同情されるかどうかというのが、社会的に無視できないほど重要なのではないか
では人はどういう時に同情するのだろうか?
ホームレスを例にとって考えると
1.自分が家を持っていて、相手が家を持っていない時に同情する
2.自分が家を持っていなくて、相手も家を持っていない時にも同情できる
3.自分が家を持っていたことがあり、相手が家を失った場合には同情できる
※自分が家を持っていなくて、相手が家を持っている場合には同情できない(当たり前)
※自分が家を持ったことがなくて、相手が家を失った場合には同情できない(想像できない)
つまり
1.持ってる & 持ってない 【哀れみ】
2.持ってない & 持ってない 【同意】
3.持っていた & 失う 【共感】
ただしここで例外があって、「持ってない理由」「失った理由」が関わってくる
例えばその人が「好きでホームレスをやっている」場合は同情しないだろう 【価値観】
あるいは、「ギャンブルで借金を作って家を追い出された」などの場合も大抵同情できない 【責任】
ここまでが基本
さて、人はいろんなものに対して「持ってる/持ってない」がある
お金、地位、名声、家族、友人、親、子、配偶者、家、車、職、経験や思い出、おもちゃ、能力、食べ物、なんでもいい
その中で「持ってる方が良い」と思えるものについて、同情理由の対象となる
同情理由は1つだけあれば十分だ
例えば、何もかも上手くいっているように見えるお金持ちの有名人が居たとする
その人に対しても、親が亡くなった場合は同情できるはずだ
(※ただし、最初から親が居ない人には同情できないかもしれない)
これを【同情可能性】と呼んでみる
もちろん「責任」は出てくる
他の持ち札で対処できたはずだ、とか、努力が足りなかったからだ、となると同情に至らない
なので、「より持ってる人ほど同情してくれる」のは確かではあるが、「より努力により勝ち得た人ほど同情してくれない」と言えるだろう
もちろん、「よリ持っていない人ほど同情してくれない」のは当然だ
今の世の中は頑張ればどうにかなると信じられている物が多いため
中々同情可能性だけでは同情してくれないことも多いだろう
ここからが本題
上で述べているのは「個人間での同情」となる
つまり同情する側がいかに「持ってる人か」と、同情される側がいかに「持っていないか」が肝となる
しかし、メディアに情報が乗ってくると、「個人間での同情」が崩れ
社会のほうが「持っていない」で、同情される側が「持っている」と認知された場合、その人は同情されなくなる
あるいは、同情される側が他の多くの人より「頑張っていない」と認知された場合も、その人は同情されなくなる
例えば
Aさんの年収が3000万円だったとする
Aさんに対し、Bさんが「年収500万円しかない」と言えばAさんは同情してくれるかもしれない
しかし、Bさんの事が記事になって、「Bさんは年収500万円しかない」と書かれると、Aさんは「普通でしょそのくらい」と同情してくれなくなるかもしれない
といった具合だ
個人の意見は「個人間の同情」「社会対個人の同情」完全にどちらかに寄ることはないのではないかと考えている
個人間のときであっても、社会対個人の同情が強くなることもある (例:お前より持ってない人はいっぱいいる)
ただし、注目度に応じて変動するのではないかと考えられる
※ブログなどで、最初の10人は「かわいそう」と言ってくれるのに、バズった結果「甘えるな」という論調になるという経験則に基づいている
同情をコントロールするにはどうすればいいだろうか
個人が愚痴を吐く場合は簡単なことで、「バズったら消す」という方法が有効だろう
また、メディアが同情を誘いたい場合は、非常に冷めた視点に立って、他の人と比べなければならない
暇があればそのうち書くリスト
・親が同情してくれない理由
・貧困は同情に不向き