はてなキーワード: 自分探しとは
社内恋愛はこれだから困る。
「よく弘子としゃべっているけど、私より弘子の方がかわいいんでしょ」
「はあ?そんなことないよ」
「私より弘子の方が若いしね。若い子が好きでしょ」
「男って、浮気するように体ができているんでしょ」
「はあ?何言ってるの」
「雄って、自分の遺伝子を多く残すために、たくさんの雌と交尾する必要があるんでしょ」
「バカ、何言っているだよ」
「それどこかで読んだな。お前、『ふたりエッチ』読まなかったか」
「何だっていいでしょ」
「あれはそういう意味じゃないだろ。浮気っぽい女が、正当化する話で使ったマンガの話だろ」
「じゃあ、何なのよ」
「とにかく、俺は別に弘子にそんな感情なんて持ってねーよ」
まるで社内では彼女に監視されているみたいだ。
他の女性社員と楽しく話しちゃいけないのかよ。
別の日。
「愛は4年で終わるって、知っているか?」
「何よ急に」
「いやいや、お前がこの前言っていた遺伝子何たらの話だよ」
「何?調べてきたの?」
「結婚も離婚も浮気も、すべて優れた子孫を多く残すためなんだよ。ほれ、複数の家族が集団で生活していた原始時代は、4年で乳離れした子どもの世話は周囲にまかせて、配偶者を変えることができたらしい。両親が異なれば、子どもの体質も変わるので、伝染病が流行しても全滅は防げるかもしれない」
「だから子孫を増やすことだけ考えれば、配偶者も変えてもやむなし、という時代があったんだろうな」
「愛が4年で終わり、男が浮気性なのは、その時代のなごりって訳?」
「しかし、それはそれであって、雄に浮気する傾向があることと、浮気が許されることとは、全く無関係だよ」
「それも『ふたりエッチ』にあった?」
「いや『男のための自分探し』って本。自然が「いかにあるか」と探求した結果が、浮気を「すべきである」と正当化することはありえないのさ。自分の家族や恋愛関係をブチ壊すほどの本能があるのはなぜかを論じることと、本能に流されてもよいと認めることは、全く違うのさ」
「なんだか哲学ね」
「そこらへん、『ふたりエッチ』にもちゃんと書いてあったぞ。『利己的な遺伝子』には、人間性に関わる生活様式は遺伝子より文化に決定されている、とね」
「文化が雄の浮気を止めているってこと?」
「俺もさ、日本の文化に忠実なのさ」
「そんなことで私が納得できると思っているの?」
「また弘子の話かよ。関係ねーよ、俺には」
しかしあれだな、原始時代ではないにしろ、いつ来てもおかしくないパンデミックで生き残る為に、やはり多様な子どもを残すべきなんだろうか。
それも「自然主義的誤謬」と呼ばれる謝った考え方だな。
なにしろ、俺には子どもはごめんだ。
SATC女が嫌いなら、そういう女と付き合わなきゃいいだけじゃね?
