楽しいってなんだろう。大学にいって、未来のための努力をし、院にいけるようにする。ここのどこに楽しいがあるのかわからない。やりたいことをやるわけだが、それが楽しいかは別だ。楽しみって日々の無駄に内包されてるかもしれない。
だけど無駄にはいろいろあると思う。必要な無駄と必要じゃない無駄。主に必要な無駄のなかに楽しみはあるきがする。楽しみが成り立つためにつまらないことがほかにもあるのだろうという発言はきっと典型的でそこまで非難は浴びないだろう。
必要な無駄という言葉はなかなか逆説的だと思う。息抜き、失敗などはかなりわかりやすいと思う。自分を保とうとするための利のない行動や無駄をしないために無駄を知る。それは包括的な意味で自分のために必要だ。だがその必要な無駄を行う理由のうちわけはだいぶ傾いているように思える。
少なくとも自分はそうだ。例えば自分が自分であることを保とうとし同時に向上心を持つ。そう自分に心がけるよりも、そう人に思ってもらうように心がけている。つまり社会的体裁のために無駄をしている。腹黒いともいえる。他人の非難を恐れているからだ。だけどこういう自分の考えは知られてしまえばむしろ他人から非難されるようなことで教育的道徳に反する考えだろう。でもそれが生きていくうえで不必要で無駄なことだとは絶対に思わない。他人、上司、友達、そして家族がそれを求めているか、それはNOだと思う。しかし社会はそれを求めている気がする、それをも求めていると言ったほうがいいかもしれない。
2浪ではっきしいってニート気味の僕がいる。
一応社会経験があるけどそれだけで社会を知った気になっているつもりははまったくない。匿名性を利用して自分の知識内で自分のことと訴えを綴りたい
顔色を窺って生きてきたツケがきたのだろうか、ここまでの道のりに時間と金とを失い心は荒み無意味な傷を刻み己に陶酔してきた。
ボクが人を殺したら人はボクをどうみなすのか
中学のころからいじめられ、心は荒み、一人を恐れ、学校で事件を起こし、親が離婚し、親が自殺し、受験で苦悩し自殺未遂をしたからこうなってもおかしくはない。もっと周りの人間が支えるべきだったと。
冗談じゃない。結果論にもほどがある。まったく倫理的じゃない。そう絶対的に言い切れる。
ボクは死んだらいいのに、死んでほしい、という人間はいるが自分で殺したいと思うかはまったく別の問題だからだ。一般的な例で言えば「金正日」がわかりやすいだろうか。加えて人を殺すのは嫌いだし阿呆だと思うからだ。自分の手を汚すなんてそいつに負けるのと同じだと思う。殺すしかなかったといってるようなものだ。任侠でもない限り人を殺すことに大したメリットはないと思う、現代における日本ではそうなんじゃないかな。こういった問題を常に一様化して、報道などで家庭の問題だとかいわれてもそれでそうですねとは頷けない。
短い文章にしてまとめるとみんな同じ様なことしか話していない。「家庭的問題、学校教育の問題を見直す必要がある」これをベースに意味を通すこととして必要ではない無駄な発言を蛇足しているだけだと思う。ただの知識のひけらかしでしかない体積だけを膨らました発言。もう事実を流して一言いって終わりにしてほしいと個人的に思う。こんなことを知ることに意味はあるのか、そういうことすら疑問に思う。
(一応推論だけど・・・、しかしながらこの蛇足的発言は内容ではなくもっと違った意味を求められているゆえに話される、いわば必要な無駄なのかもしれない。
こういったことを話す人はある程度の発言をてお金をもらうわけだし、報道をする人それを受信する人、社会がそれを求めているからやはり言わないわけにはいかないとは、一方では思ってもいる。)
では、ボクが芸能界に入り大スターになったら人は何て言うのだろう。たくさんの苦労を経験したから、人一倍苦労をしたからと言われるのだろうか
滑稽だと思う。
まずいじめを経験した人は世にたくさんいるし、大人になってもいやな思いはさせられるものだ。親が離婚してる奴なんてたくさんいる。自殺者は年間3万人いてそれほど珍しいことでもない。自殺したいなんて一度はみんな考える。行動に移すかどうかの違いだと思うし、後遺症もなければ病院に運ばれてもそんなにたいしたことでもない。
だからまとめてしまえばそれまでがどうとかよりも結果さえよければいいと社会は言っている。そういう声が僕には聞こえてくる。
ボクたちの道端で思われるような理想を唱える人は、人は、社会のシステムを見直すべきだと言う。もっと格差をなくし手を取り合うような社会にするべきだと。弱さを認識し互いにもっと理解しあうべきだと。命はもっと尊いものである、ボクは心のどこかでそう想っていた。
