自分を見下してきた人間を一発逆転して見返したい、とも言い換えられる。
思えば、この欲望に取り憑かれるようになったのは、中学生の頃だ。
私の小学生時代は暗い。私は、醜い顔に生まれ、些事を大袈裟に捉えては珍妙な動きをする子供だった。小学校は、そういう子供が何事もなく健全な自我を育める場所ではない。加えて、私は運動神経も悪く、体育は晒し上げの場として機能した。
周囲の子供は私を、音の鳴るおもちゃとして扱うこともあったし、いじめの対象として嘲笑うこともあった。「こともあった」と濁しているのは、いじめの対象とならない期間もあったからである。ただ、当時から既に存在したスクールカーストは、いじめがあろうがなかろうが、常に私を下方に位置付けた。
ともかく、小学校6年間かけて、私は、「人よりも劣った存在」という自己認識を獲得した。
この自己認識が一転したのが、中学校の最初のテストである。最初の期末テストで思いがけず良い成績を取ったのである。
小学校時代、私はお世辞にも良い成績とは言えなかったため、仰天した。あれだけ自分を見下していた面々が、テストの点という尺度では私よりも下位にいたのである。
この成績は幸いにもまぐれではなかったようで、後のテストも継続して良い成績を取り続けた。
すると、何が起こるか?
あれだけ自分を蔑んでいた面々が、「勉強を教えてほしい」「お前は成績がいいから高校選べていいよな」等と言いに来るようになるのである。自分を馬鹿だ愚鈍だと嘲笑っていた彼ら彼女らの顔面が、悔しさと羨望に塗りつぶされていく様子を、目の当たりにした。
私は味を占めた。人生一発逆転、最高。
この胸のすく思いをもっと味わいたい。
これが人生一発逆転したい、という欲望に取り憑かれたきっかけである。
私は、この欲望を追いかけて、追いかけて、追いかけて、やがて大人になった。
……
欲望に忠実に行動した結果、私は、「順調に人生を歩んできた奴」になってしまった。
人生一発逆転の醍醐味は、ビフォアフターの上昇率にある。「あいつ、どうでもいい奴だよな」と言われていた人間が、ある事柄を機に上昇気流に乗り、一気に空へと吹き上がる。それを地上から見上げる人々の顔を空から眺めるのが気持ち良いのだ。
ずっと人生一発逆転を必死に追いかけた自分は、大成功はしていないけれど、そこそこ順調だ。ただし、ほぼ能力の限界まで努力をしてしまったので、もう大幅な上昇は見込めない。もはや、天空をふわりふわりと飛んでいる他人を、屋上から見上げることしかできない。
今から私が能力の限界を超えて何か事を成したとしても、それはある意味「順当だ」と見なされてしまうだろう。裏でどれだけの汗と涙があったとしても。
逆に、今でも下にならどこまでも落ちることができる。つまり、「人生逆転される側」になってしまった。しかし流石に、誰かの人生一発逆転のために、わざわざ屋上から飛び降りようとは思わない。
人生一発逆転したい。自分を蔑んだ奴らを見返して、胸のすく思いをしたい。そう思って周りを見渡しても、蔑んだ奴らはとうの昔に、散り散りに去っていった後だった。