2018-10-07

「人が死ぬ」ということ

社会問題を語るとき、「人が死ぬ」話がよく出る。

最近なら北海道停電医療機器が止まって子どもが死んだ、って話から原発必要性を語るツイートがたくさんあった。児童虐待子どもが死んでどうのこうの、という話もあったと思う。

「人が死ぬ」ことは一般的に、絶対に避けないといけないことだとされている。貧困餓死したら、事故死したら、停電生命維持装置が止まって死んだら、全てはいけないことであり、対策検討される。

これ自体はまさに人類人類として生きるための叡智であり、その歩みを止めてはならない。

しかし一方で、そのあまりにも正しすぎる道徳は、往々にして議論無意味にする。

前に出したように、原発を動かさないと人が死ぬ、電力不足は人を殺すのだ、と主張が一時期大いになされた。もちろん道徳的で非常によい意見だ。だが現実的ではない。

現代のようなある程度人権が確保され、安定した平和世界では、「◯◯をしないと人が死ぬ」という意見は、「我々には関係ない人が死ぬようにしろ」と同意なのではないかと思う。

世界が、社会がどんどん安定して簡単には人が死ななくなった結果、1人を救うリソースインフレしているのではないか。残念ながら人類リソースは有限であり、強引にリソースを増加させる行為は別の人を殺す。

話を戻すと、電力不足は確かに人を殺すだろう。だが、現代社会において電力不足の解消が救う命は、解消のために費やしたリソースのために死ぬ人より多いのだろうか。

そうしたとき、「◯◯をしないと人が死ぬ」=「◯◯をして人を助けろ」という意見は、「死ぬべき人はこの人ではない、別の人だ」=「他の誰かを犠牲しろ」に容易に置き換わる。もちろん、人類道徳大事にするので、表立って他人犠牲しろとは言わない。言わないが、やっていることが同じだとすれば、鬼畜所業と言えるだろう。

我々は表立って言わなくとも、社会のために、もっと言えば自分のために、常に誰かを犠牲にしている。もちろんそれは巧妙に隠され、少なくとも日常的に出会ものではない。

だが社会問題を語るとき、そこから目を背けることはできないはずだ。目を背けるべきでないにも関わらず強引にそれをすれば、我々には見えない生贄を際限なく増やすだろう。

私は、不完全な人類社会において、人が死ぬことは仕方ないと思う。だが、それがなぜ仕方ないのか、我々は正しい生贄を選んでいるのか、そして生贄をどう選ぶか、というトロッコ問題に悩み続けなくてはいけない。

無限にある分岐先のうち、どこで何人の人を跳ねるかなんて問題に正解があるわけがない。だが、自分の気に入った人を殺したくないとトロッコをどこかに追いやって満足する人間が、私は死ぬほど嫌いだ。それは間違っている。

私は死ぬべき人が死ぬべきだと思っている。線路ポイントを切り替えるべきではないと思っている。どうしても切り替えたいのなら、相応の覚悟がほしい。

覚悟がない人間がひたすら無秩序ポイントを切り替え続けた結果の世界が、今よりいい世界だとは絶対に思えないからだ。

  • 話の規模が小せえ

  • 現代社会において電力不足の解消が救う命は、解消のために費やしたリソースのために死ぬ人より多いのだろうか。 はい。多いです。

  • そもそも電力不足だから原発動かせっていうのは、全く意味がわからないですよね。 1. 原発は危険だから動かさない。 2. 電力不足は原発とは全く別に解決策を考えるべき問題。それだけ

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