世の中には増田が好きそうな、SEXに消極的で、なるべくなら恋愛も少なく済ませたいっていう女性はたくさんいるだろうしね。
自分探しじゃないけど、どういう人が好きでどういう物が嫌いとか、もっと自分の本当の気持ちを理解していくと楽だと思うよ。
少なくとも人に噛み付いたりする必要はなくなると思う。
世の中「好みの女に誘われれて、本命の彼女や妻にバレないという自信があれば、浮気でも不倫でも平気でする」というタイプの男が多い。
そういう男は「女探し」=「自分探し」だとは思ってないけど、豊富な恋愛経験で男としての価値が上がる、と考えてる。
そして浮気や不倫をしても、彼女や妻に対して「申し訳ない」という気持ちはカケラも持たない。
バレて許してもらえなかったら相手の心が狭い、ぐらいに思ってる。
新しく気になる女ができても、今の女に別れを切り出してから付き合う、なんて潔いことは絶対にしない。
そして相性が良ければ、浮気相手とのセックスを何十回でも繰り返す。
ここまで進展していたら、世の彼女・妻の多くは見抜いていて、男をそのまま泳がせつつ、別れるか別れさせるかをじっくり検討している。浮気している当人はギリギリまでそれを見抜けないままだったりするのがおかしい。
そんな男たちに対してSATC女が増えてきたのは、バランスがとれてるんじゃないかな。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
今週末、OLに大人気の海外ドラマ「SEX AND THE CITY」映画版がついに封切られる。
この「SATC」(と略す)は、ニューヨークで働く30代の独身キャリアウーマン4人の奔放なセックスライフと
友情模様を通じて、同世代の恋愛観や結婚観を赤裸々に描いた群像ドラマだ。
そんな今こそ、断言する。
「SEX AND THE CITY」にハマるような「SATC(笑)女」は、好みの男に誘われれて、本命の彼氏や旦那に
そういうタイプの女だ。
そして浮気や不倫をしても、彼氏や旦那に対して「申し訳ない」という気持ちはカケラも持たない。
むしろ、浮気や不倫に「自分をもっと高めてくれる男を探すため」と言う大義名分があると本気で信じている。
セックスを含めた豊富な恋愛経験で女は磨かれると信じてて、「男探し」=「自分探し」だと思ってるんだよね。
まさに、スイーツ(笑)の発想。
※関連記事: スイーツ(笑)的な女性に振り回された男が激怒
彼女たちは、新しく気になる男ができても、今の男に別れを切り出してから付き合う、なんて潔いことは絶対にしない。
そして相性が良ければ、浮気相手とのセックスを何十回でも繰り返す。
もちろん、女の浮気は身体だけじゃなく心もどっぷりだから、こうなるともう戻れないよね。
ここまで進展していても、世の彼氏・旦那の多くは見抜けないままだったりするのが哀しい。
逆に、最近機嫌が良くなったり綺麗になったのを喜んじゃったりしてね(笑)。
一見地味に見える女でも、真面目そうに見える女でも、サバサバした女でも、あのドラマに共感するタイプは、
心の底に浮気心を持っている。
自分にはなかなか出来ないからこそ、チャンスがあれば、と思っている女も多い。
逆に、一見ケバそうだったり、セックス大好き!って公言してる女でも、情があつかったり義理堅かったりで、
浮気って、する人はどんなに痛い目に会っても何度でも繰り返すし、しない人は絶対にしないんだよね。
ちょっと独断と偏見が入るけど、一番ヤバいのはこういうタイプ。
このタイプで、「SATC」が好きって女は、もう100%浮気予備軍。
来週のアフター5には、日本全国の職場で女友達や同僚数人と連れ立って「SATC」を観に行くOLが大量発生する。
職場の男は、その集団に入ってる女が誰か、しっかり見ておくといいよ(笑)。
遊び相手を探すなら、その中から選べば性交確率かなり高いから。
まあ、中には付き合いで一緒に行くだけの人や、今話題の映画ってだけで行く人もいるから、良く見分ける必要がある。
見分け方は、映画で初めてハマった女は、その後にすぐビデオシリーズを観始めるだろうから、その後の話題も要チェック!
