者推計の根拠)、送り込まれた人数の15%ほどしか記録されていないのは何故か、残りはどこに消えたのか。「別の場所に再移送された」というならそれはどこか。証明する必要がある。もちろん、あなたがそれを証明するのではなく、否定論者が証明するんだけどね。大体、物資が不足して死者が大量にでるような環境を、普通とは考えにくいんだがね。あなた寄りに解釈しても、証言者が語るような悲惨な状況に繋がるんでないの?
出産記録はね、俺もブラウザ検索くらいやるわいな。w それでもよう見つけられんから訊いとるのよ。
それからね、野焼きちゅうか屋外焼却も行われてます。ホェスの告白書(出版されたほうね)では廃油やら染み出した脂やらと材木を燃料に燃やした、と書いてるね。アウシュヴィッツの地下からはその灰と見られるスラグが見つかってる。
言葉遊びじゃないけれど、「ユダヤ人絶滅計画」でググるのと「ユダヤ人絶滅政策」でググるのと、結果を見比べるとおもしろい。ちなみに海外では「ユダヤ人問題の最終解決」だね。今現在の学説で「ユダヤ人絶滅計画」なるものがあった、てのも無いんだがね。さぁ、「ヒトラーの命令書」なんざ無くても学問は進んでるちゅう事の証左にはなっただろ。
何に腹を立ててるか、ちゅう事には興味無いんだろ?じゃあ訊くな。感情論くらいなモンだよ。俺の矜持ちゅうかね。
>http://anond.hatelabo.jp/20090325213119
昨日、「なんちゃって関西弁が気持ち悪い」てトラバがあったから押さえ気味に書くわな?俺、ホントに関西在住なんだけどな。wちょっとキツく感じるかもしれんけど、詰問しようとか、そんなん無いからまぁ気楽に。議論じゃなくてお話だし。
先に訂正せなアカンことを。「歪んでる」って書いたのはあなたの人格の事ではないよ?知識つーか情報のことだよ?つまり否定すべき「ホロコースト正史」とやら(これもラベリングやな~)についての情報が歪んでるちゅうこと。人格は関係ない。俺、あなたのこと知らないし。知ってる気もせんではないけど。w ホロコーストについてアツく語る人なんて限られてるし。
エサをバラすと、俺も某巨大掲示板のホロコーストスレで長年否定論者とお話してきた人なんよ。もう4~5年になるかな。だから、大概のネタは知ってます。w 昨日上げた爆発濃度のお話も皮膚吸収も解答は知ってるんよ。爆発する前に即死するし、皮膚から吸収する前に即死するのよ。焼却炉もマットーニョのエッセイとズィンマーマンのエッセイを比較検討して、グーゼンのタイムシートから計算したら、100万人位は焼けるじゃろ、てなお話になっとるし。被害者推計についてもよくコピペされる文面だけど、被害者数に言及したものをかたっぱしから取り上げただけなんね、あれ。全体数も個別の数もゴッチャですわ。歴史学上はもっとキチンと出てます。もちろん学者ごとに違いはあるけど。
まぁ、ここらは余計なお話。俺はあなたが否定論を支持する意思を曲げる意図は無いよ。信じればいい、と思う。だけど「情報を素直にみれば」というのは間違ってる事は伝えたい。その情報自体が「素直」では無い。あなたは素直だけれども。アウシュヴィッツに資料が残ってるはずだ、というなら、何故提示されないのか。命令書が必要だ、というなら何故、T4作戦まで否定しようとする(ヒトラーの承認書有り)のか。T4作戦が事実ならば、その流れ上にあるホロコーストにさらなる命令は何故必要なのか。14f13の存在を知っていながら、「社会に貢献しない生命の抹殺」を否定できるのか。考えてみたほうがいいよ。
で、はてダとかで否定論(俺は修正主義という言葉は好かん)を攻撃する人達は、あなたが知ってる「情報」が歪められてる事を知ってるワケよ。で、「おまえはアホじゃ」って責めるワケ。その事自体の善し悪しのお話をしよう。
