はてなキーワード: 青年とは
これ読んで「うわー……」という既視感。いるいる、こういう親父。
『他人を傷つけてしまうという考え方こそおこがましい(ハックルベリーに会いに行く)
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081227/1230367146』
昔、先輩から言われた言葉。
「お前は一体何様なんだ? 人を傷つけてしまうだ? その考え方こそがおこがましいわ。
……
ブクマページ:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081227/1230367146
20代の頃に言われたのならそりゃそうだろうが、同じ事を、社会的影響力段違いになった40、50代になっても思ってて平気で他人を傷つけて「今の若いもんはひ弱だ」とか言ってる親父って何なの。馬鹿なの?自分が何者か分かってない厨二病なの? 永遠青年(笑)とか、本気で思ってるみたいで正直勘弁して欲しいです。
成熟を拒否して青い実のまま腐臭を放つような大人にはならないでおこう、と。
自戒をこめて。。。
↓これに関して元おたくのおっさんより。
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
言いたい事はすべて
昨今のヤンキーとオタクが急接近であるとか、オタク系文化とクラブ系文化の融合だとかいう話は歴史の蓄積なき忘却のなせる錯覚なのである。
●●さん、大恥かいちゃったね。でも無知は罪じゃないよ。学習しないことと、知っていることを人に教えないことが罪なんだ。
と書かれているけど、ちょっとかいつまんで自分語り。
(名前消したのは、「歴史を知らない」ということの意味を一般化したかったから)
なもんで、人からは「ネクラ」と言われていた時期があった。
んで、ある時期からは「マニア」と言われ、例の事件後は「おたく」と言われることが多くなった。
ところが、例のエルメスな本の後は不思議と「普通の人」になってしまった。「おたく/オタク」とは誰も呼んでくれなくなったのだ。
(まぁ、自分がいわゆる「萌え」というものにまったく興味がなかったので、呼ばれるチャンスがなくなってしまったという理由もあるんだけど。)
振り返ってみると、こんなニュアンスで言われてたように思う。
・外で遊ばないで家でなんかやってる人→ネクラ
・コンパとかマスが認めるカルチャーに興味がなくて、漫画とか変な本とか読んでる人→おたく
使われ方
・「あー、君の事もっとネクラな人かと思っていたよ」
・「すごく詳しいね。○○マニアだね」
・「それっておたくが読むものだよね?」
呼ばれたことないけど、使ってるのを聞く感じだと
・「あの人オタクっぽい」
まぁ、以上の「オタ気質の呼ばれかたの歴史」を面白おかしく分析するのも可能なんだろうけど、
今日いいたいこととは別なので、「オタク」という言葉は変遷をたどった「魔法の言葉」なんだよという前提で
↓これに関して
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
みんなわかっているはずなんです、語り足りない、語られ足りないのです。私はもっともっとこのジャンルに対する言説が読みたいです。
「足りない」と知っている人はどうかバシバシ書いて、そして出来れば人の目が付くところに載せて下さい。少なくとも私は強烈に読みたいです。
まぁ、ご本人がこう書かれているのであえて毒を。
簡単に言ってしまえば、DENPA!!!を面白いと感じるのは「若さ」という
「不可避の理由」によりバカだから、しょうもないものをありがたがっているだけだと思う。
(「若さ」ってのは、「歴史」を「知れない」からこそ発生する性質。つまりバカであることを避けられない)
(「若さ」は、「生まれてからの日数が少ない」という意味ではない。「青い」と呼んでいた時代もあった)
というわけで
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TECHNORCHさんの大好きな
DENPA!!!というクラブイベント
は、<青年>が<鬼ごっこ>して「たのしー!!!超気持ちいい??!!」とか言ってるだけなんだよね。
そりゃ体動かすと楽しいし気持ちいいし、みんないると寂しくないよ。
でも、それをありがたがったり、高尚なものだと勘違いするのは止めといた方がいいよ。
DENPA!!!なんてクラブで踊ってわーわーきゃーきゃー言ってるだけのイベントなんだよ。
コスプレだとかオシャレとかガチとかぬるとかどうでも良くて、昔からあるただの"event"なんよ。
そう思っていたほうが、人生に失敗しないと思う。これは自分の体験から言えることなんだけど(タメイキ
んで、↓これ。
「はてな」周辺でよくある『動物化するポストモダン』の誤読なんだけど、
あの本って単に「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?
