はてなキーワード: 青年とは
あのなぁ、83年生まれってのはなあ、
バブル絶頂期に幼少期を過ごし、
しかし自足歩行が板につくころにはバブルがはじけ、
ゆとり教育云々のニュースを尻目に古式ゆかしい受験戦争を戦って、
やっと入った大学では先輩たちの「昔はこうじゃなかった」という言葉を耳にたこができるほど聴き、
実際は氷河期ほどじゃなかったけどコミュニケーションがどうのこうのとか新奇な指標を持ち出されて閉口し、
やっと入った会社では団塊の世代を目の敵にしてたおっさん(今や大量退職で天下握って調子に乗ってる)にこき使われてる、
っていうまじで悲しい世代なんだよ。ちなみにいじましく過した青年期は通称「失われた10年」とか呼ばれる期間な。
わかるか?
おれたちはバブルは知ってるけどバブルの楽しさは知らないんだよ(ここら辺の世代の感覚がわからない。初期の村上春樹にぴんとこない。
社会を意識しだしたときにはもうすでにソ連は崩壊してたんだよ(冷戦とか共産とか資本主義とか、知ってるけどリアリティーはない。
おにゃんこクラブなんて見たことないんだよ(終わった直後だよ女性を意識しだしたのは。よくわからんわー。
八時だよ全員集合も見たことない(ギリギリ記憶にないね。パロディーからオリジナルを知ったよ。
モー娘に冷めるんだよ(個人的にね。でももうちょっと早く始まってれば、熱狂できたのに。
初めて見るものがすべて「懐かしい」って言われてたんだよ(ガンダムも仮面ライダーもウルトラマンも、続編や再放送やレンタルビデオで見たよ。で、それが「なつかしの」なんてお題で特集されるの。わかる?この感覚)
「ゆとり」じゃないんだよ。(確か1つか2つ下の人たちからだよね)。
なんかねー、「あ、人生始まった」って時期に限って、何かが終わっていくの。冷戦も、バブルも、冷戦後の短い平和も、いろんな文化も。
で、そういうのを、団塊の世代とか団塊ジュニアの世代とか新人類世代とかシラケ世代とかバブル世代とか氷河期世代とかの人が、昔はあのころはそういえば、って嘆いたり言祝いだりしていた(る)の。
で、もう流石にもう世代とか言う言葉は使わねーだろ鬱陶しいしーなんて思ってたら、「ゆとり世代」の登場ね。
旧来のよろしくない教育を改め新たなよろしい教育を。なんてことを、その時期まさに旧来の教育を受けていた人たちはちゃんと聞いていたわけだけど、まあこれは逆恨みになるから詳しくは言わないことにする。まあ、ちょっと白けたねー、とは、言っておく。
色んな「世代」があるけど、なんかどの「世代」にもはまらないなー、って世代。それが83年あたりの世代だと思う。もしかしたらこの先「サカキバラ世代」と言われる様になるかもしれないけど、「世代って言われてもなぁ…」って感覚で聞き流すと思うな、自分は。
まあこんな感じで。何も言いたいことはないけど、「83年」に釣られて書きなぐってみた。
日曜の昼下がり、秋葉原で25歳の青年がトラックで暴走したあと、
ナイフを振りまわりしながら、最後は大人しく警官に捕まえられる。という事件が起きた。
青年の名は、加藤智大。以下、会った事のない彼だけど、親しみをこめて加藤クンと記す。
加藤クンはあたしと違って五体満足で、卒業した高校も進学校だったらしい。
だけど友達は少ない or 居なくて、孤独を感じていた加藤クンは、
いつしか将来有望で友達も多くて人生を謳歌している、
その気持ちすっごくわかる!あたしもそうだよ!!
抱えていた計画をついに実行することにした。
初日にナイフや警棒などの武器を購入、次の日はレンタカーを用意。
そのためになによりも大切なゲームソフトを売ったりして、
自分で自分を後戻りできないようにした。
さあ、はじめよう!
楽しそうに家族や友人と談笑している人々ばかりの歩行者天国に、
跳ねる人体、飛び散る血痕。
それを間近で見ていた加藤クンは、何を思ったのかな?
ほんの数分前まで幸せの渦中にいた人々の胸、腹、首に突き刺さる。
どんな気持ちだったのかな、加藤クン。
つかの間だったけど、加藤クンはたーくさんの人間から注目を浴びた。
ワイドショーも独占した。
すぐ忘れちゃうけど。
ここにひとり、君の理解者はいるからね。
二度と堀から出られないだろうけど、君は。
昔と比べて随分長生きするようになったからかな。
「普段からみんなに、にっこり挨拶してる人」って「好青年」「感じのいい人」と自分だけじゃなく周囲も判定するので、そういう環境の中でなにかのついでに飯食うくらいは全然いい。実際は違ってることもあるかもしれないけれど、挨拶さわやか→人と接するのが好きな人?ということで、重くならずに行けるし。リラックスしていれば、話も振りやすいし拾いやすい。ついでに言うと、お箸とか調味料取って上げたりした時に、ありがとうとか言ってもらえると、さらに好青年レベルが上がる。これでフレームレス眼鏡スーツ男子だった日には...!