俺はあなたと違って否定論自体は「トンデモ」だと思ってる。「素直に情報を見て」ね。だから、ハマりそうな人には「ダマされるなよ~」とは言いたくなる。ハマっちゃった人はもうしょうがないです。wその代わり、俺の目の前でそのウソを垂れ流すヤツは叩くよ。あと、自説の証明を他人任せにするヤツとかね。あなたみたいに「思ってるだけ」の人は別に良いと思う。まぁ、増田に書いた時点で思ってるだけじゃなくなってるが。実際、俺は反応したわけだし。wこういう公然と人目にさらされる場所で、ホロコーストを否定する、てことは被害者に対してもう一度ホロコーストを行う事になる、ちゅう事も覚えておいて欲しいな。まぁ、否定論にならえば「被害者なんぞおらん!」てことになるんだろうけど。収容された人達にもう一度恐怖を植え付け、痛めつける行為なんだ、ちゅうことよ。あなたのその手を血に染めるな、て書くとカッコいいかもしらんわな。w
話がそれた。否定論に取り合わず、罵倒して流すっちゅう背景には「否定論と議論する者は、その協力者である」ていう考えもあるんよ。まぁ、俺もそこから逃げをうつ為に「お話しましょ」ていう体裁をとってるんだけど。wこれは否定論の狙いちゅうか効果として「いかにも歴史学上、論争がある」て思わせたいちゅう側面もある、と思われてるからやね。実際そうですわ。お話、ちゅうてるのに議論ふってくるとかね、で取り合わないと「逃げた」て言われるの。wあなたも覚えがあるでしょ。この短い間でももう発揮されてるわけだぁよ。おもしろいね。俺自身は思いっきり議論してみるのは悪いこっちゃないと思ってるんよ。消極的に黙殺するだけでは、その場はおさまっても、あなたのように、深いところで燻り続ける場合があるから。でも、議論しても納得してもらったこと、ないんだよなぁ。wこれはなんでか解らないんだけれども。反論は無いのに、しばらくしたら同じ事が出てくるのね。わからんなぁ。あなたも議論してみたければ、積極的にすれば良いと思うよ。
ただ、増田でやるこっちゃない。某巨大掲示板ならともかく。書いたように、否定論との議論を嫌う傾向はあるからね。某巨大掲示板は正論が通じないところだから、議論できるよ。そのかわり、叩かれる時ははてな以上に叩かれるけど。だから、あなたも思いっきり議論がしたいなら、某巨大掲示板へどうぞ。世界史板がオススメ。キチンと議論してくれる「正史派・肯定派」(イヤなレッテルだこと。w)のスレもあるよ。注意点としては、固定ハンドル(コテハン)は名乗らないこと。粘着しないこと。かな。
>http://anond.hatelabo.jp/20090319235938
一個一個片付けてこかー。
まずはなんや、ヒトラーの命令書か。確かに発見されとらんなー。せやからなんやっちゅうねんな。ホロコーストの歴史研究で、命令書を基本にした研究なんか無いやろ?あるんか?あるんやったら教えてェな。そんなんナシの状態でここまで研究は進んどる。その内容を検討もせんと切り捨てるその態度は気に入らんな。
次はなんや、遺体かいな。終戦前後しか連合国側にガス殺遺体とやらを確認する術は無い、ちゅうことはわかるか?ちゅうことはおまえさんのゆーとる事は、「戦後、解放された収容所にガス殺遺体が残ってないのはオカシイ」ゆーこっちゃけど、エエか?んでな、ガス殺ゆうのんは、終戦1年ほどまえから、中止命令がでとったのは知ってるわな?ちゅうことはお前さんは「1年に渡ってガス殺遺体が放置されてないのはオカシイ」ゆーこっちゃわな。オレが考えてもお前さんのゆうとる事のんがオカシイで?わかるか?わからんか。まぁええわ。次いくで。