例えていうと、「王将は関西人のソウルフード」とか「二郎はもはや二郎という食べ物」とか
「マックまじでうまい」とか真顔で言っちゃう人が増えたねぇ、って書いてあるだけ。
いっけんかっこよく聞こえるし、「データベース」とか確かに新しい概念もあるから良書なんだけど、
「消費する側」が自己肯定に使っちゃうとアウアウだよ。
まぁ、言論な人に触ってもらえて嬉しい気持ちはわかるけど、ほどほどにねって。
以下は東氏に対して。
東氏は「保守論壇がネットを気にするから下らないと思って離れた」とかどっかで言ってたような気がするけど、
大人なんだから、発注されても「くだらない」ものはちゃんと「くだらない」と言わないと。
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その感想は「楽しすぎる!もう普通のクラブイベントなんて行けない!」なんだこの現象は、
私は回を増せば増すほどDENPA!!!という現象が面白くなってきました。
まぁ、クラブを楽しいと思えるような若い年齢の人が勘違いしちゃうのもしょうがないちゃしょうがないか。
「新しい何か」が生まれる時期には確かに「何か」がある/あったからね。
んでも、その「何か」つまり「萌芽」は、「余波」になっちゃうと、それは単に「消費の対象」でしかなくなる。
「数」が増えると「質」が変わるんだよ。「普通」になっちゃうの。
たとえば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3
で裸になることは確かに意味はあるよ。
でも、「みんな」が実際にフェスティバル外(社会生活)ででも裸になっちゃったら、
それは単に「服を着るより裸の方が気持ちがいいから」でしょ?
んで、DENPA!!!の話に戻るけど、TECHNORCHさんらがやってることは「もはや」単に「クラブ」というありふれた場所で
「オタクっぽい」とすでに了解された格好で、「ビート」に乗せて乱痴気騒ぎしてるだけだよ。
まぁ、無理にでも意味を見出そうとすれば、いろんな解釈は可能なんだろうけどね。
(「言葉遊び」に関して、大塚英志氏とかは「シャレがマジになった」って後悔してたけどね)
(「ロフトプラスワンで鳥肌とか雨宮とかをヲチするのが楽しい」と友人に語ったところ、「変な人」と言われた。もう僕は「おたく」ではない)
横だが、「19世紀末日本インテリ青年の苦悩」が今も変わってないのは、むしろすごい。
鴎外が深いんじゃなくて、俺ら浅いまんまという意味で。
深いところってアレだろ、「19世紀末日本インテリ青年の苦悩」とか言われたよww
てめーの苦悩だろボケが、と。
責任逃避もいいかげんにしろ、とw
懺悔どころか美化だもんなぁ。あれ。
主人公は社長。会社を経営して、売買収でのし上がる。買収した先の女性社員とエッチできる。もちろん、エッチに夢中になりすぎると業績がさがり、手持ちの資金がなくなる。基本的に会社の財産の一部をボーナスとしてもらって、それで女の機嫌をとってエッチする。ボーナスは自分で設定できるが、ボーナスをとりすぎると会社の資金がなくなって、事業の継続が難しい。もちろん少なすぎると女の攻略が難しい。相手だけでなく自分の服や持ち物も購入して魅力につなげるので、その調整が鍵になる。女は愛人扱いなので、同時に何人と関係を持ってもいいが、それぞれのやりくりも難しくなる。一人だけを狙って細々とやりくりするのもいいけど、一人に熱中すると、恨みでライバル会社の社長に寝取られる場合もあるので、油断できない。親の財産を譲り受けた青年という設定で、5年をめどに成績が決まる。普通のゲームっぽく世界順位などがあると燃えるかもしれないけど、それはエロゲでは難しいかな。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20081220/CK2008122002000084.html
最初に断っておくが、この青年らが救助に向かおうとした時のその心は大切に持ち続けて欲しいし、偉いとも思ってる。俺には出来ない。
だけど、だけどこれは大っぴらに美談として扱ってはいけないと思う。消防署は救助について「勇敢だ」と誉めているが、こんな言葉を市民に向けて発信してはならない。
火災が発生している中へ何の装備もせずに突入するなんてあまりにも無謀で軽率な行為だからだ。要救助者・1名を3名に増やしうる行為をこの青年らはやらかした。残念だけどそれは事実なのだ。水をかぶるぐらいでは大して対策になっていない。屋内に突入した瞬間にぶっ倒れる可能性も極めて高いのだ。
消防署としては感謝状を贈るのは筋だろうが、だけどくれぐれも「真似しないように」と市民に強く呼びかけておかなくては片手落ちというものだろう。
特に将来のある自分の若い身体を安易に危険に晒したことを、松本青年は両親にだけは謝罪するべきだ。二度とこのような真似はするべきではない。
そういう人なら、「衣装デザインと肌の色が変わったマンガのヒロインを見て描かれていない設定を考え出し、裏切られた!と怒って単行本をズタズタにして作者の実家に送りつける男性読者」の気持ちが理解できるんでしょうか。
『かんなぎ』ナギ様の非処女騒動で傷ついたのは誰なの?-きなこ餅コミック
アイドルの恋愛発覚・結婚発表後の騒動ではこれらの暴言は定番なんでしょう。しかし、怖い。
3次元騒動で危惧するのは「罵倒されている本人の目に暴言が触れる可能性がある」ことです。憎悪がアイドル本人でなく、恋人や子供に向けられていることも。
宮野真守の件は驚きました。好意的なコメントしか見てなかったので。
憎悪が本人以外のところに向けられるのはこわいなー。宮野氏とお相手にはある程度リスクの覚悟はあったろうけど、子供に死ねとか……お前ら人間じゃねえ!