個人的な萌えはさておき、挨拶してもなんかびみょーな人からいきなり飯とか言われても意味わかんないし、なになになになに!?て相当身構える。こっちが身構えると向こうも身構えてしんどいことになるのはわかってるんだけれど、構えは簡単に抜けないんで、適当に口実つけて逃げるか誰か混ぜて中和する。
で、タイミングが合えば飯食いに行く「好青年」に彼女いないとわかれば、なんとなく心に留めておくし、そっちの意味でも自分に関心持ってくれてるのかな?と判断できるような場合とかなら、それなりに間合い詰めていくかもしれない。
自分が彼氏いるとか、そういう方向に気持ちが動かないとかあっても、自分の女友達で合いそうな感じの子がいれば「こういう人いるんだけど??」とか振ってみる。で、反応良ければ「好青年」にも振って、3人で軽くご飯行ったりする。
あ、これは自分が「相手との関係性が自分の中で定まってから人に紹介する派」だからこうなるけど、「仲のいい女友達に会わせて反応を見てからどうするか決める派」もいるんで、友達紹介する=死亡じゃないですよ。
話を戻すと、つきあうつきあわないに発展するかどうかは別として、とりあえず「好青年」と「友達」の人脈は増えるし、そういうことをしていれば自分もなにかあった時に面白い人紹介してもらえたりしてつきあいが広がる可能性が出てくるから。
実際には、「好青年」だと思ってた人がモラハラDVストーカー魂の人だったり、挨拶しても反応が良くないと思ってた人が仲良くなれば温かい人だったりするのもよくあることではあるんですけどねー。でも最初の判断材料って挨拶とか外から見れる部分だけだから。
自分の好みじゃないとか条件に合わないとか、細かいことは考えずに広くさわやかに。女にだけ愛想がいいと舐められるから、おさんにも忘れずに。むしろ、女相手だと緊張するって人ならそんなに意識しなくていい分、スキルあげできるチャンス。
挨拶って要するに、声だしと筋肉の協調動作と流れ読みだけだから、意識してやってれば年いってても必ず改善できる。60過ぎてからでも、きちんと練習すれば、自転車に乗れるようになったりとか泳げるようになったりするでしょ?
あと、仏頂面キャラが定着しちゃってる、て人でも、毎年人の入れ替わりがあるわけだから、ちょっとずつ「仏頂面キャラ」を知ってる人が減って、「ちょっとフレンドリーになった元仏頂面」しか知らない人が増えていくんだし。
気になる人がいるから他のには誤解されたくない、とか乙女な事情があるなら、他の人よりちょっと多めに視線合わせるとかで重みづけしてください。
そりゃそうかもしれないが、なんだろうな、俺の場合は、人生で最も学んだ一週間は、イギリス旅行だったんだよ。
元増田の場合も、自分が興味ある分野に関係あるところにいけばいい。
ITとかやりたいなら、ニューヨークだってカリフォルニアだっていいだろうさ。
俺は慣れちゃってたけど、あのアホみたいなゴッタ煮は、日本でいくら想像したって追いつかないから。
海外にいくと、うっはー、世の中にはこんなところ、こんなものがあるのか! ってハイになるときがあるだろう。
あれって、そこらの本なんか読むより、ずっと大事だと思うんだけどな。
十八十九のころに読んだ本なんか、十年たった今はまったく覚えてないが、旅行の記憶はきちんと残ってる。
一応いっとくけど、俺は外国のものなら何でもいい、といってるわけじゃない。住むなら東京が一番だと思ってるし、
趣味は落語鑑賞だったりするからな。でもやっぱり、青年は海外に行け。
ダンコガイの本を積ん読よりは、絶対マシなはず。
お前は俺か。いや、俺の方がお前よりもっとマシだ。
それどころか、beforeの方で何が問題があるのかわからない俺はいったい何なのだorz
ヲタクです。
http://d.hatena.ne.jp/asami81/20080507/P1
の記事を読みました。
感想としては「すげー・・・!すげーよ!オタク臭消えちまったよwwww」って感じだったんだが
これってダメなの!?
いや、自分ヲタクなんでファッションなんて微塵も分からんのだけど
少なくとも写真を見てオシャレとは言わなくとも好青年、我々とは一線を画す存在だなって印象だったんだ。
それがこんなにもまだ問題を抱えてるファッションだったなんて!!
自分的には「脱ヲタ=普通の格好になる」ことだと思っていたのだけど違うの!?
脱ヲタっていうのはヲタクを脱して、普通を飛び越えて、オシャレさんを目指すことだったの!?
いや、あるいは、この格好でもまだ普通には至らないってことなの!??
よくオシャレさんたちが「ファッションに気をつけないのは常識人として…」みたいなこというけど、これでも気をつけてるうちに入らないの!?
やーめた!俺やめたよ!
最近、俺も社会人になったしそろそろ脱ヲタを・・・なんて思ったけど敷居が高すぎるよ!
何さ「シルキーな細身のタイを合わせて+ハーフスラックス+ハイカットスニーカー」って!
「関西のファッションセンスはもっと厳しいぞ」って、ファッションは西高東低だったりするんですか!?