次はなんや、病院か。病院あったらオカシイか。ほな警備しとった親衛隊の人らはどないすんねんな。死に放題か。それオモロイな。ついでゆうたらなんやけど、芝居小屋も売春宿もあるんやで、収容所にはな。まぁ、冗談はええわ。収容者用の病院もアウシュヴィッツには確かにあった。せやけど、別にオカシイこと、あれへんねや。アウシュヴィッツは労働収容所でもあったことは知ってるわな?労働力も確保せなアカンわけや。せやから病院もある。せやけど、病院の実情はどんなやったやろ?プリーモ・レイヴィーとかが書いてるわな、実情を。ひどいもんやな。東京にも大阪にもようさん病院はある、せやけど救急患者は死んでいってる。これは事実とちがうんか?「病院ようさんあるやんけ」言われても困るわな。そういうこっちゃ。
んでな、もうひとつあんねん。「大量虐殺計画」てなんや?そんなんあれへんやん?ヴァンセー会議ていつあったんかは知ってるわな?あっからやで、始まったん。それでも「死んだらしゃーないわな。w」くらいなモンやで、あれ。ちがうか。でや。
あー、も一個あったな。見落としとったわ。すまんの。人間石鹸な。RJF石鹸のお話とな、別のお話があんのは知ってるわな?アレをな、いっしょくたにお話したらアカンねん。ごっちゃになんねんやわ。たぶん、あんたもそうなってるんちゃうか。歴史学者も否定して、博物館から物が引き上げられたんはRJF石鹸のほうで、も一個のスパナー教授の研究してたヤツはまだ検討中やねん。べつもんやからワケとかなあかんで。
以上やけど、なんぞあるか。あんな、いらん世話やけどな、一遍、歴史の本は読んどいたほうがエエで、ほんま。ほなな。
書評:川口マーン惠美 著『日本はもうドイツに学ばない?』(徳間書店)
小生のようにドイツを知らず、漠然とした技術大国=ドイツの印象を身勝手に抱いてきた者にとって、この評論集は新鮮な驚きのパケッジであり、あのメルセデス・ベンツをつくる器用なドイツ人が、他方では奇妙な思考体系をもつことなど想定外のこと。またドイツおよびドイツ人の意外な側面を知り、本書はとても有益である。
一般的に日本人のドイツの印象は良い。いや、良かった、と過去形で書くべきだろう。
森鴎外が留学し、伊藤博文はプロシア帝国憲法を範にとって明治欽定憲法を起草、制定した。ゲーテ、トーマスマン、ヘルマンヘッセ、ワグナー。
手塚富雄、高橋義考という人たちの名訳でドイツ文学にしたしみ、西尾幹二の新訳でニーチェに親しむことができだ。三島由紀夫も第二外国語はドイツ語だった。
大学ではドイツ語を第二外国語に選択する学生は稀となり、中国語へ語学ブームは移った。
日本の戦後政治は混沌としてきたが、ドイツもご多分に漏れず混沌そのもの、いや東西ドイツ統一以後は、旧東ドイツの貧困を旧西ドイツが吸収し、そのためドイツの経済優等生の質が劣化した。さらには欧州通貨統一によって、ドイツ経済は中国に抜かれるほどに疲弊した。米国、日本に次ぐGDP世界三位は北京が獲得した。
ドイツにも政治家の右往左往、右顧左眄、売国奴の跳梁跋扈があり、構図的にいえば、ちょうど日本に売国的媚中派と保守派とに二分され、さらにその保守が真性保守、体制保守、偽装保守などに細分化されるように、ドイツの政治は、ロシアの利益と通底する二流の政治家がいる。
言うまでもなく売国奴的政治家とは、シュレーダー前首相である。
川口さんは舌鋒鋭くこう批判する。
「シュレーダーは首相在任中、毎年中国を訪れたが、当地では、徹頭徹尾相手の嫌がることには口を噤み、大型商談をまとめることだけに心を尽くし、中国人のやんやの喝采を浴びて満面の笑みを浮かべているのが常だった。そして、このシュレーダー外交を、官邸で、裏からしっかり支えていた」男が、後述するシュタインマイヤーというニヒルな政治家だった。
戦後、アデナゥワーは米国と協調したが、ブラント政権で東方外交へ急傾斜をはじめた。そしてブラントの個人秘書は東ドイツのスパイだった。
後継シュミット時代に「ドイツ経済は完全な停滞状態にはいったしまった。それを引き継いだのがCDUのコール首相。行き過ぎた福祉にブレーキをかけ、19990年には華々しく東西ドイツを統一下」(本書140p)