「かんなぎ」騒動も驚きましたが、宮野さんの結婚についての騒動にもそうでした。
私と友人は彼のファンでしたが、友人がこの発表後発狂するかの如く怒り、グッズやCDを売り飛ばしました。(壊さないだけマシ?)
私としては好きな人が幸せになるなんてとても良い事なのに、ショックを受ける友人達が分りませんでした。それを伝えると偽善者呼ばわりされたので縁切りましたが……
はぁ?宮野厨を批判する書き込みがあったけど 意 味 不 明 。
好きな人が幸せになったら喜べ・・・とか正義厨の意見の押し付けウザイ。
奥様や子供が旦那の業を受け継ぐのは当たり前。
「アイドルグループHATENAのマスダくん(仮)が結婚しました」。
ショック、とか寂しい、とかまでは理解できます。というか実際ショック受けました、正直寂しかったです。
ファン数人で「集団失恋パーティー(笑)」とかしたさ。ケーキ買ってきて酒飲みつつPV観ながら「あーちくしょうマスダ、人のものでもいい男だよなぁ!」とかクダ巻いてました。どう見ても負け犬女の集団です本当にありがとうございました。
出てくる罵詈雑言は「幸せになっちまえバーカ!」「嫁さん泣かすなばーかばーか!」とかそんなんですよ。
彼が未婚だからって別にコンサートで「アリーナ○ブロック○列めの…そう、赤い服のキミ。ぼくとつきあって下さい!」とか言われるなんてありえない(まゆたんかよ!)、結婚したからってとたんに歌が下手になるわけじゃない。
「彼(偶像)」と「自分(一消費者)」の関係が変わるわけじゃないのになんで「ファン辞める」なんだろう。
「プライベートの増田某」が結婚によって充足とか安定とかして、「HATENAのマスダくん」の歌に深みがでるのならファンとしてこれほどウマーなことはないじゃないか。これぞまさにwin-winの関係。
仮に自分がマスダくんの嫁になれたとしても(絶対ないからこその例え話)、今度は自分がそういうちょっと愛情表現の行き過ぎたファンの標的になるってことじゃないか。怖いよ。マスダくんが理想の王子様でも、増田某がいい夫だとは限らないし。
顔も知らない赤の他人たちに、生涯の伴侶をけちょんけちょんに言われることを自分への応援だと思って(まあ一応応援といえなくもないですが歪みすぎだよね)「うれしい!俺もっとがんばる!君たちがいやならあんな嫁とは今すぐ別れるよ!!」とか言うような人だったらそのほうが嫌だw
子供をたたくのは問題外。
「憎い女の子供」なんだろうけど、「彼の子」じゃないか。ひどいこと言うなよ。
(観てないだけであるのかもしれない。ないといいな)
「スタッフ、ここ見てるんでしょう?リリースが落ちついた今になって発表するなんて卑怯」
mixiのファンコミュニティなんて仕事としてチェックしてないと思うし見てたとしてもそこから意見くみ上げるスタッフなんていないでしょ。
卑怯って何?「マスダくんが結婚してるって知ってたら新曲なんか買わなかったのに!」ってことかな。ご祝儀払わされた気がして嫌なんでしょうか。新曲聴く機会を自分で手放すのはもったいないと思うんだけどな。
「嫁は評判悪いらしいですよwwwww」
それって「マスダくんは女の趣味が悪いんですwwwww」ってことだよね。マスダくんに対する悪口だよね。そんな楽しそうに言うことか?
つかそれどこの誰のどういう評判だよ。芸能人の奥さんが誰でどういう人かなんて、芸能人同士とかじゃなきゃ知りようがないし進んで知ろうとも思わないよ。
好きな人が幸せになったんだから祝福しろ、しないのはおかしいとは言わない。
でも、ファンなのにその人の不幸を願う気持ちを理解するのは難しいです。
誰と誰がセックスしたとか中出ししたとかそんなので騒いですごくくだらないよ!