いや、あのさ、今回の記事に限らずホント僕は脱ヲタしようと思ったんですよ何度も。
でもね、毎回こういうのを見て諦める。
理系学問とは違って、理論て言っても経験則だけで作られてきたようなインチキ理論に思えて。
そして何より、自分では普通だなあと思っても他人からは普通に見られてなかったり、ファッションの上級者の人から鼻で笑われてりしてんかなあとか思うと、やる気でないね。そんな勘違いに大金払いたくねえよと。
あーあ、オシャレなんてなかった時代に生まれたかったね・・・
聖火ランナーが走る。走るコースは見物人でいっぱいだ。みんなが聖火ランナーを見守る。
マスコミも殺到する。テレビ局も殺到する。テレビカメラの列が並ぶ。様子が世界に配信される。
聖火ランナーが近づく直前、頭から血糊をかぶる人がいる。そしてチベットの旗を持ちながら走りより、聖火ランナーが持つ聖火を奪おうとする。当然、警察やガードマンに押さえつけられる。そこでフリーチベット!と叫ぶ。それらが全て録画されるのだ。でも、血糊をかぶる所はカットです。
血まみれでチベットの旗を持ち、警察に取り押さえられ、フリーチベットと叫ぶ青年。素晴らしい絵ですな。
さて、この青年、どこの人なんでしょうね。世間はどう見るでしょうね。
この一連の検証ビデオはいつ、公開されるでしょうか。
案外、長野の前かもしれませんよ。
増田は18歳未満かもしれないから、どのようなシステムかを俺から説明するのは遠慮しとく。俺のようなオッサンが若い頃は、ホットドッグプレスとか週刊プレイボーイとかのような青年雑誌の特集記事を読んで、そういうものかと思ったものさ。今はWikipediaなんかがあるからなー。
自分語りすると、昔ね、知り合いの女の子に「童貞だけど付き合って」と言ったらドン引きされて二度と連絡できなくなったよ。そんなこと言う必要なかったのにね。それで一回だけ行ったことある。かくかくしかじかと童貞であることを話したら、優しくしてもらって、マットの上で跨ってもらって喪失ですよ。で、ベッドでは全然立たなくなってて、時間過ぎそうになってもダメだったなあ(遠い目)。お店はNaitaiという雑誌を買って決めたんだっけかな。今だとネットで調べられるっしょ。
http://d.hatena.ne.jp/ksh/20080401
おじさん心配なのよこれ。何が心配って、この本音を抑えれなくて新人に八つ当たりに近く(本人は愛の鞭と誤解していても)
指導に当たる君が。あのね、君が言ってることは本当に正しい。恐らく、一人でやっていけるという自負がではじめたところなのかな。
20代の青年って感じがする。私は君を否定するつもりは無いし、それどころか君には信頼すら感じる。
中学生になった息子もこれくらいしっかりした男になるよう目指して欲しいと親心に思うくらいにね。
けど、たぶんだけれど君が新人を任されたらその新人は終わるね。負のフィードバックが働いてたぶん自滅する。かわいそうなのは
君がそれに責任を感じてしまうことだ。それはなんとかして阻止したい。こんな時間に書き込んでしまうじじいだからと唾棄しないで
どうか聞いて欲しい。それが君のため(あるいは君の日記に何も考えず賛成するもっとたちのわるい連中のため)だから。
なぜ、そんなに君のことが心配なのかというとそれは
「君がやるべきものと部下が自分でやるもの」
を履き違えているかもしれないと思うからだ。言い換えれば、部下に期待するべきでないことを理解していないということである。
断定して申し訳ないが、君は今の自分を変えなくていいと強く思っているだろう。だから、君の文を使ってねちねちと説明する。
これからはグローバリゼーションの時代ですので英語を勉強する前に、ちゃんとした日本語が使えるようにしてください。
説明するのに「ここ」とか「これ」とか言わずに「仕様書p.18ページの上の図」とかちゃんと言ってください。
という文章。新人が本当に「これ」といいたいのだろうか。初めてのものを君が見たときのことをよく思い出してほしい。
「これ」以外なんといえるのか。やや反論を許すたとえだったが言いたいことは伝わると思う。「これ」は何かを教えるのは母であり、
君なのだ。はじめからそれを期待してはいけない。もし君が部下に向かって日本語が出来ないなどと言葉に出し、恥辱したら君は上司失格だ。
次に、
わからないことをわかったふりをされると超迷惑です。しばきたくなります。
これは、100%自分のせいだよ。自分がそうすることを許すだけ甘いってこと。そうじゃないと本当にやっていけない。
それを誰かに転嫁したら自分が成長しないし、外回りに行ったときに完全に失敗してしまう。これは直して欲しい。
長続きする結婚生活の秘訣でもある。
仕事は、覚えるんじゃなくて、ノートとペンを常に持ち歩いて記録してください。同じ事を2回聞かないためにはどうしたらいいか考えてください。
でも2回聞かないといけなくなったらちゃんと聞いてください。
君の言わんとするように出来たら、誰も苦労しないだろう(かすかな例外としての君を除いて)。
はじめは、新人とは萎縮するものだから何回も聞いていいと胸襟を開いたほうがいい。
その代わり、どうやったらその回数を減らせるか共に考えていくという姿勢を見せることだ。