だが、いまやドイツ統一の偉業をなしとげたコール首相は顧みられず、現首相メルケルへの罵詈雑言が左派からなされる。仕掛け人は現連立政権にありながら次期首相の座を虎視眈々と狙うシュタインマイヤーらSPDの面々である。
現ドイツ政権は左右大連立で「十五の大臣のうち8つがSPD」。外交を取り仕切るのは左派なのである。
日本との比較で二点、異なるポイントがあると川口さんは指摘する。
「ドイツには日本とは決定的に違う二つの負い目がある」、それは「ホロコーストと戦時賠償未払い」
東方外交をすすめたブラント元首相はユダヤ人慰霊塔に跪き、ヒトラーを擁したドイツ軍がなした狼藉を謝罪したが、「ヒットラーの率いたドイツと自分とを同一視していない」。
いや一般的にも「ドイツ人政治家の謝罪はヒットラーが起したことに対する謝罪であり、自分や国民の罪に対するものではない」。
つまり「親族に人非人がいたことに対する悲しみの表現のようなものであり、つまり『あいつのしたことは本当に悪いことだった。恥ずかしい、許してくれ』と誤っているのだ。日本は幸いなことに、あとにも先にも身内にこのたぐいの人非人を持たなかった」(本書73p)。
本書にはホーネッカー(旧東ドイツの独裁者)が、旧東ドイツ市民が秘密警察に監視されつつ、生活がうまく行かずモノもなく、途端の苦しみを味わっていても、一人だけ核戦争にも生き残り、モスクワへ逃げる場合に備えた豪華な核シェルターを築いた事実が暴かれる。その妄想ともいえる塹壕が、ドイツ統一後、埋められる前の見学ツアーが行われ、川口女史はでかけて、壮大な無駄と独裁の虚無を見いだす。
それにしても直撃取材のフットワークの良いこと!
また“ドイツの良心”などと左翼ジャーナリズムに持て囃された“ドイツの大江健三郎的な作家”ギュンター・グラスが青年時代はナチの「太鼓持ち」だったこと、シュレーダー前首相がプーチンの代理人のごとき政治屋ロビィストであること、ダライラマとの関係でベルリンが北京へ頭を下げるのも、日本と同様であり、北京とはビジネスさえ旨くいけば中国に叩頭しても構わないと考えているのがドイツ人の大半であること等々。
次々と暴かれるドイツの真相を知れば知るほどに、表題のようにドイツに学ぶことなんぞ、もはや無いという結論が出てくるのだった。
日本人は英語が苦手だと言われる。理由として最初に思い浮かぶのは日本語は欧州系言語に比べて、英語の発音と根本的に異なるからというものだ。しかし自分の経験から考えると、日本語の発音体系に問題があるわけではなく、単に原因は英語っぽく抑揚をつけて喋るのを恥ずかしがってるだけという印象がある。学校の英語の授業を思い出してほしい。音読のときにアメリカ人のように思いっきり抑揚をつけるのは恥ずかしくなかっただろうか?逆に言えば日本人でも感情を込めてメリハリある日本語をしゃべる人は英語の上達も早い。日本語に「抑揚を抑えて発音しろ」というルールがあるわけではないのだ。しかし大部分の日本人は英語圏の人々と比較してボソボソ喋るので「感情が伝わりにくい+発音が悪い」と二重のファルターがかかって壊滅的な英語を話すハメになる。
日本人は農耕民族だから抑揚の少ない言語が発達したのだ、というのは一理ある。だが能楽師や剣道家の発する声を聞いてほしい。抑揚があるというより抑揚しかないと言えるほどにメリハリのある声だ。確かに日本人には猫背でボソボソ喋りがちになる歴史的背景があるが、それは尊ぶべき伝統ではなく克服すべき弱点なのだ。例外的に読経など抑揚を無くすことを良しとする文化もあるが、単純に日常生活でのコミュニケーションに上達したい!というなら抑揚はつければつけるほど良い。良い声というのは抑揚のある声なのだ。低い声や高い声というのは生まれつきだしあまり関係がない。以下、抑揚のある良い声になるための方法をいくつか挙げる。腹式呼吸を鍛えるとか呼吸筋のトレーニングとかは面倒くさいし誰も実践しないので書かない。