そんなの銀河の歴史から見たら大河の一滴にも満たない小さな出来事じゃん……。
ブログの知名度がかなり浸透してちょこちょこブログがきっかけで交際したとか結婚したって話が聞こえてきた時期。
いいなぁーって僕も憧れてブログを開設した。引きこもりだったから出会いはなかったけどネットでなら頑張れると思った。
そこからはもう「セックスに至るブログ」を作ることだけを考えた。
好感を持たれる可愛い青年を徹底的にシミュレートして、それに近づけることだけに注力。
何も否定せず、誰も傷つけず、あくまで可愛く自虐して……そうやってると何人かの女の子とメッセで話すまでになった。
とにかく疲れた! 自分を押し殺して相手に気に入られる発言を瞬時に選択するだけの毎日。
そして、ついに一人の女の子と会ってエッチまでした。今までの疲れが全部吹っ飛ぶかと思った。
でも……終わった途端に一気に虚しくなって死にたくなった。それからブログも閉じて引きこもりも悪化した。
メッセでもその時のどんよりとした気分を書いたり酷いこと言ったらみんな去っていった。
僕が「お腹空いた」って書き込んだらマクドナルドに連れてってくれてオゴッてくれた。
何でそんなに優しいの?って聞いたらはにかみながら「好きだからー」って言った彼女がすごく可愛かった。
そのあとしたエッチはすごく気持ちよくて充実感でいっぱいになった。
ていうか今もそうだわな
基本的に男性の性欲は「しかたないのだから女が我慢したり、女側で防衛したりするべき」って方向性だから
何故他者の人権を侵害しかねない欲求の方がその侵害される側の人権よりも守られているのかといえばまあ……表面的には男女平等になったように見えて根の深い男性中心主義があるってこったわな
寧ろ表面的に女性の人権が上がったゆえに、そういう根の深い男性中心主義が覆い隠されてしまった感がある。
基本的に男性が生きやすいのを中心としてこの世はまだ出来ていると感じるね。
女性はなんつーのか、まだ「例外」扱いなんだよ。表層的な優遇もその一環。
人間というものを考えるとき、基本的に我々はいまだ男性を思い浮かべる。人の身体を学校で学ぶ時に女性の身体の模型を出されたら違和感が生じないか?女性の胸とか性器とかは我々にとって未だ「例外部分」の扱いであって基本は男の身体なんだよ。
わざわざ近頃女性専用の商品や女性向けとかいうのが出されるのも、単に今まで基本的な商品は全て男用だったから。
「女性向けにカワイくしたこんなものを出しました」なんて言い方がそもそも例外的扱い。人間の半分は女性であるのに「そちら向けに……」と言うこの感覚。
まだそういった感覚は根強い。
基本的に男性(それも青年・中年層)が基本的な人間であって、「子供」「老人」はなんとなく我々は例外的と感じている。それと同レベルにいるのが「女性」という枠。
国のトップに女性があまりいないのもそういう感覚から。人間という種のなかで女性は例外的であると感じているから、その例外を国の代表とすることに違和感が出る。
宇宙人と遭遇した時地球人代表を誰か選べといったら今であれば必ず男性が出るだろう。女性だと違和感を感じる。それは地球人代表として老人や子供を出すような違和感と同じ。
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-248.html
なんかぜんぜんSUGEくない話がまじっている。
金属食器で有名
そういう金属加工メーカーがあって、しかもここでは触れられてないけどオーディオのソニーとハードディスクの日立・東芝があって、それでiPodを作ることができなかった日本、ということなわけですが。
昭和37年、英国のヒューム副首相が来日した際、当時の池田首相に、こう話したと言われる。
「50年前、頭の良い日本の青年がやってきて1本の万年筆とノートで英国のドル箱であるウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」
これは日本のウイスキーの品質を誉めた上でのユーモアでありながら、実は日本のウイスキーの品質の良さに対する本音であった。
「世間には、スコットランド専売のウイスキー造りを持ち帰った私に、英国人がよい感情を抱いていないのではないか、と危惧する人がいる。とんでもない。スコットランドでしかできないウイスキーを日本で造ったおかげで、今ではどんな田舎でもウイスキーが飲まれている。
これを書いた人は、なぜか世界中でWAGYUが生産されていることについても「勲章を与えてもよいくらいだ」と思っているんだろうか。
兄弟姉妹って、子供の頃は嫌い合ってても、大人になったら大抵仲良くなってる気がするんだ。少なくとも私の周囲や出会った人の話を聞く限りでは。
でも私の場合は違う。姉と弟がいるんだけど、子供の頃にいがみ合ったまま、私ももう30。姉も弟も特に親交を結び直す気配もなく自分の生活・世界があり、私も別に能動的に関係を構築する必要性も感じていない。(関係修復とは言わないよ。そういうのは一度でも『仲が良かった』人同士に遣う言葉であって、『仲が良いべき』である関係に向けて遣われる言葉ではないと思うから)
むしろ他のみなが、子供の頃に嫌い合ってたような人とどうしてあらためて仲良くなろうとする最初の一歩が出たのかわからない(別に、私も最初の一歩を踏み出したいのという話ではなく純粋な疑問)。
下に弟が生まれ、私含めた姉同士、幼い子の世話もしなかったのかと言われれば、しましたとしか言いようがない。両親だって普通に仲が良いし、特殊な家庭に育ったとも思わない。ただ、子供心に「この子、気が合わないな」と思って距離を置いたままいたらそのまま今に至ったというだけだ。
今だって、実家が近いのでなんやかやで姉にも弟にもたまに顔は合わせる。そして、(子供レベルでの「好きじゃない」のまま特に仲良くならずに大人になっただけなので)憎み合ってるわけじゃない。ただ、お互い相手を自分にとって重要な人物と思っていないだけ。だから用事があれば必要な会話はする。でも、それだけだ。まあ、いい大人なのに、結構顔をあわせる人と(上辺すら)仲良くならずに済ませてられると言う意味では兄弟姉妹だからという甘えはあるのかも知れない。
仲の良い(というか仲が普通の)兄弟姉妹の場合、大人になってから酷い言葉で罵り合うような大喧嘩しても、その冷戦状態の最中でさえ「でもいずれ仲直りするんだよねー。兄弟(姉妹)だし」なんて話もよく耳にする。なんなのですかそれ。全くわからない。みんなそんなに「血縁」を大事にしてるの? 現代人は親戚付き合いとかわずらわしがってるように見えるけど。兄弟姉妹は特別扱い?