そもそも、一回で伝えることが出来る人間がいるということも忘れないで欲しい。
君に言いたいことは以上である。君は私のことを甘い、そして抵抗勢力の最たる人間であると笑うかもしれない。
だが、私は今まで十字軍のような自分への盲信で多くの可能性をつぶしてきた同僚や上司、特に部下を見てきた。
自分はこうやれたから出来るだろうというのは間違っているし、君はそう当たることで部下を信頼していると心の中で
にやけているかもしれない。けど、それは部下じゃなくて君を信頼し崇めているだけだよ。
部下はそれを見抜いて君に心の中で反発するし、君の上司も君のふがいなさに泣くだろう。
自分に期待するのはいいけれど(その意味で君は素晴らしい人間だと思う。)、他人に自分を求め、速成するよう八つ当たりのようにけしかけるのは
何よりも君自身が一番かわいそうだと思う。君はもっとゆとりをもち、もっと自分に厳しくあるべきだ。
私は本当に君を心配している。願わくばこの日記が君の元に届くことを期待している。
そのためにははてな匿名ダイアリーのほうがいいと判断して匿名ダイアリーで日記を書いた。文が若く見えればと思い、ほかの
日記の文章を参考にした。だが、もしかしたらじじいくさいかもしれない。
その時は、若者世代に迎合するよりはそれを叱りつけたほうが人間社会には望ましいという格言を持って反論したいと思う。
君とその賛成者へ、自分を見つめてください。他人は自分の鏡です。しかることで自分を愉しませていませんか。
本当に新人が出来ない自分を肯定していると思いますか。私は君たちを見ています。
22時55分、大量に定食が出る。
23時5分。後から入ってきた青年のところに豚焼き肉定食のW大盛りが出た。
23時10分。おじさんに生姜焼き定食が出る。
23時15分。豚定の青年が帰る。叔母さんが4人入ってきて全員ビビン丼を注文する。
23時20分。生姜焼き定食のおじさん帰る。
23時25分。ビビン丼が全て出る。
23時30分。牛丼が出てくる。
遅いぐらいで大人げないし、読む本もあったし、牛丼出すときにちゃんとお待たせして申し訳ありませんでしたと謝ってたし、安い時給で深夜まで働いてる人に嫌な思いさせたくなかったから、文句を言わず食って帰った。
待って待って待って出てきた牛丼のご飯がぱさぱさで肉がカサカサで7割方脂身だったけどそんなに怒ってないよ。ほんとだよ。別にアレはエサであって好物でもなんでもないし。別に激怒なんてしてないよ。お昼ご飯が忙しくてチョコレートをつまんだだけで10時間たって仕事終わって疲れている状態で他人が定食をぱくつく姿を見てたけど腹なんか立ててないよ。
でも、当分の間松屋に行くのはよそうと思う。代替手段もあるし。吉野家は味噌汁ついてない分少し高いけどさ。
なぜかっていうと、帰るときに私だけ、私だけが、「ありがとうございました」「またどうぞ」っていわれなかったから。
ゆったりシートとエコノミークラス症候群の境目。
タダでカップ麺が食えるか、食えないか。
トイレには自由にいけるか。
食後のチョコがついてくるか、ついてこないか。
スリッパ。電源。
まずい飯さえ我慢できれば、こんな面白い場所は他にない。
誰かが突然床に突っ伏して痙攣しはじめる。
「お客様の中にお医者さんはいませんか?」のアナウンスを期待したが、無い。
隣の席のビジネスマン風の青年が機内放送の映画を見ている俺を横に、
確かに今期の映画のラインナップは新作から旧作に至るまでクソ揃いだったけれど、
狭い機内ではきわめて面倒くさい行為である「パソコンの出し入れ」をしてまで
観たい映画ってのは一体なんだろう?
と思ったらハルヒ。
高度何千フィートもの空の上で、長門を食い入るようにみつめて、ハルヒ。
泡吹いたおっさんは死ななかった。医者を呼ぶアナウンスもついに聴こえなかった。
本当に、この席は面白い。
赤木智弘の「希望は戦争」なんて、既得権がどうの、社会の流動化がどうのと理屈こねてるが、そんなのは本当に屁理屈とでも言うべきもので、根底には「自分の人生を/この世の中をめちゃくちゃにぶっ壊したい」という怒りだけがあるんだよな。
この人は文章が書ける人だから一躍、論壇の人となったが、そういう才能がない人なら鬱屈したまま自傷したり、他者に暴力を振るったりしてるのかもしれないな。
街を徘徊するようなタイプなら暴力団や右翼団体が拾ったりするのかも。
イギリスをはじめとするヨーロッパ各国ではそういう「社会的排除」からヤバいグループに入る青年が問題になってて、コネクションズという組織が、若者が孤立しないよう出向いていってるようだ。
こういう若者は複合的な問題を抱えてることが多いから、対応も多種多様に行われているみたい。