1.姿勢を良くする。
やっぱりか、といわれそうだが姿勢というのは声に直結しているし、スラっとした姿勢というのは人類にとって最も普遍的な善だ。その範囲は東洋の古武術、読経から西洋のオペラ、バレエ、果てはアメリカの大統領選挙のマニュアルにまで及ぶ。姿勢を良くするトレーニングというのは何百種類もあるが、最も簡単な方法は「頭のてっぺんに糸がくっついててそこから上にひっぱられてるイメージ」を持つことだ。これならヨガマットを敷いたりダンベルを買ったりする必要は無く、歩いてるときやデスクワークをこなしてるときでさえも、思いたった瞬間に実践できる。
コミュニケーションという観点からみればデーブの日本語は日本人よりもうまい。彼の声はどんなアナウンサーよりも抑揚に富んでいる。なんとなく聞き流してるだけではあまり実感できないが、実際にデーブ口調で喋ってみるとあまりの抑揚の豊かさにびっくりするほどだ。デーブ可愛いよデーブ。
「脱オタしたら以前のオタ仲間と会話が盛り上がらなくなって関係が消滅した」というのはよく聞かれる現象だが、これは多くのオタがテキスト化可能な2ch的、blog的コミュニケーションに依存しているからだと思われる。この方法に依存しすぎるとテキストを共有していない人間と話すときに頭がフリーズして感情が生まれなくなり、ボソボソ喋るハメになってしまう。相手と自分に共通点が少かろうとかまわず抑揚のある声で喋れるようになるためには、目の前の人間をブラジル人だと思って喋ってみることが有効だ。言葉がほとんど通じないブラジル人とコミュニケートするには、クソ生意気な小学生のように興奮したりはしゃいだり踊ったりしなければならない。必然的に自分の声はどんな相手に対しても抑揚のあるよい声になる。
楽しいってなんだろう。大学にいって、未来のための努力をし、院にいけるようにする。ここのどこに楽しいがあるのかわからない。やりたいことをやるわけだが、それが楽しいかは別だ。楽しみって日々の無駄に内包されてるかもしれない。
だけど無駄にはいろいろあると思う。必要な無駄と必要じゃない無駄。主に必要な無駄のなかに楽しみはあるきがする。楽しみが成り立つためにつまらないことがほかにもあるのだろうという発言はきっと典型的でそこまで非難は浴びないだろう。
必要な無駄という言葉はなかなか逆説的だと思う。息抜き、失敗などはかなりわかりやすいと思う。自分を保とうとするための利のない行動や無駄をしないために無駄を知る。それは包括的な意味で自分のために必要だ。だがその必要な無駄を行う理由のうちわけはだいぶ傾いているように思える。
少なくとも自分はそうだ。例えば自分が自分であることを保とうとし同時に向上心を持つ。そう自分に心がけるよりも、そう人に思ってもらうように心がけている。つまり社会的体裁のために無駄をしている。腹黒いともいえる。他人の非難を恐れているからだ。だけどこういう自分の考えは知られてしまえばむしろ他人から非難されるようなことで教育的道徳に反する考えだろう。でもそれが生きていくうえで不必要で無駄なことだとは絶対に思わない。他人、上司、友達、そして家族がそれを求めているか、それはNOだと思う。しかし社会はそれを求めている気がする、それをも求めていると言ったほうがいいかもしれない。
2浪ではっきしいってニート気味の僕がいる。
一応社会経験があるけどそれだけで社会を知った気になっているつもりははまったくない。匿名性を利用して自分の知識内で自分のことと訴えを綴りたい
顔色を窺って生きてきたツケがきたのだろうか、ここまでの道のりに時間と金とを失い心は荒み無意味な傷を刻み己に陶酔してきた。
ボクが人を殺したら人はボクをどうみなすのか