ない感覚を振り絞って考えると、兄弟姉妹に一般的な兄弟姉妹としての関係を求めてる人っていうのは、「紆余曲折あっても最後の最後には絶対裏切らない特別な親友」みたいなイメージで兄弟姉妹を捉えているのだろうか。それって血の繋がりがないと持てない関係性?(皮肉ではなく純粋な疑問)
でも、いがみ合いの少年期を越え、青年・中年期で通例どおり仲良くなったような兄弟姉妹でも、親が老いて介護や遺産のゴタゴタが出てくる頃にはまた心の底からいがみ合うとも聞く。わからない。
衛生士の女の人って美人が多いよね、というようなことを『らき☆すた』のつかさが言っていたような気がします。
確かに、ここのところわたくしが通い続けているところは、歯科医二人は何やら爽やかな好青年で、その他のスタッフは全員美人です。その上待合室では軽くアロマが焚かれ、内装もシックな感じにまとまっています。トイレも広くて清潔です。
応対もにこやかにされるので、わたくしも穏やかな気分になってきます。設備や人間を含めた総体として、ひとつの萌え空間が現出されているのではないかと思います。
つかさはその純粋なキャラクタの通り、素直な関心をもって言っただけだとは思うのですが、実際に通っている身としては小骨が喉にひっかかるように、気になる点もあります。
今まで18回も通っているうち、保険の効かない分も含めて、相当費用がかかっているのです。
曰く、周りの歯と色を合わせるための材料が云々、18金は歯への負担がかかりにくいという利点が云々、という勧めに応じて贅沢をしました。
確かにちゃんと説明は受けましたし、納得はしているのですが、もしこの場所の「萌え空間度」が今より低かったら、考えが違っていたのかも知れないという仮説を思いついてしまいました。少なくとも高額な方を選ぶための敷居は高くなっていたと思います。
なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。
目次・水村美苗『日本語が亡びるとき』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/32157995/
2章 パリでの話
なるほど。本で第4章以降を読んだ人からは、もう知ってるよという反応や具体的提案についての否定的コメントが出てくるのも頷ける。日本語とか英語とかあるいは語学教育とかについて何か語りたくなる人も現れるだろうし、反対に、多文化主義的な観点からのコメントも出てくるだろう。
わたしなどは、8月に読んだからでもあるが、むしろ第1章がとてもおもしく感じられた(そりゃあだって、理論的な解決がこの本にあると思って読む人なんているだろうか。水村さん作品に親しんでいる人はもちろんそんなこと思わないだろうし、煽った人たちの力点もそこにないだろう)。
おそらく、
柄谷周辺の論者の問題意識に沿って書いた議論の向かう先・解決策を期待してこの本を手に取るか、あるいは、「アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々」と交流しながら問題の所在を発見するというその出発点に着目するか、これにより、この本の評価はかなり分かれるのではないか。
多分、梅田さんがこの本について語りたくなったのも、水村さんがアイオワで様々な国からやってきた文学者と触れあう内に、日本や日本語についての問題に近づいていったというプロセスを、梅田さんの場合であればシリコンバレーでの経験になるかと思うが、この本を読みながら追体験し共感したからのではないか、とわたしは思った。
第1章のところだが、アイオワに各国の作家とともに招かれて出会った内の一人が、若いころロシア娘と恋に落ちたりもしたことがありその頃学んだロシア語を用いて盆栽に詳しいリトアニアの青年と会話のできるモンゴルの老詩人で、何かの時に水村が老詩人に向かって“You are an important person”といったときに、英語が苦手なのでたどたどしいながらもゆっくりと静かに“Everbody is important”と答える場面やそのほかの場面は、外のものに触れることでいくつかのばらばらの点が繋がり問題が自分のものとして感じられるプロセスとして見ることができ、さすがにマドル・スルーというようなものではないが、問題を自分のものとして受け止める過程はそれなりに緊張し疲れるのだが充実した読書だった。
そういうことが問題となってるのはずっと昔から知っているよ、何この話、古くさい、というのは十分あり得る反応だろう。ただ、問題の所在を個々人がそれぞれ理解するというのはそれとは独立に重要なことだろう。もちろん、この本とは別の入り口でも全然かまわないのだが。
そういう意味では、今回の騒ぎをきっかけに、こういう問題があるんだあ、と思った人にとっては水村さんの本は一つの入り口として悪いものではないと思う。