日本は中世か、というタイトルにしたのは、またもやあちこちで「魔女狩り」が始まりかけているからである。契機となったのは宮崎某による幼女殺人事件である。まずここで「おたく族」がやりだまにあげられた。「おたく族」とは少女マンガやアニメの総称である。年に何度か開かれるコミックマーケットのようなものに行って、先鋭化したマニア向けの同人誌などを買いあさる。情報交換などするときに「おたくの場合さあ・・・」といった口調でしゃべるので「おたく族」と呼ばれる。宮崎はこの「おたく族」だったのか、部屋の中に多数のアニメビデオや専門誌を置いていた。こうしたアニメやコミックの中ではロリコンものやパロディポルノに需要が多い。人気番組のキャラクターを使ってエッチなことをさせる。同人誌の多くははっきりと性器を描いた、完全なポルノである。ロリコンものにしても、現実の少女を使うとたいへんな事になるが、アニメやコミックですれば問題はさしあたって起こらない。そういう世界では、たとえば8歳の少女とセックスメカノイドとの激しいセックスが描かれていたりする。僕もそうしたコミック誌やアニメを見たが、これは確かに立つ。おたく族の青年が、もはや現実の女性にセクシュアリティを感じなくなる、というのも分かる気がする。ところで、おたく族を現実逃避だの男性性の欠如だの気味悪いだの小太り色白だのと陰口をたたくのは勝手である。そうした陰口は吐いた本人の品性の貧しさをあらわすだけで、実際に論陣を張れば、シャープで理知的なおたく族の前ではひとたまりも無いだろう。おたく族というのは実際、一本のアニメをより理解する為にフィリップ・k・ディックから南方熊楠までまで読んでしまうような、そういう人種だからである。ところがここに至って、宮崎某がおたく族であったという事実が、世のおたく族嫌いを有頂天にさせているようだ。「宮崎=おたく族」であっても、この場合逆もまた真なりとはならない。正しくは「宮崎=おたく族のうち一人」である。しかし、魔女狩りをする群集には理も否もありはしない。現実にあるロリコンアニメをつきつけては、どうだどうだと迫る。「おまえも、こんなことしてみたいといっつも思ってるんだろうが、えっ!?」
もちろん彼らはそう思っている。思って思って自分と戦った結果、道義的責任のないアニメの世界に安住場所を見つけたのである。
二次元の世界しか欲望の対象を持たない彼らは、およそこの現実の世界では一番犯罪を起こしにくい人種なのだ。嘘だと思うなら、この世の中からロリコンアニメをすべて撤収してしまうといい。その場合、幼女姦が増えるかを統計的に見れば分かるはずだ。その場合、幼女姦が増えたとして、その責任は誰がどうとるのか。同じことがホラーに対しても言える。宮崎の事件を契機にしてスプラッター・ホラーへの抑圧が始まっている。これはやはり宮崎の部屋に「ギニー・ピッグ」のシリーズが置いてあったことに端を発している。「ギニー・ピッグ」は僕自身は最初の一本目と、シリーズ中の「ピーターの悪魔の女医さん」というのを見た。ピーターの方は大笑いのブラックコメディ集である。一本目の方は監禁した女の子をなぶり殺しにする過程をビデオに収めた、という設定で、アメリカに実際ある「殺人ビデオ」の雰囲気を出そうと苦労している。スタッフは苦労しただろうが、見ているこっちはうそ寒くて鼻で笑うしかないような作品だ。
しかし、世の中で事件が起きると必ずこの手の反動が起きる。「ギニーピッグ」をかばうわけでも何でもないが、犯罪が起きるとマスコミはその犯罪の尻をどこかに持っていってつじつまを合わせたくなるようだ。知能犯罪が起きれば犯人の本棚からその手口のもととなった推理小説を探す。その結果、著者がコメントを求められて、「私の小説が動機となったのなら、残念なことだ」と述べたりする。
この場合「動機」は小説ではない。「金ほしさ」である。僕がもしこの作家の立場に立たされたらはっきりとこう反論する。
「犯人の反抗に対して私の作品が与えた因果関係を、誘導尋問によらず自白させてほしい。その上でそれが犯人の自分の犯行に対する他への責任転嫁ではという、なんらかの証明をしてほしい。加えて、犯人がもし私の作品に接していなければ犯行に至らなかったどうか。なぜ私の作品に接した多数の人間の中で、”犯人以外の”大多数は犯行に至らなかったのか。それを説明してほしい」
ロリコンものの場合も、一般のポルノの場合も、スプラッタホラーの場合も同じことである。何らかの表現行為に起因して犯罪が起こるというのは空論だ。すべての表現、たとえそれが芸術的に無価値な、便所の落書きのようなものであったとしても許容されなければならない。ただし、見たくない人は見ずにすむという「自由」の上においてだが。そういう意味ではスイッチを押せばどんな画像が出てくるか分からないテレビなどのメディアは、この条件を満たせない。しかし、映画やビデオや出版物はそうではない。パブリックなメディアとパーソナルなメディアを混同されては困る。その上に、異常者の犯罪と表現メディアを対にして考えては困る。そして、もっともっと困るのは、犯罪者とその家族をいっしょくたにして考えられることだろう。それこそ中世の「一連托生」の考え方なのだが、マスコミはそうした前近代的なことを平気でやってのける。今回の宮崎の事件にしても、僕は某誌の「誰も書かなかった真実」なるレポートをみて驚いた。