世の男たちは、自分の彼女や嫁が「SEX AND THE CITY」を観に行ってないか、さりげなく話題にして確認してみた方がいい。
これは、本当に、やった方がいい。
繰り返すけど、「SATC」好きは、どんなに真面目そうに見えても浮気予備軍だから。
いやむしろ、真面目で地味な女ほど、隠し事が上手だったりするし。
もし、不幸なことにあなたの大事な人が「SATC(笑)女」だったとしたら……。
あなたも密かに映画を観て、どんなシチュエーションに憧れてるかを勉強して、マンネリ脱出作戦を練るといいかも知れませんね。
たぶん、どんなに頑張っても「SATC(笑)女」の浮気心を抑えるのは無理だろうけど。
まだ見ぬ未来の王子様と戦って、勝ち目があるとは思えないし(笑)。
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何かある?ってバイト先の社員に聞かれた。いあ、特にありません。としか答えられなかった。
漫画読むのも本読むのもゲームするのもホームページ更新も日記書くのも音楽聴くのも
小説書くのも映画見るのも旅行行くのもぜーんぶ時間潰し。料理してみたり絵描いてみたり
スポーツしてみたりギャンブルに手出してみたりお洒落なバーで飲んでみたり岩盤浴
行ってみたりスウィーツバイキング行ってみたりピアノ弾いたり買い物してみたり公園で
ぼーっとしてみたりライブいったり資格の勉強したりどれか一つでも気が向くかなって思っ
たけどそんな熱中するものって特になかった。
唯一この中でホームページ作成なんかは中学の時に熱中してタグ覚えてできるように
なったことだけど、もう今となっては過去の知識で、FLASH作ってみようとか
小説も書くのは好きだけど、ショートショート的なものしか書けない。
夢中にならないから書けないのかな。
「夢中になってやったのに叶わない、届かない、認められない」って状態が怖いんだろうか。
あーあ、何にもない。
でも何か自分にもやりたいことや興味のあることがあるはずって思ってもう大学4年。
就活も途中でやめてしまった。秋採用に応募するかはまだ決めてない。
でも明日死ぬって言われたら何で今まで何にもしてこなかったんだろうって思うなぁ
何か見つけなきゃ、何かしなきゃ、って思う。
就職だってしなきゃいけない。だって生きてくためにお金は必要だもん。
自分探しってのは居場所を探すことなんだよって知り合いのお姉さんが言ってたけど
私も探してるのは好きなことじゃなくて自分のいられる場所なのかな。
冒頭の問答が意味不明だったけど、
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
ああ、なるほどね。
「答え」と聞いて「自分の存在意義」が真っ先に思い浮かぶなら、それが自分探し病だ。
平たく言えば、アホ程ある「問題」と「答え」の中で、たったひとつの、いい大人にとっては些細な、
しかし成長期の子供にとっては重要な問題に、異常に心を奪われたまま大人になってしまった、
「自分の存在意義」が唯一最大の関心事だって状態が、自分探し病だ。
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
その答えが「自分の中」でも「大切な人と自分との間」でも関係無い。
大学卒業 -> 院に行く -> メンヘラ -> 自分探しで世界一周の船 -> 院中退 -> 就職 -> 退職 -> プーしながらホスト通い<今ココ
実家が金持ちってすげええええって愚痴と共に、絵に描いたように没落していく姿が笑える。
今、キャバで働くって親を脅して金を貰っているらしい。
まぁ、地方の社長さんの娘じゃ遊んで暮らしていけるぐらい送金して貰えるよな。
「没落エリートの出現」
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51088798.html
「弾氏への応答」
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217439217
はてさて。
一言書きたくなったが、
はてな村に入村して日が浅い私は個人ブログでこの件に関する記事を書く勇気がない。
だから匿名でやるお!
