2021-07-05

anond:20210705011818

班長お疲れさま。周りの子たちの理解がない態度が悲しいね。私も独り言のように書かせて欲しい。

子供の頃は優等生タイプで物わかりも良かったので、障害学級に通う男の子と机を並べたり、ペアになったりすることがあった。物静かな相手だったし、嫌ではなかった。たぶん小学二年生とき、風船にひまわりの種とお手紙をつけて飛ばすという行事があって、文章が上手くかけないその雄作くんの代わりに私が手紙を代筆して用意した。校庭に全員が揃って風船を飛ばした。極稀に風船がどこかにたどり着いて、返事が返ってくることがあった。そんな児童クラスに1人か2人くらいで、それは鼻高々だった。そしてうちのクラスでは、かの雄作くんに3つ離れた市のおばあちゃんからお返事が届いた。クラスは一瞬沸いたあと、どうしよう…?という雰囲気になったのだと思う。私がまた返事を書き、以降、下島セツさんと私は10年近く文通をすることになった。

セツさんとお手紙をやり取りするのは楽しかった。先生でも親でもない大人友達がいるのは面白かったし、いつも丁寧な文字で私のことをめいいっぱい褒めてくれた。けれど、この文通は本当は雄作くんが楽しむはずだった、という受け止めきれない思いがずっとあった。今でもある。私が雄作くんのお世話をすればするほど、先生も雄作くんの親御さんも私の親も、みんな立派だと褒めてくれて気持ちよかったけど、雄作くんはどうだったんだろう。私が良い人になるための道具みたいに、なってはいなかっただろうか。私ばっかりいい思いをさせてもらったような、居心地の悪さがついぞ消えない。

それに中学に進んでから、すっかり雄作くんみたいな子を表で見ることがなくなってしまった。元気にしているのだろうか。ご家族ともども、楽しい時間人生の中にある日々だろうか。多様な人の暮らしに思いを馳せたくても、目に映らないからつい忘れて居ないように感じてしまう。あの日々、私は雄作くんの友達になれていただろうか。

消えた友達なら、正美ちゃんもいた。親同士が仲良くしていた一家の末娘で、出産時の事故脳障害を負ってしまったという。意思の表明が難しく、楽しんでいるのか、嫌なのかも、私には常によくわからなかった。あまり上手く立てなかった気もする。ただ、とびきり綺麗だった。10歳近くになっても幼子のあどけない眼差しが残っていて、野山を駆け回っていた私とは比べものにならないくらい肌が白かった。故に、ちょっと大きいお人形さんみたいだと感じていた。お姉ちゃんと私が同い年ということもあり、学区は違えど休みの日にはしょっちゅう行き来して遊んだ

ある日、大きなワゴン車1台に乗り合い、正美ちゃん一家我が家は合同でお出かけした。私は助手席の後ろに座っていて、ふとバックミラーを見ると、薄暗い最後部に座る正美ちゃんがさっき買った油揚げムシャムシャと食べていた。大人たちは仕方ないねえなんて笑っていたが、妖怪のように勢いよく食べる様子は冷や汗を感じるほど怖かった。あの日から接し方が分からなくなったのだと思う。もしかしたら、正美ちゃんがうちの家族じゃなくて良かったなどと不埒な思いが、頭をよぎったのかもしれない。それまで、お友達という存在は増えることはあっても減ることはなかった。私は正美ちゃん一家消息を知らない。あんなに日々を共に過ごしたのに、いつしかいなくなってしまった。

もう一人、記憶に残っている子がいる。小松くんと言って、白いハツネズミみたいな印象の男の子だった。こっちは普通学級にいたけど、おそらく今ではボーダーと言われるようなタイプで、問題児だった。座っていられない、話を聞けない、加減がわからない、善悪が分からない。優等生の私からするとエイリアンみたいだった。笑い顔が怖かったし、なんだか不潔な感じもした。なるべく関わらないようにしよう、私はああいう感じではないし、と軽蔑気持ちがあったことは間違いない。天は人の上に人を造らず、みたいなお題目はさておき、クラスにはカーストがあることをじんわり感じ取り始めた小学校高学年の頃だったと思う。

当時、中学受験に挑戦する予定だった私は、学校テストなんて勉強無しで受けて10分以内にすべて回答して95点〜満点をとることが当然だった。(特例で、終わったら図書館に行っていいことにすらなっていた。)特に国語は大得意だった、はずなのに、ある日のテストで1問解けない漢字問題があった。それはもう焦った。今までケアレスミスで失点することはあっても、解答欄を埋められないなんていう事態はなかった。悔しいことに、悩む時間たっぷり残されていて、私はもんもんとその空白を眺めていた。ふと周囲を見渡すと、隣の席の小松くんが目配せをして、もぞもぞ体を動かしてくれた。何をやっているんだろう?と一瞬考え、すぐに私が彼の回答をカンニングやすいように見せてくれていることに気がついて頭がカッとなった。私の埋められない例の一文、彼は埋めていた。

その答えを写したか、頑なに知らんぷりをしたか、どうしても思い出せない。モヤがかかったように思い出すことができない。私はもしかしたらカンニングをしたのかもしれない。でも記憶の端っこは、格下だと自分カテゴライズした人に優しくされたときに沸き起こった、恥ずかしいような情けないような悔しいような、ドッと押し寄せた表に出せない感情で終わっている。自分の中に人様を格付けした卑しさを自覚し、またそんな存在が優しい気持ちを持っていることに驚き、さらに憐れまれたことを悔しく思い、そう悔しく思う自身の下卑さをまた思い、ぐるぐるとパニックになったのだろう。

やがて大人になり、権利を主張することも、自分の言い分がいかに正しいかを当たり障りなく主張する口技も、日頃から誠実そうに振る舞ってここぞのときに有利な立場を得る処世術も、覚えた。それで日々をなんとか乗りこなしているし、厄介事も避けて生きている。

けれどどうして、思い出が胸に蘇る日がある。誰かと誰かがせんなく争っていたり、白黒をつけたがっていたり、ジャッジメントを求められたり。人は助け合って生きていくのよと教わった日々から遠く離れて、誰かを助け、誰かに助けられることを受け入れられる大人になれただろうかと考えてしまう。人に上下はなく社会的な有利不利しかないという事実自分が常に弁えていられているのか、思い出すたびに突きつけられて泣きたくなってしまう。

記事への反応 -
  • https://twitter.com/torakoawamori/status/1411113159046270980 これを見て思い出したことがある。 小学校6年生の時、自分は集団登校の班長をやらされていた。 同じ町内で10人くらいの班で数組に分かれ...

    • 班長お疲れさま。周りの子たちの理解がない態度が悲しいね。私も独り言のように書かせて欲しい。 子供の頃は優等生タイプで物わかりも良かったので、障害学級に通う男の子と机を並...

    • そんな立場に立たされて何の解決策も打たず一年間我慢するってそれはそれでなんかの障害じゃない?

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