そこには宮崎のおじいさんの代にわたって家庭内のことが掘り起こしてあったのだ。おじいさんに愛人がいて夫婦仲が悪かっただの、お父さんの性格が「お調子物」だの、etc。そうした家庭環境が犯行の遠因になっていたかのような書き方だが、それはレポーターの大義名分に過ぎない。本質的にはこうした家人のことというのは「ご近所のヒソヒソ話」であって、オフィシャルに出されるものではない。犯罪者の家人だからこそさわってはいけない。殺された子供の親同様、この人たちもいやされようの犠牲者であるからだ。それをじいさんの女関係までさかのぼって掘り返すとはどういう神経なのかと思う。こんな事件のせいで、おたく族もホラーファンも犯人の親族も大迷惑をこうむってるわけだが、少なくともこうしたことだけは宮崎一人のせいではない。人間の中の魔女狩りの古い記憶、「はらい」や「みそぎ」の感覚、ならびに窃視願望がこうした見当違いの弾圧を起こさせるのだ。「時の勢い」というのは恐ろしいものだから一度はずみのついたこうした力は加速度持っていくことも考えられる。ホラーもアニメも誰かさんの総チェックを受けるようなことにになるかもしれない。
人間とはどうしてこう干渉や規制が好きな動物なのだろう。人の楽しみはほうっておけばいい。禁止しても放置しても、犯罪は起こるのだ。
解決は望まれぬまでも何か活きた悩みに触れてもらいたいために小説や、戯曲に行く。それはもとより当然である。文芸はこの生の具象的な事実をその肉づけと香気のままに表現するものだからだ。少なくともそこにはかわいた、煩鎖な概念的理窟や、腐儒的御用的講話や、すべて生の緑野から遊離した死骸のようなものはない。
しかし文芸はその約束として個々の体験と事象との具象的描写を事とせねばならぬ故、人生全体としての指導原理の探究を目ざすことはできぬ。それ故一定の目的をもって文芸に向かうものにとっては、それは活きてはいるが低徊的である。それは行為の法則を与えようとしない。行為そのものを描く。ときとしては末梢的些末事と取り組んで飽くことを知らない。--倉田百三
後輩たちと遊ぶべきか遊ばぬべきか。個人的にはちょいと後輩と遊ぶのは苦手。誰かと遊ぶという時点でけっこう拒絶しちゃうタイプなのに、ましてや後輩と遊ぶなんて心理的に辛いものがある。まず後輩と何を喋ればいいのだろうか。どんな話題を振ればいいのだろうか。目線はどこに合わせていればいいのだろうか。何をして遊ぶのだろうか。不安要素が盛りだくさんだ。できれば参加は自粛しておきたい。しかしせっかく後輩が遊ぼうと誘ってくれているのだから行くべきなのではないかとも思うし、なにしろもう会う機会もほとんどない。M(友人)が○○部OBの会みたいなのを作ろうといっているのだが、それが実現するかも分からないし、どちらかといえば計画倒れしそうだし、実際にそういうものができたとしても一つの同窓会として機能するかも分からない。後輩と接点を持てる部分がほぼない。今遊んでおかなければもう会うことすらもないかもしれない。いま後輩達と俺含む3年のつながりは切れ掛かっているのである。遊んでおくべきなのではないか。だがやはり不安は残る。××(遊ぶ予定の場所)で何をするかも分からないし、誰が来るのかも分からない。S(友人)は行くだろう。一人では行かないかもしれない。だが誰かもう一人参加するとなればほぼ行くことにするだろう。Mはどうだろう。どちらかといえば友人との戯れは好きそうだ。後輩達とのお遊びとなればどうだろう。行くだろうか。まあ行くだろう。同級生も後輩もあまり関係なく遊ぶだろう。上下のしがらみに関して言えばたいした束縛感を感じてはいないだろう。ゼロではないろうが。A(友人)はどうだろう。行くだろうか。微妙なところではある。基本的には行くだろう。彼もなかなか社交的な部類である。地元で培ったであろう社交性はおそらく後輩達との交流においても生きるだろう。おそらく参加だ。では俺は?正直、面倒ではある。後輩達とめちゃめちゃ仲がよかったわけではないし、話をするのもどちらかといわずとも苦手だ。遊びに関しても大勢より一人遊びのほうが得意な部類だ。それに××というのは巨大なゲーセンみたいなものではないのか?もちろん4,5人で遊べる施設や環境も整ってはいるだろう。だが主に筐体型の1、2人用ゲームがメインではないか?となれば必然的に1対1のコミュニケーションをとらざるを得なくなるだろう。そのとき俺は円滑なコミュニケーションを行えるだろうか?非常に不安である。まとめるとこうである。後輩達と交流できる機会は今回を逃せばもうないだろう。だが俺は後輩と遊ぶのが非常に不安であり気が進まない。さて、行くべきか、行かざるべきか?いまの俺自身の心持ちでは「まあ行ってもいいけど、ちょっとなあ」である。世間体を気にしているいつもの自分であればおそらくしぶしぶではあるが行くだろう。実際楽しめるかどうかでいえば、・・・まぁ楽しかったな、くらいの感想にとどまりそうではある。俺の中での一番の問題点は「後輩の背が高く、俺の身長が低いゆえにコンプレックスを覚えてしまい遊びに集中できなくなる点」なのである。これがキモだ。もし俺が高身長好青年の高ランクイケメンであったなら二つ返事で行くだろう。ようは俺の気持ちしだいなのである。
「勝ち組」の代表格に勝間和代という人がいる。いや、別にこの人だけを槍玉に挙げるつもりはないのだが、あまりにもわかりやすかったので。
やたらとポジティブな自己啓発書を次々と出しておられる方だが、やっぱりこういう人だったか。以下の記事の末尾を参照。
