神字書きになりたい。
私はあるジャンルに最近ハマり、ABというカップリングで二次創作小説を書き始めた。
原作が世に出て日が浅いというのもあり、当初はpixivの作品数も少なかった。
書かずにいられない衝動と、作品数を増やしたい欲求から、私はAB小説を書き続けた。
そして一か月も経つと、ほぼ毎日のようにABのイラストや漫画や小説がTLに流れてくるようになった。pixivの作品数も1桁台だったのが50以上に達している。
AB好きとしては嬉しい状況だ。
ABを書きたいという衝動は常にあるため、相変わらず私は頻繁に新作を書いては公開していた。しかし、キャラクターをしっかり描いている上に時代考証や構成もすばらしい数万字の長編がアップされていたりすると、自分の書いた浅くていい加減で大して文章も上手くない5000字程度の短編がみすぼらしく見えてくる。
見えてくる、ではない。みすぼらしいのだ。
書かずにはいられないし、書いたら誰かに読んでもらいたい。だからpixivやTwitterにアップする。
そして神がアップした作品を読んでは惨めな気持ちになるのだ。私はどう足掻いても、ABをこんなに素晴らしく描くことはできない。彼らの魅力を伝え切れない。
「枯れ木も山の賑わい」と自分に言い聞かせて書き続けてきたが、私の書くものなんてあってもなくても大して変わらないのではないか、という考えに囚われ始めると、泣きたくなってくる。
神の小説を読んで、私もこんな風になりたかったな、と思ってしまう自分に気付くと自己嫌悪が加速した。
神だってそれなりの努力をして、その領域に達しているはずなのだ。何もせずにただ毎日いい加減なものを書き散らしているくせに、能力だけを欲しがろうと言うのか。
そう考えた私は、AとBへの理解を深めるべく資料となる本を読み込んだり、二次創作小説の舞台として設定した場所について時間をかけて調べたりして、自分なりに努力をした。プロットも、以前より細かく作るようになった。
しかし、それでも私が生み出せるのは毒にも薬にもならない短編だけで、神は日々素晴らしい作品を生み出し続けている。
そうして自己嫌悪を募らせていたある日、私の書いた小説におけるキャラクター解釈を「彼らの感情や人間性を蔑ろにしている」と嫌悪していた人が、神の作品に救われているのを見た。こうなってしまうと、枯れ木も山の賑わいどころか、私の存在は害なのではないか。
小説を書くのも好きだ。自分で書くものも(恐らく「自分が書いたもの」というバイアスがかかっているのだろうが)それなりに気に入っている。
それだけで満足すべきなのだと、頭ではわかっている。わかっているのに、私は私の書いたものを嫌悪する人の言葉に囚われ、神と自分を比較して勝手に傷ついている。
神は私の書くものが好きだと言ってくれる。
私はそれをどうしても信じられない。
素直に受け入れて喜べばいいのに、あんな素晴らしい文章を書く人がこんなものを読んで面白いわけがない、いつも私が感想を送るから気を遣わせているんだとかえって惨めさが増すばかりだった。完全な独り相撲である。
毎日とても辛い。いっそ小説を書くのなんか止めてしまって、読む側に回れば楽になるんだろうと思う。でも私はまだ書きたいのだ。小説を書くという行為を通して、AとBの関係性の美しさ、二人の愛の尊さに触れていたい。
そうした欲求よりも辛さが上回ったときに、私はようやくこの苦しみから解放されるのだと思う。それまでは耐えるしかない。
そうなる前に割り切れたらいいのに、とも思う。
たくさんかけたね
すごいわかるんだけど でも所詮は二次同人で上達しても後になにが残るわけでもないんだよね… 趣味と楽しめる程度にして現実で資格取ったり人間関係構築に励んだ方が良さそうな気も...