アメリカで数年間暮らしているんだが、こないだランチを一緒に食べに行ったイタリア人にそう言われた。
そのときは「差別国家とまでは行かないと思うけど、まあ島国だから閉鎖的なところはあるよね」と曖昧に答えたのだけれど、それからその一言が自分の頭のなかにこびりついて離れない。
確かにイタリアのようなヨーロッパのなかで色々な民族がごちゃまぜになっている環境と比べると、(最近は労働ビザを持った外国人が増えてきたと思うけれど)日本というのは単一民族で構成された排斥的な国と思われているのかもしれないし、実際に排斥的なところはあるかもしれない。
ただ少なくとも自分が育った環境が「差別国家」という強い言葉で非難されたことに対してショックを感じたのは事実だ。
これはアメリカで暮らしていたときのエピソードで、以前に街中をドライブしていたときの話。
車で左折しようとしているときに横断歩道を渡る歩行者がはっきりと見えず、思わず接触してしまいそうになった。
実際には歩行者とは1m以上距離があり事故にはならなかったんだけど、その歩行者がこちらの車の窓に近づいて「Welcome to the US」と言ってきたのだ。
たまたま助手席に乗っていた友人もアジア系アメリカ人だったため、アメリカに来たばかりのアジア人で運転のことを知らないと思われたのだろう。
一緒にいた友人は「人種差別だ!」と激昂していた。
また、別のドライブの際には、他の車が私の車を追い抜く際に両目を指でひっぱる仕草を見せつけてきたこともある。
そういう人もいる一方で、多くの私の友人たちは私が日本人であるということを意識せず、1人の人間として私に関わってくれている。
それと比べると日本で暮らしていたときは、私自身外国人の友だちなんてほとんどいなかったし、おそらくは英語ができないからという理由で外国人との会話を避ける人も多かったという風に感じる。
そしてそれは外国人からすると、排斥的・差別的に感じるのかもしれない。
結局何が言いたいかを定めずにここまで書いてしまったから、明確な結論というのはないんだけど、自分も忘れないようにしたいなと思うのは、「人間である限り無意識のうちに(自分の生まれ育った環境を基準にして)差別してしまっているから、それを自覚してできるだけ差別しないように努めていこう」ということ。
そうして、いずれ海外から日本に来た人たちが「日本って思っていたより差別的じゃなかったね。来てよかった」。
そう思ってもらえる日が来ると良いなと思う。
最後に1つコメントしておきたいのだけど、私の友人であるイタリア人は決して日本が嫌いというわけではなく、むしろ日本のことを東洋の不思議な国として非常に好意的な印象を持っている(ように私には見える)ことは述べておきたい。
差別を「強い言葉」とするのが失笑ものだしそれでショックを受けるのはもはや腹が立つ 死ね
アメリカで増田が受けた差別と日本で外国人に対する差別?の違いは「相手を上と見るか下と見るか」だと思う 例えば都会の人が田舎に行くと「都会モンが来た」とある種の排斥感が生...