でもこれってすごく特殊な環境にいる人たちだよねーというのが最初に抱いた感想。
まかりなりにも一流といわれる大学に席を置く私が思うに大学なんてお遊びの場だし、社会に出て立身出世するには「一流大卒」の肩書きが未だ必要なのだからじゃあ通って卒業しようかー程度のものである。
就職活動も世間や給料と相談しつつ、一応、一流と呼ばれる企業から内定をもらった。
なんら恥じることはない人生である。
恥じることがあろうとすれば私がアホウであるということくらいだろうか。
が、周囲も私以上にアホウであるので別に気にしない。
ましてや腕一本で人生渡っていこうなどというマッチョなどでもない。
そんな私から見るに、
今のシステムは別にさしたる問題もなければ不満もない。
京大でもおそらく似たようなものなのだろう。
身の丈をしっかり見るとか、足ることを知れば就職など近年は余裕である。
大学教育がお遊びでしかないのだー!云々との言はもっともであるが、
ましてやコミュ力なんかが問題なわけでもない。
変なこだわりや存在しない自分探しに没頭する姿勢こそ問題なのであって、
その泥沼を生んだものこそ能力だとか何だとか言う何かよくわからない西洋的なものなんじゃないだろうか。
年功序列…あぁ、甘美な響き。
個人的には30前くらいで嫁さんをもらい、子ども3人を立派に育てつつ定年まで勤め上げ、嫁さんと茶でも飲みながらまったりした老後を暮らしたいものだ。
そして小飼氏。
西洋的な何かにおける雄みたいなところがあるよね!
たぶんすごくすごく、自分なんかが一生かかってもとどかないくらい能力がおありなんだと思う。
でも、あなたはたぶん究極的なまでに特殊な人種ですよ。今の社会の中では。
平均化された集団の中ではやはり学歴が高い者ほど能力が高いし、(3割くらい例外がいるかも)
私がこれまで見聞きしてきた経験でもそれは実感している。
きっと小飼さんから見れば私達のような没個性的で唯々諾々と社会のベルトコンベアーに乗ってる人間はブタにも等しい存在なんだろう。
自分の先輩も後輩も似たような考え方であるし、同級生らも似たり寄ったりとなれば、多数派であると言って大丈夫だと思う。
なんだかバカバカと連呼されていることに釈然としないものを感じるが、
バカだってバカなりに生きてるんだよ!
それでもがんばって生きているのです。
それをあまりバカよばわりしてもらいたくない。
せめてアホウと言ってくれ!
それに暗に死ねと言われても
この根性、もう直りませぬ。
みなさまご期待ください。と言いたい所だが、
私達だってこれまでずっと殻の中から社会を見てきた。
志すところだってある。
変えていきたいものもある。
その辺を少し生暖かい目で見守ってもらえませんかねぇ!
書いてみてすごく支離滅裂になってしまった。
己の魂の未完成を恥じる。
追記
まぁあれだ。
そんな大切なものを研究対象にしてしまうなんて、増田は研究者に向いてないな。
いや、大切なものを研究していてそうなってしまうなんて、増田は研究者に向いてないな、と言うべきか。
その上研究(対象)と自分を重ね合わせてしまうなんて、もう、最低だな。大学院になんて入らずに「在野の研究家」にでもなって一生オナニーしてればよかったのに。
っていうか、増田は、研究対象を自分のレベルまででしか捉えていないのかな。研究対象を自分より上には置けないのかな。
だとしたらそんなのもう研究じゃなくて自分探しじゃん。自分探しで論文書けるわけないじゃん。お前は何をしに院に来たわけよ。
自分のため、じゃなくて人のために研究しろよ。お前の研究対象がなんなのかは分からないけど、研究対象のために研究しろよ。学術は狭い世界だけど、お前の論文が誰かの糧になるかもしれないだろ。お前の研究が研究対象の何かに貢献するかもしれないだろ。お前はお前のために研究しようとする限り一生そのどツボから逃れられないぞ。
面白かったッス。
資料まとめただけとか、主張がないとかいう批評が多いけど、おまいらどこに目をつけとるのかと。