中学のころからいじめられ、心は荒み、一人を恐れ、学校で事件を起こし、親が離婚し、親が自殺し、受験で苦悩し自殺未遂をしたからこうなってもおかしくはない。もっと周りの人間が支えるべきだったと。
冗談じゃない。結果論にもほどがある。まったく倫理的じゃない。そう絶対的に言い切れる。
ボクは死んだらいいのに、死んでほしい、という人間はいるが自分で殺したいと思うかはまったく別の問題だからだ。一般的な例で言えば「金正日」がわかりやすいだろうか。加えて人を殺すのは嫌いだし阿呆だと思うからだ。自分の手を汚すなんてそいつに負けるのと同じだと思う。殺すしかなかったといってるようなものだ。任侠でもない限り人を殺すことに大したメリットはないと思う、現代における日本ではそうなんじゃないかな。こういった問題を常に一様化して、報道などで家庭の問題だとかいわれてもそれでそうですねとは頷けない。
短い文章にしてまとめるとみんな同じ様なことしか話していない。「家庭的問題、学校教育の問題を見直す必要がある」これをベースに意味を通すこととして必要ではない無駄な発言を蛇足しているだけだと思う。ただの知識のひけらかしでしかない体積だけを膨らました発言。もう事実を流して一言いって終わりにしてほしいと個人的に思う。こんなことを知ることに意味はあるのか、そういうことすら疑問に思う。
(一応推論だけど・・・、しかしながらこの蛇足的発言は内容ではなくもっと違った意味を求められているゆえに話される、いわば必要な無駄なのかもしれない。
こういったことを話す人はある程度の発言をてお金をもらうわけだし、報道をする人それを受信する人、社会がそれを求めているからやはり言わないわけにはいかないとは、一方では思ってもいる。)
では、ボクが芸能界に入り大スターになったら人は何て言うのだろう。たくさんの苦労を経験したから、人一倍苦労をしたからと言われるのだろうか
滑稽だと思う。
まずいじめを経験した人は世にたくさんいるし、大人になってもいやな思いはさせられるものだ。親が離婚してる奴なんてたくさんいる。自殺者は年間3万人いてそれほど珍しいことでもない。自殺したいなんて一度はみんな考える。行動に移すかどうかの違いだと思うし、後遺症もなければ病院に運ばれてもそんなにたいしたことでもない。
だからまとめてしまえばそれまでがどうとかよりも結果さえよければいいと社会は言っている。そういう声が僕には聞こえてくる。
ボクたちの道端で思われるような理想を唱える人は、人は、社会のシステムを見直すべきだと言う。もっと格差をなくし手を取り合うような社会にするべきだと。弱さを認識し互いにもっと理解しあうべきだと。命はもっと尊いものである、ボクは心のどこかでそう想っていた。
社会は俺たちの道徳を見直せと言う。そんな理想論はやめろ。おまえたちの道徳は間違っている。いいかげん目を覚ましてなにがなんでも結果を出せ。それができないのならおまえなど必要ないから死ね。ボクは頭でそうなんだろうなと思う。そしてこう求めるのも人だ。
学校では人にやさしくし結果より意気込みを褒められたものだ。だからボクはそうやって生きていけばいいと思っていたのかもしれない。
だけど決してそんなことはなかった。
そんなことはなかったんだよ。
そして、人の目を窺うような努力は要領のよいものではなかった。そして自分のために努力することさえも自分は下手だった。
残りの数年間でわかる気がする。自分の命が社会に真に価値があるか、努力が大嫌いだけど、なりたいもののためにしなければならない。今回受験で半年しかできなかった努力をのばしてみる。客観的に不可能だと思っている。センター前にこんなことしているからだ。なのに個人的には何故かできると思うからこれは駄目だなと余計に感じている。だから僕は叶うかどうかはぎりぎりわからないけれど、諦めている夢の希望を理由に生きている。人は「無理だよそんな考えでは、夢なんてかなえられない」と思うのだろう。そう思ってくれたら僕が予想した条件反射に引っかかった気分でうれしいものだ。でも、ぶっちゃけそうだろう。