社会は俺たちの道徳を見直せと言う。そんな理想論はやめろ。おまえたちの道徳は間違っている。いいかげん目を覚ましてなにがなんでも結果を出せ。それができないのならおまえなど必要ないから死ね。ボクは頭でそうなんだろうなと思う。そしてこう求めるのも人だ。
学校では人にやさしくし結果より意気込みを褒められたものだ。だからボクはそうやって生きていけばいいと思っていたのかもしれない。
だけど決してそんなことはなかった。
そんなことはなかったんだよ。
そして、人の目を窺うような努力は要領のよいものではなかった。そして自分のために努力することさえも自分は下手だった。
残りの数年間でわかる気がする。自分の命が社会に真に価値があるか、努力が大嫌いだけど、なりたいもののためにしなければならない。今回受験で半年しかできなかった努力をのばしてみる。客観的に不可能だと思っている。センター前にこんなことしているからだ。なのに個人的には何故かできると思うからこれは駄目だなと余計に感じている。だから僕は叶うかどうかはぎりぎりわからないけれど、諦めている夢の希望を理由に生きている。人は「無理だよそんな考えでは、夢なんてかなえられない」と思うのだろう。そう思ってくれたら僕が予想した条件反射に引っかかった気分でうれしいものだ。でも、ぶっちゃけそうだろう。
僕は作家になろうと思っている。今は自分の顕示欲にすがってみるしかない。それをあと数年間の生きる言い訳にしてみて、数年後のそうじゃなかったときの十分な保険としての理由にしたい。
ヒトラーは命は弱さを許さないといった。そのとおりだと思う。必要ではない命もあるし、価値のない命もあると思う。屁理屈を言えば体は餌にはなるなどたくさんあるけどそんなことで物議をかもすようなことはしたくない。
思えばもっとたくさん殴られてくれば良かったんだ。貧乏になって心も貧しくなり、継続的な努力もできない今の自分を自認するほうがぜんぜん痛い。こんな自分以外の誰を恨めというのか。時代や社会に文句をつけることなんて、友達の近況聞いたら言っても無駄だと、みじめだと思うしかない。なんで俺は生まれてしまったのかと思う。
ただひとつ世間に甘えたいことは生きる権利よりも死ぬ自由がないことだ。
死亡志願者を月1で集団自殺する無人島でもくれれば、みんな実費でそこにいくっていうのに、拳銃がほしいのに手に入れ方がわからないのに。
ぐぐってもおとり捜査みたいなのばっかりでうかつにてがだせないよ。一括で死ねば警察の仕事もスムーズになって、失業者が多いんじゃなくて人口が多いんだよと浅はかながらそう思う僕にはとてもいい制度に思う。痛いのも高いのもいやだけどそれでも一気に死にたいと思ってるやつが3万人以上いるんだよ。ゴミが死ぬべきなのなら、ゴミに死なせやすくしてほしい。
誰かに死んでほしくないと思われればそれだけで生きている意味と価値があるなんておこがましいんだよ。
ゴミ人間は逃げては駄目だと、社会復帰すべきだと、そこまでならいいけど、それに加えて全員がそうなれるとボランティアさんがたは本気で願っちゃったりしているのかな。一人でも多くなんて思っちゃっているのかな。救えないものはしょうがないというのなら最初からやらないでみんな見捨てろよ。理想は現実じゃないんだよ。現実を見てゴミの分別しましょうよ。リサイクルできそうなものには手を加えてほしいと思います。でも駄目なものは燃やしたり、土に埋めてください。死ぬべきなんだと見えないシステムはちゃんと言っている。
話してもわからないやつがいて、殴ってもわからないやつはいるんだよ。そういうやつは特別な才覚でもない限り社会的共存において必要とされないんだよ
それなのに生きることを強要するなんて最低に卑怯だよ。そんなの本能でも理論でもかてっこないじゃないか。結局これも叶わぬ願いの他力本願で無意味な愚痴に終わってしまう。こういう考えは非人道的だと思われておしまいなんだろうな。そういう非人道てきなやつな社会的共存における不適合な人間は死ぬべきだって、生きていたって価値もないと、人を包括する社会がいってるのになぁ。
仮に生きて求められたものに応えたとき、はたして本当に僕の命を社会は認めてくれるのかな。
今までを振り返れば、本当に自分のしたい内容の仕事を目指しているか、そのためになにかをしてきたか、これからするのか、鏡をみれなくなる。青春と逃亡と勇気と決意。言葉だけ並べても平凡な人生だと思う。
これから僕は情報判断力を養えるのかな。井戸を出れるのかな。
心さえなければ人にほめられるような人間になれていたのだろうか。