著者は、中田英寿の「引退と旅立ち」から筆をたて、「あいのり」「須藤元気」「イラクの人質事件」といったアイコンから「現代特有の自分探し」の様相をつまびらかにする。
そして、自分探しのルーツをさまざまな資料をもちいて探し当て、現代にいたるまでの自分探しの変容を記していき、こうした自分探しが生まれた原因と、それを食いものにする産業構造を告発する。
労作だと思う。
ここまで資料と史料を駆使して、「自分探し」に切り込んだ本はなかった。
なぜ自分探しはとまらないのか。
それは、著者自身がふれているように、また大澤真幸の「不可能性の時代」でも指摘されているように、近代において「個性」であるとか「自己実現」「かけがえのない自分」といったものが異様なまでに称揚されてきたことにあると思う。
普通であることは凡庸とみなされ、多くの人が「何かになるよう」に「強要され」たえざる不安の中で生きることになった。
政治・財界、マスコミ、多くのリソースがそそぎこまれ「不安な個人」を形づくった。
そうした「不安な個人」はちょっとつつけばすぐに「自分探しという病」にからめとられる。
「自己啓発セミナー」や「我求館の杉村太郎」、「ワタミグループの労働スタイル」など、それぞれに自覚があるかないかはともかく、「不安な自己」をくじいて、過剰なポジティブシンキングで「どこかにいる自分」を目指して走らせるというスタンスは「自分さがし業者」に共通する。
この手法の始祖をニューエージやニューソートに求めた著者の指摘は概ねただしいだろう。
そう考えると、「自分探し」は近代の先進国に共通する宿痾といえるのかもしれない。
では、自分探しは悪なのか。
著者にはこうした自分探しにはまる若者を嘲笑するスタンスが見え隠れする。
私もそうだ。
でもちょっぴり羨ましかったりする。なんだか楽しそうだしね。あのテンションの高い人生は。
けど、「自分探しが悪」とは言い切れないと思う。
「自分探し」と「よりよく生きるための努力」は紙一重だからだ。
ただ、化粧やダイエットからはじめればいいのに、いきなり美容整形に手を出すような「自分探し」は危険だと思っている。
とりわけ悪徳業者にその「自分探しによる生きがい」をいいように利用されているな事態は問題だと思う。
手段である「自分探し」が目的化したとき、「自分探し」は病に転化するのだ。
著者はこうした自分探しへの処方箋として「前向きに生きること」なんてのを掲げている。
ちょっとそりゃないだろうって気がする。
多分「自分探し」のカーネルがなんだかを探求しつくせずに、自分探しの様相を総覧的にまとめあげ、そのルーツをニューエイジとかに局所化しすぎたからそんなしょぼい結論しかでてこなかったんじゃないかと思う。
アクセル全開に人生を突っ走り「無限遠の彼方にいる自分」を探すのでもなく、「そのままの君でいい」なんて甘言にのせられて「そのままの自分」を探しだすのでもない、「宙づりの自分」に我慢できる第三の道が、自分探しにからめとられない生き方のヒントだと思う。
それってなんだよ。
具体的にいえよといわれても、私も思索の途中です。
すいません。一生答えなんて出ない気もしますが。
けど、「闇金ウシジマくん」の<サラリーマンくん編>の主人公、医療営業の小堀が全てを失ったあとに達した境地がヒントになるような気がするんだけどね。
(あれって「小さな成熟(苦笑)」?・・・)
「大切な人と自分との間」に自分探しの答えを見つけたとしか読めないんだけどな。
このことに満足していて良いのかってことを感じなくなったってことは
単に自分探しを止めただけなんじゃないのかな。
結構目から鱗な話だなー。
わが子を自分探し病から守る 前編
http://anond.hatelabo.jp/20080715002131
からの続きです。
もちろん、夫婦に限らず、友人でも親子でも兄弟でもどんな関係でも、存在意義を確かめられる関係は成立し得ると思います。夫婦が一番やりやすいとは思いますが。