僕は作家になろうと思っている。今は自分の顕示欲にすがってみるしかない。それをあと数年間の生きる言い訳にしてみて、数年後のそうじゃなかったときの十分な保険としての理由にしたい。
ヒトラーは命は弱さを許さないといった。そのとおりだと思う。必要ではない命もあるし、価値のない命もあると思う。屁理屈を言えば体は餌にはなるなどたくさんあるけどそんなことで物議をかもすようなことはしたくない。
思えばもっとたくさん殴られてくれば良かったんだ。貧乏になって心も貧しくなり、継続的な努力もできない今の自分を自認するほうがぜんぜん痛い。こんな自分以外の誰を恨めというのか。時代や社会に文句をつけることなんて、友達の近況聞いたら言っても無駄だと、みじめだと思うしかない。なんで俺は生まれてしまったのかと思う。
ただひとつ世間に甘えたいことは生きる権利よりも死ぬ自由がないことだ。
死亡志願者を月1で集団自殺する無人島でもくれれば、みんな実費でそこにいくっていうのに、拳銃がほしいのに手に入れ方がわからないのに。
ぐぐってもおとり捜査みたいなのばっかりでうかつにてがだせないよ。一括で死ねば警察の仕事もスムーズになって、失業者が多いんじゃなくて人口が多いんだよと浅はかながらそう思う僕にはとてもいい制度に思う。痛いのも高いのもいやだけどそれでも一気に死にたいと思ってるやつが3万人以上いるんだよ。ゴミが死ぬべきなのなら、ゴミに死なせやすくしてほしい。
誰かに死んでほしくないと思われればそれだけで生きている意味と価値があるなんておこがましいんだよ。
ゴミ人間は逃げては駄目だと、社会復帰すべきだと、そこまでならいいけど、それに加えて全員がそうなれるとボランティアさんがたは本気で願っちゃったりしているのかな。一人でも多くなんて思っちゃっているのかな。救えないものはしょうがないというのなら最初からやらないでみんな見捨てろよ。理想は現実じゃないんだよ。現実を見てゴミの分別しましょうよ。リサイクルできそうなものには手を加えてほしいと思います。でも駄目なものは燃やしたり、土に埋めてください。死ぬべきなんだと見えないシステムはちゃんと言っている。
話してもわからないやつがいて、殴ってもわからないやつはいるんだよ。そういうやつは特別な才覚でもない限り社会的共存において必要とされないんだよ
それなのに生きることを強要するなんて最低に卑怯だよ。そんなの本能でも理論でもかてっこないじゃないか。結局これも叶わぬ願いの他力本願で無意味な愚痴に終わってしまう。こういう考えは非人道的だと思われておしまいなんだろうな。そういう非人道てきなやつな社会的共存における不適合な人間は死ぬべきだって、生きていたって価値もないと、人を包括する社会がいってるのになぁ。
仮に生きて求められたものに応えたとき、はたして本当に僕の命を社会は認めてくれるのかな。
今までを振り返れば、本当に自分のしたい内容の仕事を目指しているか、そのためになにかをしてきたか、これからするのか、鏡をみれなくなる。青春と逃亡と勇気と決意。言葉だけ並べても平凡な人生だと思う。
これから僕は情報判断力を養えるのかな。井戸を出れるのかな。
心さえなければ人にほめられるような人間になれていたのだろうか。
OKOK。話は大変よく分かるし筋は通ってると思う。特に誤解はない。
そうすると、あなたと私の立場の違いは、国歌というのはどういう観点から誰が選ぶものなのか、そもそも何のためにあるのか、という点に関する認識の部分だと思う。
以下、三行でまとめ。
・そこで「開き直り」はあり得なくね? (あと最後に大事なこと言った!)
