シン・エヴァについてはおおむね好評価ではある一方、過剰なまでに攻撃的な批評もみかける。
自分としても手放しで絶賛するわけではないし、批判的な評価についてはなるほどと思わされることのほうが多い。
ところで否定的な論者の大多数が拒絶反応を示しているのが、前半の第三村での描写であることは間違いないだろう。
リアリティのない原始共産主義、ジブリのマネごと、昭和価値観、お涙頂戴的な黒波の死、等々。
それは分かる、分かるし同意できるところも多々あるのだが、シンジが心的外傷から回復したのは、別に村の温かさだとか人情だとかではない、というところは指摘しておきたい。
村の人と交流し、自ら働きかけ、またそれに呼応した人間関係を形成したのは黒波であって、
シンジは最初から最後まで(ケンスケを除いて)村人と一言も交わすことはない。
シンジを回復させたのは、ケンスケの、突き放しにも近い放置と、レイによる徹底した受容である。
彼らはまさしく善人だが、彼らのやり方では残念ながらシンジに変化を引き起こすことはできない。
黒波は仕事を通じて他者とのつながりを持ち、様々な感情を知っていく。
そうして少しずつ変化していった黒波が、今度はシンジの変化を引き起こす。
正直自分も観ながら、いつまでこの村のパートを続けるんだろう、と感じた。
この村のパートを削ったり、あるいは途中でWILLEの動きを挟むことで、ダラダラと村のシーンが続いたという印象を抑えることもできただろう。
それは日常というのは同じことの繰り返しで、ただ明日を生きることだけを繰り返していくしかないということ、それでも少しずつ変化が生まれていくということを示した。
凡庸な描写で退屈にもなるからこそ、それが必要だったのではないかと思う。
それともう一つ
アスカはこのとき自らも傷を抱えているので、シンジを受容する余裕はない。
それでもシンジをエントリープラグから引きずり出して、自分にはできないことをしてくれるであろう人たちに頼ることはできる。
こうして点々とつながることで、いつか回復につながる。
助けてもらったら、別の誰かを助けることでしかそれに報いることはできない。
(なお、庵野らしいな、と思うのが、綾波タイプや式波タイプはシンジに好意に持つようにプログラミングされている、という設定である。このプログラミングされた好意があるからこそ、黒波はシンジを徹底して受容できたのかもしれない(し、それとは無関係な黒波の意思かもしれない)。都合のいいすべてを受容してくれる美少女は結局作られたものかもしれない。小さな毒や皮肉な視点を潜ませずにはいられないオタク仕草。)