そして、その関係にはきちんとした双方向性が必ずしも成立するわけではないのがポイントです。例えば赤ちゃんを守り育てる母親のように、それが一方通行の無償の奉仕という関係でも、その関係で母親が自分の存在意義を確かめるのは、決しておかしなことではありません。
だから、二次元世界の住人との間でも、それはそれで成立すると思います。それは、ある種の宗教における神様的な存在との関係と同じものです。
二次元世界の住人や神様的な存在は、熱烈なファン=信者の支持がなければ存在を維持できない、とても儚い存在です。自分が熱烈に支持する度合いに応じて存在感が大きくなるという意味では、鏡のような存在でもあります。
大切にしようともがき続ける自分の姿が鏡に映るのを見て、そこに自分の存在意義を見出すのです。信者である自分たちが必死になって大切にしないと消え失せてしまう存在だからこそ、それが存在し続けること、もがき続ける自分の姿を映し出し続けてくれることに、自分の存在意義を見出すのです。
それはいびつな関係ではありますが、別に珍しい関係ではありません。
そして、それがいびつな関係であることをきちんと自覚しているという点においては、二次オタほどしっかりしている人はいません。
無償の奉仕なんて、明らかにいびつな関係です。だから、そのいびつさを補正するための仕組みが必要になるのが普通です。しかし、二次オタは、一方通行の関係であることを骨の髄まで理解しているので、いびつさをそのまま受け入れることができます。
しかし、それ以外のいびつな関係においては、なかなかそこまで割り切ることが出来ないものです。例えば、宗教においては、その教義の多くの部分が、神様的な存在との一方通行な関係のいびつさを補正する仕組みそのものだったりします。「魂の救済」とか、そんな理屈で補正するわけです。
子育ても無償の奉仕であり、いびつな関係なので、やっぱり何らかの補正の仕組みが欲しくなります。また、夫婦など本来は双方向な関係においても、双方向のバランスが一時的に崩れたりして、いびつな関係になることもあるのが普通です。
ということで、何だかんだでいびつさを補正する仕組みがあちこちで必要になってくるのですが、往々にしてここで間違った仕組みを作り上げてしまって、せっかくの関係を台無しにしてしまいます。
いびつな関係でも、そこに自分の存在意義を見出せれば、それで十分のはずなのに。
そんな子育てという関係のいびつさと、うまくつきあうための魔法の言葉を、わが家では開発しました。
「曲かけちゃうよ!」
もしくは、
「曲かけちゃってるね!」
という言葉です。
いびつな関係を補正するための「物語」を意識的に受け入れて、その「物語」に踊らされることを「敢えて」選択するという意味です。
例えば、
「市の体操教室のイベントで、明らかにうちの子がずばぬけていたんだよね!これは曲かけちゃうよ!習い事いろいろ通わせちゃおうかな♪」
みたいな感じです。
子育てという一方的な奉仕の場において、親という唯一無二の存在であることに自分の存在意義を見出せれば十分とするのが筋です。しかし、この場合は、「才能豊かな我が子を立派に育て上げる立派な親」という物語まで上乗せして気持ちよくなっちゃうのもいいかもね♪ということを、高らかに、でも自嘲しながら宣言しているというわけです。
他にもいろんな物語が、世の子育てには上乗せされています。「この子を医者にする使命を果たす母」とか、「少なくとも自分以上の学歴を子どもに獲得させるという使命を果たす母」「オーガニックな子育てで人体が本来持っている力を大切にしてあげる母」「誰もがうらやむオシャレでかわいい子どもの母」などなどです。
そういった物語は、結局すべて、子育てという無償の奉仕のいびつな関係を補正するための仕組みなんです。突き詰めていくと結局は親の勝手なんです。いびつな関係を補正するために、更にいびつな補正の仕組みを作り上げているだけなんです。