以上終わり。…とりあえず、暇が有れば以下を読んで欲しい。
国民主権の民主主義国家にあって、国歌を選ぶ主体が国民であることはまったく問題がないし(だからこそ国会で国旗国歌法が定められた以上アレが国歌であることを否定はしないけれど)、その際国民でない人には一票を(たとえ間接的であっても)投じることはできない、というのは実際その通りだ。でもそれは純手続き的な意味でそうであるに過ぎないのではないかな。国の「歌」というのは単に象徴として存在するだけではなく、事実様々な場面で歌わされるものでありそれによって国民の自覚を高め団結を強めるための道具であるわけだよね。神棚に飾ってあるだけでなく、事実使う、という。
従ってそれは、大げさに言えば日本という国の国民が持つ「国家観」に関わるものだと思うのだけれど、日本という国は、私の記憶が間違っていなければ、その憲法前文で「国際協調主義」を謳っておるね。
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
我々は日本人として『国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓』っているはずだと思うんだ。その点から見て、
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
…と、これを「関係ない」で押し切ることが適切かどうか、私は日本という国家の『名誉にかけて』この主張はまずいんではないかと思うがどうだろう。
さらに言うなら、そういう国際協調を憲法で唱える国が、諸外国から旧戦争指導者とみなされる存在を讃える歌(そうじゃないという解釈は所詮詭弁だと思うね。戦前に教育を受けた人で『君』が天皇を指さないと考える人など一人もいないよ。歌を変えないが解釈だけ都合良く切り替わるなんという説は『味噌も糞も同じにする』ようなものだ。)を「国民統合の象徴」として用いる、というのは、はたして日本という国の『名誉』の問題として、どうなのかね。
もちろんこれは、根っこのところでは天皇制を存置したことと同じ問題ではある。そして、私は先に述べたようにそれが「充分にやむを得なかった」とも考えている。昭和20年のあの時点で、占領軍には天皇制を存置する以外の現実的な選択肢は無かったという考え方に説得力を感じるよ。だから日本人と占領軍はいわば「コソコソと」天皇制を続行した。君が代はその余録で残ったようなものだね。確実に言えるが、敗戦時に天皇制が廃止され天皇の戦争責任が追及されていれば「日の丸君が代」は廃止されていたんじゃないかね。その状況なら「過去を振り返るためにこれは残そう」などという案は一顧だにされなかったことは確実だ。(…ただし、天皇を訴追していれば、軍の武装解除は進まず、結果確実に内戦が勃発していたと思うがね。)
そして多分その事情は現在もなお変化が無いんだな。法制化された現時点でもまだ「君が代」は「コソコソと国歌らしい何か」として存在するのが唯一やむを得ない正しいあり方であり、いかなる開き直りの余地もそこには無い、と考える方が妥当だと思う。開き直った瞬間に、確実に二つ三つと戦後日本を貫いてきた論理が破綻するからね。
天皇制を存置させた以上、君が代をおいて別の国歌を作ることもできず、かといって君が代を大手振って歌うことにも矛盾が残り……というダブルバインドから、我々は免れ得ないんじゃないかな。
いずれにせよ、「過去をきちんと振り返る」ということはとても大事だし、戦争を振り返ることはとても大事だ。その発想には同意する。同じ意味で「(押しつけであろうが無かろうがいずれにせよ唯一の存在としての)日本国憲法を愛し守ってきた戦後60年の日本人」の歴史の重みもきちんと振り返るべき時期にきている気がするんだ。
ふむふむ。まず前提として「国歌としてふさわしいかどうか」というのは国民が決めるものですよね。
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
(もちろん諸外国が納得しないからと国民が考えて「国歌変えよう」っていうのは国民の決断のひとつです)
>>「過去の功罪を振り返る」意味で国歌を変えるという選択は有り
当然アリアリです。同様に国歌を変えないという選択もアリだろうということです。
そして僕が後者つまり「君が代受け入れるってのこそ真に過去の功罪振り返ることだー」を支持するのは
国歌を変え「功罪を振り返った」という事実が人々に大戦をそれ以上振り返ろうとしない、遠い他人事めいたものにしてしまうのではと感じたからどぇす。
そういう論旨で書きましたが、そういう風に見えないかもしれません