座右の銘は、「起きたことはすべて正しい」。
来たよ来たよ。要するに "This is the best of all possibile worlds" というやつですな。何百年も前に使い古された「最善説」というやつです。本を月に何十冊も読む(上記記事参照)のなら当然ヴォルテール「カンディード」なんて小説なんかも読んでるんだろうね。フランスなんかだと古典の教科書として国語の授業で教えられるような本ですよ。もう一度読みなおすことをお勧めしますよ。この方が既に以前に指摘していることですが、もう一度書かねばなるまい。
この「カンディード」という小説のなかにこんなくだりが出てくる。d:id:hokusyu:20080112から孫引き。
ジャックという商人の、戦争や財産を巡る争いを見るに人間は自然を堕落させたのではないか、という質問に、パングロスはこう答えます。
「そうしたことはすべて必要不可欠だった」と片目の博士はすかさず言い返した。「個々の不孝は全体の幸福をつくり出す。それゆえに、個々の不幸が多ければ多いほど、すべては善なのだ」
ちなみにジャックはリスボン沖で溺死するのですが、パングロスは「リスボン沖の停泊地はあの再洗礼派の男(ジャック)が溺死するように特別につくられたのだと証明」するのです。
もはや説明は不要であろう。これほど「勝ち組」のネオリベ思想を的確に風刺した表現はそうないのではないのだろうか。
ちなみにこの「カンディード」という小説は、このパングロスを天才的哲学者と信じて馬鹿正直に信じたカンディードという純朴な青年が、世の不条理と師の教えの間の葛藤と戦いつつ、幾多の悲惨な体験を乗り越えて精神的自立を達成するに至るまでの物語、というわけなのだが、この小説が書かれたのは二百五十年前なのである。努力によって自分を向上させることが大好きな「勝ち組」の頭の中身というのは、どうやら二百五十年間進歩しないものらしい。
さて、上に引用したくだりをもう一度読みかえした上で、ロスジェネに関するこれにはじまる話題、たとえばこれとかこれを読みかえしてみてほしい。あまりにもこの小説と構図が似ていないだろうか。このような形で見せられれば誰でも、「自己啓発」の限界と馬鹿馬鹿しさに気付くのではないか。結局「自己啓発」というのは世の中の仕組みを全て肯定して不問に付した上で「全ては自分次第でどうにでもなる」という、あまりにもナイーブな思想なのだ。もうそろそろいい加減そのことにみんな気付いてもいいのではないか。
この小説の結論では次のようなことが語られる。あまりにも単純で、まともな大人なら誰でもわかっているはずのことだ。
正直者が報われるとは限らない、全てが必要不可欠で正しいなんてことはあり得ない。世の中は理不尽で満ち溢れている、しかしその中で自分なりに細々と努力して生きていくことこそが唯一の「人生を耐えられるものにする手立て」だということだ。そして、そのことについて他人がどう論評しようとも、すべてはどうでもよいことなのだと。
言いかえれば、「自己責任」だとか「自己権利」なんてものはどこにも存在しないのだ。健康と環境と才能と努力と時の運、それらを全て兼ね備えたときにだけ「成功」ができるし、「責任」があるとすればその「努力」の部分だけだ。それに、その「努力」さえも、「健康」と「環境」がなければどうすることもできなかったりするものでもある。その辺の複雑なことは自分にしかわからない。一般的に「負け組は努力が足りないから自己責任」なんてことが言えるはずもないのだ。
なんでその程度の平凡な理屈が誰の口からも出てこないのだろう?自己啓発自己啓発といって騒いでいるはてな民は、自分の努力だけでなんでも解決できると思ってるのだろうか。だとしたら随分、挫折を知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんだとしか言いようがないのだが。
ちなみに「ルサンチマン乙」と言われないために言っておくが、俺自身はどちらかというと「勝ち組」に属する人間だし、才能のない俺にとっては努力だけが切り札だったことは理解しているつもりだ。しかしそれでもなお、いやそれだからこそ、努力だけで全てが解決できるなんて素朴すぎる発想にはとてもついていけないのだ。
たとえ本当にそれを自分の気を引くために相手が出したとしても、
逆に相手の漫画ステータスをはかる情報の一つだと割り切ればいいだけの話では。
最近の作品を読んでいなくても好きなものは好きだろうし、
大体最近の作品は好きじゃないとか、絵柄も作風もすっかり変わった人だっているわけだし、
そもそも誰も彼もが作家単位だけで漫画を愛してるわけじゃない。
流行り物しか読んでないからといって漫画を愛していないとも限らない。
むしろ本当に元増田が両先生の作品が好きなら、相手に最近のは読んでないと言われて、
「こいつ本当に好きでもないんだな」とマイナスに考えるより、
「あ、○○読んでないの?あれはおもしろかったよ、久しぶりに読んでみたら」くらい無意識に言えるんじゃないか。
妥当なラインナップを挙げられて、「ああ、この程度か」と考えるより、
「だったらこの人の○○もおもしろいよ」とすすめたりしないのか?