でも、それを全否定するのは現実的ではありません。二次オタのように、その関係のいびつさをそのまま受け入れることは出来ないのです。対象である子どもが、なまじ現実の意思ある存在なだけに、どうしても何かを期待してしまうのです。
親も所詮は人間です。人間はそんなに強くはありませんし、欲張りな生き物です。それが親の勝手だとしても、無償の奉仕という関係の上に余分な物語を上乗せして、そのいびつさを補正しなければやっていられないこともあるのです。それはそれで良しとするのが現実的です。
ただし、それを自覚してやっているのと、子どものためであると本気で思い込んでやるのとでは、大きな違いがあります。親が自分のためにでっち上げた物語なのに、その物語と我が子との相性があまりにも悪かったときに、自覚してやっていれば、さっさと撤退できるからです。
だから、うちの妻は、それが自分勝手な物語であるときちんと自覚するためと、いざという時のストッパーとして私に機能してもらうために、
「曲かけちゃうよ!」
と宣言するわけです。
また、こういう物語は、自分でも気付かないうちに踊らされてしまっていることも少なくありません。だから、そのことに気付いた方が、
「曲かけちゃってるね!」
と自覚させるわけです。
けっこう複雑な概念を、「曲をかける」という単純な用語に落とし込んで、夫婦の間で共通理解しているというのは、とても便利ですし、ふたりだけの言葉という感覚が妙に一体感を高めてくれるのでオススメです。
そんなこんなで最後に、わが家の教育方針を箇条書きにまとめてみます。
ということで、思いのほか長くなり過ぎてしまいました。
最後までおつきあいいただいた皆様、ありがとうございます。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
ペシミストじゃあない。じゃあなにか。よくわからん。
病気かね。違う気がする。
思春期特有のなにがし?まじで?そうだったら気楽になる。
でも信じられるかって。無理だろ。馬鹿言うな。
悩みを晴らすには?打ち込め?勉学?運動?何か?わけわかんね。
それでかいけつできんのか?信用できん。
医者に行って話をしたい。悩みを聞いてくれ。おれの悩み。
ひたすらもやもやするんです助けてください。いいてえ。言いてえ。言わせろ。
もやもやするんです。わかるかよ。そんなんで伝わるか。
なんていえばいい。言葉を持たない猿は気を病んだときこんな気分なんだろ。
口が動かん。頭回らん。悩み減らん。消えない。いやになる。どうにかせい。
どう訴えればいい。どうすれば楽になれる。邪魔なんだよもやもや。邪魔なんだよ不快。
どけろよくそったれ。理屈じゃ変わらん。
化学的に消滅させてくれ。もうよくわからん。
理想は楽に。言いつけどおりにしますんで。
解決策どっかから降ってこいし。変えろし。俺を。
映画?音楽?アニメ?小説?なんか本?漫画?会話?コミュニケーション?セックス?恋愛?薬?それとも自分探し?
何が効くんだ。どうしろというんだ。悩めというのか。それでいいとかぬかすのか。黙れクソども。
考えろとかいうのか。苦しめというのか。自力で行けというのか。馬鹿言え。くたばる。
のたうちまわるか。走るか。食うか。寝るか。死ぬのはいやだ。
ばかばかしいと言えればなあ。一笑にふせればなあ。
死ぬ気で何かやる?くそが。何をすりゃいい。
すべきこと?なにそれ。生まれて死ぬんだ。
わからん。よーわからん。めんどい。わからん。
なにがなにやら。世界はおれでできてるみたいな。
いつからか溜息でなくなった。たまってるな。
おにゃのこ。体温。ちゅう。なんでもええ。
夢?ない。理想?あるよ。かなうか?くそが。
あるだけじゃま。霧散しろ理想。
俺から想像力剥ぎ取れ。いらん。クーソーの役にも立たん。
主観?ばりばり。客観?常に。どちらか?知らん。
理解?想像?可能性?現実?妄想?夢?嘘?どうせ無駄。知ってます。
無駄です。たいてい無駄です。だいたい無駄です。他者はロボットです。主観は嘘です。騙されてるとしか思えない。