別の話。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081109/p2
話は少しそれるが、これを読んで、まず、「あたし彼女」読もうと思った。
もうひとつ思ったのは、
『新潮』9月号に載った前半部読んだ感想としちゃ、読めたもんじゃないよ。
何の説明もなく日本の文学は一人で幼稚なものになっていっていたと断じている作家が、この『ひとり』をひらがなに開く言語センスすら持ち合わせない作家が、<叡智を求める人>は今の日本文学など読まないなどとぬかしているのだよ。
という記述について。この方の水村本の理解からはそのように読めるし、きっと正しいだろうと思う。
ただ、もうひとつの可能性もあるのではないかとわたしは考えた。(いま新潮および本が手元にないので原文を確認することができない。「一人で」あるいは「ひとりで」が本のどのような箇所でどれくらい用いられれているか確認しないままではあるが、Thscさんの指摘にインスピレーションを受けてわたしの理解を書いてみることにする。)
Thscさんの主張はおそらくこうだろう。
という文の「一人で」は、「おのずから(自ずから)」あるいは「ひとりで勝手に」というニュアンスで用いられていると理解できる。そうであれば、「ひとりで」とひらがなで表記するべきであろう、と。
しかし、もしかすると別の考え方もあるのではないか。
「一人で」と漢字で表記するという点に固有の意味を見ようとするならば、日本語が「ひとりで勝手に」幼稚なものとなっていった、という理解とは別の理解でこの文を読まなければならない。その理解とはこうだ。
水村の議論全体をふまえると、水村は「言語というものは孤立すると衰退する」と考えているのではないだろうか。言語は「一人」になると衰退する。
このようなニュアンスを込めて、ひらがなにせず、あえて漢字を用いて「一人で」と表記したと考えることはできないだろうか。ここではそのような理解の可能性を指摘してみよう(もちろんこれはまだ単なる思いつきの段階であり、実際には、本文で語が使用されている箇所を逐一チェックしていく必要がある)。
ただし、このように考えたとしても、それならば違った書き方をするはずだ、等の疑問は当然に出てくるだろうし、結局のところは、Thscさんの理解が穏当なところだろうとわたしも思う。
別の可能性を指摘しただけでは水村さんが確信犯で「一人で」を用いたことの立証にはならないし、ひらがなか漢字かの選択だけでこのような微細な部分をオミットするのは文章家として正しい態度ではないのだから、いずれにせよ批判されても仕方のないところだろう。
中学時代、マッカーサーと呼ばれたロマンスグレーの美術教師は言った。
「本当にすばらしい芸術とは、万人にわかるものか、それとも一部の人にしかわからないものか」
生徒たちは沈黙する。
教室をサングラスの裏からひとねめした後、とくにもったいぶるそぶりも見せずマッカーサーは続けた。
「答えは、一部の人にしかわからないもの、だ」
ざわ・・・ざわ・・・(※誇張)
「真に優れた芸術とは、それが真に優れたものだとわかる能力のある者が見て初めて良さがわかるものである。万人に良さがわかるものは真に優れたものではない」
はりつめた空気を揺り動かすかのように鳴り出すチャイムの音に合わせて振り向くと、
「覚えておくように」
看守の残すそれに似た靴音を響かせマッカーサーは教室を去っていった。
覚えておくようにと言われたその言葉を聞いて以来、わたしはずっとその理由を疑問として抱えながら生きてきました。
しかし、未だにその答えは見出せていません(マッカーサーには怖くて聞けていません)。
「真に優れたものだとわかる能力のある者」とそうでない者の差が、本当の意味で存在するのかどうかの、すっきりとした納得がいかないからです。
もっと言えば、「”真に”優れたものだとわかる能力」って何ですか?ってことです。それが「真に優れたものだとわかる能力」だってことを、保証してくれるのは誰なの? わかると思っている人の自己満足ではないの? それとも限られた「真に優れたものだとわかる能力」のある者同士? もしくは「『真に優れたものだとわかる能力』だとわかる能力」のある者なんてのがまたいるの? いずれにしても一部の人にしかわからない良さ、それってその一部の人たちの嗜好とどう違うの?ってことです。
嗜好であるにしても、それがその限られた人たちの豊富な知識や経験に裏うちされたものだってことはわかるのです。ですが、その豊富な知識や経験を有する人だけが「良い」とわかるものが、そうでない人も含めてより多くの人が「良い」と感じるものより上である理由がわからないのです。逆に言えば、多くの人が「良い」と感じるものを、わざわざ「いやそれは本当は優れてないんだよ」ということにできる意味がわからないということです。
それこそ、より優れた芸術作品とは、この多種多様な嗜好をもつ知的生命たちのより多くの固体に、「良い」と認識されるものではないのでしょうか。
