氷河期なのでクソ上司列伝が書けるくらいクソ上司に出会っている。
accessが使えねえとか
検索ができねえとか
フォルダの中にフォルダ作ればファイルが隠せると本気で思ってるやつとか
いやもう一山幾らで測って捨てられるくらい無能がいた。
つらいことにそんな無能でもバブルとかゆとりとかだと氷河期のわたしより就職状況がよくて上司である。
死にたい。100年後くらいに金銀財宝に埋れて贅沢の限りを尽くした上で数寄屋造りの邸宅で絹の布団の上で横たわりつつ優しいメイドに看取られて老衰で眠るように死にたい。
泣こうが喚こうが罵ろうが事態は変わらない。
そこで私は無能とぼんくらは存在してくれるだけで己を有能で素晴らしい人間だと思わせてくれるありがたい人材なのだと思うことにした。そうでないとこの苦しみの人生やってらんない。
さて私はたまにすべての人間が能力に応じて評価される素晴らしい世の中が来てくれないかと考えることがある。
無能やぼんくらやろくでなしが上司にならない素晴らしい世界。言った言わないで揉めないし計画性がなかったり常識を知らない上司のご機嫌を取る必要もない世界。ハレルヤ。
さてその「すべての人間が自分の能力にふさわしい待遇を与えられる世界」で、無能とぼんくらはどうなるのであろうか。
例えば世の中氷河期とか貧乏とか病弱とか不運とかで自分は恵まれねえし認められねえなあと思ってる人は居ると思う。私もその一人だ。私は自分のダメさをある程度自分の責任だけでなく氷河期の責任にしている。
貧困家庭に生まれてろくな教育も受けず親に殴られて育った人なんて、人生うまくいってなくてもその人だけの責任だなんて言えるだろうか。
しかしだ。
あらゆる人間が生まれた時からできうる限りあらゆるサポートを受けて成人したとしよう。
例えば発達障害なら療育とサポートと薬が健常者と同じレベルになるまで与えられる。
貧困なら金を与えられるし愛情不足なら優しい里親に預けられる。そういう世界だ。
そういう素晴らしい世界において、人間の優劣を決めるのがその人間の才能と努力だけだとしたら。
あらゆるサポートと教育を受け、平等に努力と才能で評価される世界において、無能は
「おのれは愚にもつかないぼんくらで救いようもない無能に生まれついたのだ」と思い知らされることになる。
だって努力もしたしサポートも受けたのだ。それでもなお成果が出せないから無能なのだ。
世の中に不運とか逆境とか不公平とか、そういうものが一切なく能力だけで評価されるとしたら、その時無能と直面する人間はどうして生きていけばいいのだろう。
無能は無能であるというプラカードでもぶら下げて生きていけばいいのか。
だから私は一刻も早く「自分にだけ都合よくて甘くて上手いことやっていける時代にならないかなあ」といい加減なことを思うようにしている。
とりあえずボーナスくらい貰えるようにならんかなあ。
あなた善い人でしょ?! いいひと は、善意を安売りし過ぎなんよ...