早い話が自分が勝手に漫画の話から相手自体の品定めに話をずらしてるだけだと思う。
私はどちらかと言うと漫画の話をする時に作家名や作品名が出てきたら、
少女だろうが少年だろうが青年だろうが劇画だろうが知っていれば話に乗っかりたいし、
知らなければ逆に色々聞きたいと思う。
漫画の好みなんてそれぞれだし、がっちり合う人と出会う確率自体相当低い。
でも違う趣向の人と交流しあって幅が広がる方が私は楽しいし、
あまり漫画を知らない相手だったらもっと知って欲しいと思う。
そもそも相手が自分が得意なジャンルでなく、
わざわざ少女漫画を読むとアプローチしなくてはいけないくらいの人に、
(私にしてみれば相手から歩み寄ってくれていると考えるくらい)
こんな漫画バカの話をしても仕方ないかもしれないけど。
(むしろ相手にひかれないようにすることが専ら課題)
興味のない相手に自分の好きなジャンルを使って媚びたり迎合されるのは嫌だろうと思うけど、
そうされるうちが花だし、相手を影でdisるようなことをやっていると自分の幅も狭くなるんじゃないか。
本当に少女漫画を愛しているなら、相手を開眼させてやるぜ!くらいの意気込みが欲しい。
散々指摘されていることだけど、近頃アニメを中心に、萌えだとかロリだとか声優だとかいわゆる萌え系オタクコンテンツ、というより鉄オタも漫画オタもフィギュオタもエロゲオタもぜーんぶひっくるめて「オタク」という言葉、存在自体が良くも悪くも徐々にオープンになってきてるなあと。
ヘビーかライトかはさておき、一見普通に見えるリーマンや好青年、また俗に言うイケメンが「オタク」を自称し、外国人は外国人でOTAKUが増加している。こういうのを目にする度「オタクは市民権を得つつあるのかな」と感じる。
中でも特にネット上はいわゆる萌え系の傾向が著しいと思う(TV界はTVを見ないのでよく知らない)。その傾向を助長し支える存在がyoutubeやニコニコ動画等の動画共有サービスサイトかどうかは知らないけれど、以前よりもアニメ等を扱ったサイトやblogは増加し、他にもそういった発言が多々見られるようになったようなならないような。
ここまで来るとまさか衰退することはないと思うが、一体どこまでネットの萌えオタク化が進んでいくのだろうか。もしくは、一体どこまで社会のオタク化が進んでいくのだろうか。いずれにせよそうなる過程で、今はあまり仲の良くないオタクと非オタクとの関わり合いはどう変化していくのだろうか。楽しみでもあり不安でもある。
というか、ネット上の話。オタク化なんて書いたけれど、それはただ単に自分がそういうサブカル系のサイトやblog、または2ch系を巡回してるからそう感じるだけだよね。萌えなんてネット全体からしてみたら1割にも満たない、まだまだ鼻糞程度のことなのかも。書いてて気づいたよお。
自分のやってることが成果をあげそうになったり、新しい可能性が開けそうになったり、他人に賞賛されそうになったり、その他諸々。ともかく少しでもうまくいきそうになると、心と体がこわばって、憂鬱になって、目の前の物事から目を背けたくなり、頭を抱え込んで、極端な話、呼吸するのも苦しくなる。
というのが青年期からもう十数年続いてる。
精神科医の春日武彦の「不幸になりたがる人たち―自虐指向と破滅願望」という新書を読んだときは、ああ似たような人たちが結構ほかにもいるみたいだ、と思ったけど、じゃあどうすればいいのかというとわからない。
つーかこの状況が治る方法があるとしても、それで治ってしまうのが恐いっていう。
成功しない限りは別に苦しくないので、まあ、いいんですけど。楽しくないけど苦しくもないっていう。
まあ、いいんですけど(リフレイン)
いいならいいんじゃないかな(自問自答)
寝よう(自己完結)
日本では、バレンタイン・デーは「女性が男性にチョコレートを配る日」として、完全に定着している。これが、初期キリスト教の聖人、聖バレンティノにちなんだ日で、欧米では恋人に花などを贈る日とされていることなどもごぞんじの方は多いだろう。では、なぜ日本ではチョコレートを贈る日になったかはごぞんじだろうか。一般には、神戸の菓子屋の「バレンタイン・デーにはチョコレートを」のキャンペーンが全国に広まったものとされている。しかし、実はこの前の段階がある。
この行事はそもそも昭和21年の今日、進駐軍のバレンタイン少佐が子供たちにチョコレートを配ったという故事に由来しているのだ。
意外と知られてないが、これは事実なのだ。
昭和20年冬、終戦直後の神戸にやってきた進駐軍士官の中に、彼、ヴァレンタイン・D・クラーク少佐はいた。クラーク少佐は1920年2月14日、ボストンに生まれた。誕生日の聖人、聖ヴァレンティノにちなみヴァレンタインと名づけられたクラークは、その名の通り慈愛に満ちあふれた青年に成長、陸軍に入隊した後もその性質は変わらず、太平洋戦線で戦ったにもかかわらず、日本人に対して常に敬意と愛情を持って接した。そんな彼の性格がもっとも表れているのが、このバレンタイン・デーのエピソードである。
敗戦後の混乱の中で飢えに苦しむ人々、特に子供たちの悲惨さを見かねた彼は、日本にいた3年間毎年、自分の誕生日である2月14日に、子供たちへのプレゼントとして5000枚のチョコレートを配ってまわった。かっての敵である自分たちに対しても愛をもって接する彼の姿にうたれた人々は、クラーク少佐を記念して、2月14日にチョコレートを贈り合うようになったのである。
その後、この習慣がチョコレート業界の戦略から全国的に広まり、いつしか女性が男性に贈るものとして固定化し、やがて義理チョコなどの儀式が生まれてくるに及んで、ヴァレンタインの精神も完全に形骸化してしまったわけである。クラーク少佐も草葉の陰でさぞや嘆いているだろう。どうだろう、みなさんも一度クラーク少佐の真の愛情あふれる心に思いをはせ、習慣化した義理チョコなどではなく、世界の恵まれない子供たちにチョコを贈ってみては。
参考・「現代用語の基礎知識」(自由国民社)「究極超人あーる」(小学館)http://www2s.biglobe.ne.jp/~ttsyhysh/column.html