ごく一部の者にとっての「良い」ものは、所詮その一部の者たちにとって優れたものでしかない、というわけではない理由はあるのでしょうか。
例えば私は漫画を描きますが、いくら私が技巧を凝らして、「これはすばらしいものだ」と思えるものができたとしても、見てもらった人々に「つまらない」「面白くない」と言われたら意味がありません。
「いや、このコマがこうなっている理由は、これこれこうだから。そしてここに歴史あるあの物語から換骨奪胎した暗喩を印象的に配し、それがまたここの斬新な伏線とのシナジー効果で・・・」等と説明すればできますし、そういう意匠に気付く人にだけ「おー、面白いね」と思ってもらえること、それ自体に意義が無いとは言いません。ただ、気付かないような万人でも「面白い」と思えるものよりそういうものが上だとはとても思えない、思える理由がないのです。
多くの人たちの支持を得ているものは、それだけで価値があると思うのです。
小室哲也の音楽は、大衆支持されこそすれ、一部では曲の軽薄さを馬鹿にされていたりもします。
「小室の音楽ってのは、薄っぺらいというか全部こんな感じで、こういう風にすれば全部小室の曲っぽくできる」
っていうのを実践してもらって、
「ほんとだー」
と感心したことがあります。
しかし、私は小室の曲は耳に心地よいと思う”大衆”の1人でした。そして、他ならぬ私が心地よいものは私にとって心地よいものに他ならず、内情を知ったからと言って耳に心地よくなくなるものではありません。私の「良い」は、私以外誰にも覆せないわけですし、それは誰にとっても同じことです。
そもそも「良い」と言っている人が感じているその良さが、真なる良さなのかそうではない低レベルな良さなのかなど、誰がどのようにして決めることができるのでしょう。決められないのだとすれば、その作品を「良い」とする者すべてが、その作品に対しては「優れたものだとわかる能力のある者」であり、「優れたものだとわかる能力のある者」を多く生み出せる作品ほど、真に良い作品なのではないでしょうか。
もしそうではないのだとしたら、誰かマッカーサー先生の残した言葉に説明を加え、どうか私にもわかるように教えてください。
そして小室哲也は、どんな曲が”多くの”人に「良い」と思われるかに気付いて、その良いものを、「良い」と思われる時期に、できうる限り提供しておこうとした、才能と熱意のあった人物ではないでしょうか。
<<注>> いまも才能があるかはわかりません。そしていくら才能があっても人に迷惑を掛けることは宜しくありません。私が評価しているのは、あくまで彼のかつての音楽に関してのことです。
「彼女と会えないのに耐えられない・・・だから浮気した」って順序どおりに読むからわからなくなる。
こいつは「浮気してしまった!なんとか自分を正当化させる理由を考えなくては・・・」と逆の順番で書いてる。
本当の理由は「とにかく女とヤりたかった」ってだけ。なのでつじつまが合わないのは当然。
もちろん、彼女にも本当の理由は言わないだろう。
「寂しくて耐えられないから」とかなんとか言って彼女側にも問題があったようなそぶりを見せて別れる。
で、いつか出張が終わって戻った時には復縁を迫る。
元増田のやりそうなことが手に取るようにわかるわw
でも、ごめん。
長くて6年短くて2年って言ってたけど。
たぶん俺耐えられそうにないから。
だから、ごめん。
たった一つ分からないことがある。
「俺耐えられそうにないから」→「エッチしました」
の、つながりが、理解できないのだが、詳しく解説してもらえるか?
そこつながりないよな?
正確に言うと、
「俺耐えられそうに無いよ」「ああそうそう、それとは別に、後輩のおっぱいとまんこにムラっときたんでエッチしました」じゃねーの?
よく遠距離で浮気する奴が「寂しさに耐え切れず」「会えないことに耐えられず」とか何とか、お前と似たようなことをぶっこいて浮気してるけど、それ違うだろ、と俺はずっと思ってきたんだよ。
全然別のことだろ?
お前、彼女いない時、彼女がいなくて寂しいからって誰か誘ってエッチしたのか?そうじゃないだろ。要するに、別にお前って、ていうかお前だろうが誰だろうが、「寂しい・耐え切れないときは誰かとエッチしないとどうしようもない」わけじゃないだろ。だからさ。耐え切れないことと、他の女とエッチすることには何の関係もないだろ。なんでそこを、「だから」でつなげてしまうのか、わからんのだけど。つーか、彼女のいない寂しさとか耐え切れない思いってのは彼女に会うことや声を聞く事で解消されるものなんじゃないのか?他の女とエッチしたところで充填できるものなら、それは「耐え切れない思い」とかじゃなくて単なる性欲だろ。で、単なる性欲だったら、お前が彼女出来たことなかった時代と同じく(てか彼女できても普通するけど)、一人オナってりゃいいわけだろ?
