本来この場所にいるはずのない友人がきていて、そいつがその女の子を連れてきた。その場で三人で話をし始めた時、僕はその女性に惹かれていった。口数は少なく、内気そうであるが、清楚な子だった。
彼氏はいないと言っていた。細いひとえが美しく、なのに愛嬌ある顔が可愛らしかった。
友人が少しその場を離れることになって、僕は聞いた。
「名前は?」
「チャン・……シェイウェイ。」
今ではうろ覚えの名前。でも中国人だったのだろう。照れ臭そうに呟いてくれた。
僕は続けた。
「君ともっと仲良くなりたい」
当然、その女の子は戸惑った。でも一瞬だけ驚いた後に見せた、その困ったような笑みを見て、嫌がってはいないようだと気づいた。その事実だけで、僕には宝を手にしたように舞い上がった。
その女の子は、これから授業があるという。大学生なんだろうか。
いつもの僕なら「じゃあ、仕方ないね」で終わらせていただろう。僕も小さな用事があった。それでも、その時は終わりじゃなかった。何故かこの一回にかけたい焦りがあった。僕は続けた。
「僕はね、君に一目惚れしたんだ。もっと君を知りたい。もっと仲良くなりたい。良いかい。8:40分(その時から20分程度後)、もし君が良ければ、僕の部屋の前にきてくれ。さっき話したとおり、場所は大体わかるよね? 部屋のドアを少しだけ開けておくよ。僕はね、君に一目惚れしたんだ」
すべてを話し終えると、彼女はさっきと同じ、困った笑みで頷いた。
こんなこと急に言われて、むしろ嫌われたのかもしれない。でも、それでも良いと思えた。ただその一言を伝えられた。それだけで満足だった。
なぜだか、数年越しの想い分が込められていたような気がした。
その後友人がきて、僕達は別れた。
それから小さすぎる用事を終えて、僕は家に帰ろうとした。
しかし、やはりその場に本来はいるはずのない別の友人に出会い、呼び止められ、時間を食ってしまった。
しばらく話していて、感覚でわかった。約束の時間から三分は過ぎている。僕は焦った。
その友人との会話をなあなあに終わらせて、僕は夢中で駆けた。アパートへひたすら。そして最後の曲がり角を曲がる。
数人、人影が見えた。その中に……白いワンピース、青いジャケット。細くやわらかな一重が美しい顔……つまり、あの女性が立っていた。
少し場所は違っていたけど、それは当然だ。僕が唯一話した目印さえなかったのだから。それでも彼女は待ってくれていたのだ。
「お待たせ」
僕が後ろから声を掛けると、その子もほっとした表情を見せてくれた。
「少し予定が長引いて。じゃ、行こうか」
僕が手を取ると、彼女はまたはずかしそうに頷き、僕の手を握り返した。OKの合図。
幸せの瞬間だった。本当に幸せ過ぎて、今すぐその場で死んでしまいそうなほどに。その白く細長い手を握り、握り返されている感覚に、僕の全血液が沸騰しかけた。でもまだこれからがある。これから部屋に戻って、二人だけの時間を過ごして、それで……!
期待と興奮と選ばれたという優越感と、青春の甘すぎる蜜。人生で得られるだろう全ての幸福を一度に浴びたかのように、僕の脳は覚醒した。
そう、覚醒したのだ。しすぎるほどに。。、
部屋に向かって一歩踏み出した時、僕はぼんやりと気付き出した。
そして一歩、また一歩と足を前に出すたび、その思いは確信へ迫った。
段々と目の前の現実以外の感覚――聴覚や嗅覚が、目の前にはない、リアルの密度を持って、僕の脳をシェイクした。僕を呼び起こすように。そしてそれは事実そのものだった。
これは夢なのだ。
現実の僕はすでに社会人二年目間近で、妻を持ったまったく違う人生を歩むサラリーマン。その真実を僕の脳は瞬間的に受け止め、無理やり僕に理解させた。
それに気づいてしまえば、周囲の景色は急におぼろげとなり、まぶたの裏に広がる暗闇へと溶け始めた。もうこの世界の時間がないのだ。
「これは夢だったんだね」
僕の言葉に、彼女は反応しない。既にそれは彼女なのか、夢を忘れたくない僕自身が妄想した人物なのか。区別がつかなかった。
それでも、と、僕は続けた。
「君に出会えてよかった。君と出会えて。君に認められてよかった。君との出会いは、僕の宝なんだよ」
彼女のほうを振り向く。彼女は笑っていた。また困ったように。そしてゆっくりと消えていった。
もう、瞼の裏の暗闇しか見えていない。
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妻を否定するわけじゃない。妻との出会いから今日の今までだって僕の宝だし、あの彼女と妻がその場にいたら、僕は妻を選ぶ。
だからあの夢は、僕の一つだけの人生に与えてくれた、もう一つの可能性という宝だったのかもしれない。本気でそう思った。
今は正午。今では嘘のような話だ。自分自身で。
上の文章は起きてから10分以内に書き上げたものだから、感覚はそのままだと思う。
もう今では判断しようもないほど、遠い話だけど。