つまりどちらにせよ、「耐え切れず、だから」で繋がらないんだよ。お前の言い分。
お前の言い分はさ、家に帰れば食べ物も財布もある状態で、「でも、どうしても、耐え切れなかった。おなかが、すいていたんだ。だから……本当にごめん。うどん屋で、無銭飲食……した。」とか言ってるようなものだろ。「いやいやいや!関係ないだろ!おなかすいてたからだから何よ!?家で食べればいいでしょ!あるいは家にかえって財布持ってくればいいでしょ」「無銭飲食とおなかすいてたのは関係ないだろ!単にお前がタダで飯くらいたかっただけだろ!おなかがすいてたのはいい訳になってねーよ!」って皆つっこみたくなるのと同じ気持ちを多分お前のエントリに皆が感じていると思う。
本当わかんね。関係ないだろ、耐え切れないのと後輩とエッチするのは(笑)逆にこの突拍子の無さが笑える。
「耐え切れないから。」ってとこまで「ん?なんだ?なんだ?」って読んでたら、突然、「後輩と、エッチしました」……って意味わからなすぎてズコー!ってなったぞ。耐え切れなくて自殺の方がまだ理解できる。「耐え切れなくて、……海外青年協力隊に、参加、しました」レベルの意味不明さ。「な……んでそこで海外青年協力隊なんだよ!?」みたいな。海外いくなら彼女と会えよ的な。
いや、「ロビタ」はチヒロが登場する「復活編」であってるよ。
とある事故(「火の鳥」が原因だと後から判明)で致命傷を負い、死を回避するために肉体のほぼ全てを機械化(攻殻機動隊風に言えば全身義体化か?)した青年の悲劇。
紆余曲折を経てチヒロをつれて駆け落ちした主人公は機械の肉体を失う事になるが、その対価として自らの人格を愛するチヒロの電子頭脳に移植され名実ともにチヒロと一心同体となる(電子頭脳内で二人が抱き合ったまま溶け合うシーンが描かれる)。しかし電子頭脳の容量を確保するために図体はドラム缶に頭と手が生えたような醜い姿になりはて、完全に機械となった影響のせいか、もとの人格は次第に失われ安っぽい人工知能のような思考と口調になっていくのだった。
さらに紆余曲折を経た主人公は一般家庭にお手伝いロボとして拾われ「ロビタ」と名づけらる。その微妙な人間くささがウケたロビタは大量に複製されて全世界に普及していくが、ふとしたことで子供を死なせた事故の原因だと決め付けられてしまい、事故に関与したとされるロビタは欠陥商品として回収、廃棄処分の憂き目にあう。同時刻、それを感じとった全世界の無数のロビタが一斉に職務を放棄し、一台を除いた全てが溶鉱炉に身を投げるという大事件に発展していく(残った一台がどうなったかは他の編で描かれている)。
復活編の特徴は、人間と機械の狭間で苦悩する主人公が完全にロボットになってしまうまでの悲劇と、「ロビタ」と呼ばれるお手伝いロボが前代未聞の集団自殺を遂げるまでの経緯が時間をさかのぼるように同時進行で描かれ、まるで無関係に見える二つの物語が、「主人公の成れの果て」=「ロビタ」と判明する最後でリンクするというところにある(と俺は思ってる)。
その他、育児をベビーシッターに押し付けて自身の娯楽や仕事ばかりを優先させ、いざ我が子が死ぬと無理やりにでもロビタを犯人にしてしまう親の姿など、40年近く昔に描かれたとは思えないシーンも見所のひとつか。
英国では "John Smith",
プログラミング言語では「メタ構文変数」と呼ばれ hoge とか foo とか bar とか名付けられる変数であり、
ドメインではたびたび example.com (※RFC2606で規定されている) と書かれる、こういった名前。
それでは、この日記の著者として頻繁に登場する「増田さん」もその一種?
いいえ。似ているとしたら、星新一の小説に出てくる「エヌ氏」のほうでしょう。
彼らが、時には科学者、時にはサラリーマン、時には「ただの青年」として星新一ワールドを彩るのと同じように、私たちも「増田」という名前だけを借りて、それぞれが苦悩や幸福を抱えて多種多様な人生を送り、その断片の集合が、ここ「はてな匿名ダイアリー」をかたちづくっているのです。
まず通うこと。
そのとき、じろじろ見るな。キモイイメージが定着するから。そうじゃなくて、むしろ関心ない普通の様子がいい。普通だけど、商品を置くときに
「お願いします」
受け取ったら去り際に軽くほほえんで彼女を見ながら一言
「ありがと」
これを繰り返す。はっきりと、自然に言え。去り際以外に彼女に視線を送らないこと。これを10回以上繰り返す。彼女の頭に、お前がハキハキして好印象の青年としてインプットされるから。
で、いい加減相手の頭に入ってきたなと思ったら、入店して目を合わせろ。あったら即座にほほえんで会釈。で、その場で止まらずに売り場へ。彼女も会釈して微笑み返したら、たぶんお前の顔が頭に入っているはず。これを5回以上繰り返す。彼女の中で、お前は微笑み会う相手になるから。
これ、重要だぞ。お前の顔を見たら、身構えなくていいと覚えさせろ。お前の顔をみたら、微笑みが漏れるようにトレーニングしろ。お前の顔をみたら、ハッピーな気持ちになるように条件付けしろ。
頃合いを見計らって、商品を渡すときに
「いつもこの時間なんですか」
「大変ですね」
とか言え。で、短い時間でも言葉を交わす仲になったら、小さな声で、
「ね、今度映画見に行かない?」
と、あまりヘビーでない映画に誘え。お前が緊張しているのは問題ない。緊張しているのがわかる程度に照れ笑いがあってもいい。そわそわしていい。彼女が
「え」
と、困った風に笑ったら脈はあるから。
「返事明日でいいから、じゃ」
と、そこはさわやかに去る。
ここまでやったら、生殺与奪の権は彼女にある。次の日行って、さわやかに聞け。Noだったらにっこり笑って
「残念」
と、その場を去れ。最後までさわやかなのがポイント。