誰が俺を?神?いるの?信じられん。でも奥底でその存在を肯定しているから俺はこんなにも世界の存在の可否について悩むのだ。
俺だけじゃね?他者嘘じゃね?言葉の存在が現実の存在を肯定するなんて信じられん。理屈がわからん。
わかろうとしろだぁ?たるいよ。
ようは自己しか信じられん。いやはや。うそです。自己すらも。
俺?確実なの?うそだ。不確実だ。
あるのは認識。あと幅。視野だけ。視野外は無し。
俺の後ろ?なし。他者?ねーよw
信じたい。でも無理じゃん。
人間越えるほかなし。
われ思うゆえにわれあり?でもほかのは?おれだけあっても困るw
外部信じさせろし。不自由。
教えろ哲学者。確実を。
http://anond.hatelabo.jp/20080320224436の続き
最近になって、自分が何に恐怖していたのか、ようやく分かってきた。
この恐怖感は、単なる嫉妬じゃなかった。俺はその恐怖感の正体をつかみ損ねてた。
彼女は10年に渡って一人の男を愛した。おそらく心から愛し、愛されたのだと思う。
最初の数年ですでに、年齢的にも世間的にも、当然結婚という選択肢があっただろう。
事実相手の男はそれを望んでいたらしい。
しかし彼女はその男との結婚を選ばず、自分の意思で自分の道を選び、
10年ののちに、その男との関係を終わりにした。
はてな的に見れば、それはあてのない自分探しだと揶揄されるような道だ。
それでも彼女は、その自分の意思と、その男との愛や世間の目線や生物としてのリスクを天秤にかけて
自分の意思を貫いたんだ。
俺が恐怖していたのは、この彼女の強さだった。
欲しいものが与えられないと泣きわめき、飽きると投げ出す、幼児そのもの。
もはや、なぜ俺が選ばれているのか、よく分からない。なぜなんだろう?
彼女も分かっていないのではないか。
この先には地獄が待っているような気がしないでもない。
一つ俺に分かることは、彼女は新しいものを、彼女自身の手によるものを作りたがってる。
前の男は、彼女への愛情と結婚という課題の前で10年待ち、決断をし去った。
彼女は、彼とは違う俺の中に、どんな可能性を見ているのだろう?
それでも、
彼女はどういう偶然か、俺の前に現れた。それは、かたちを伴った天啓だったのだと思う。
俺は、もう救われたんだ。
終風氏の言う「啓示」の意味が今はよく分かる。
俺は、俺の人生を生きなければいけない。それがたとえ何だろうと、何を結果しようとも。
これだけは言おう、今、彼女の本質を、それ自体を魅力として一番感知できているのは俺だと。
それだけは、俺だけのもの。誰にも譲ることのできないものなんだと。
別にその団体の関係者じゃないし、特にかばおうとも思わんけどさ。ここに書いてあった内容だけで判断すると、その団体にもともと偏見を持っていたが、今回のことで改めて調べても特に悪いところが出て来なかった(雰囲気批判みたいなのばかりだった)のに元々あった偏見を払拭出来ず、自分の偏見が正統であることを求めてるだけに見える。
まあなんとなく分かるけどね。そういう活動やる奴はうさんくさいとか、スピリチュアル(笑)エコロジー(笑)自分探し(笑)みたいな感じなんだろ。
この4月にはてな村に入村された皆様、おめでとうございます。
これからが、いよいよスタートです。
今の気持ちをいつまでも忘れずに、
これからの道をしっかり歩んでほしいと思います。
今年、はてな村は、8年目を迎えることができました。
とてもたくさんの理系学生さん、IT系サラリーマンさん、オタクさん、ごくごく少数のきれいなおねえさんたちに入村していただきました。
限られた入村枠でもあるため、
多くのリア充さんたちに、「ごめんなさい」をされています。
他の村へ行かれたみなさまにもメッセージを伝えたく、
ここで、全国の新入村民の皆様に向けて、
応援のコメントさせていただきたいと思います。
(他村に行かれたみなさまについても、その後の活躍が気になるのです)
私は大学生時代に初めて「ベンチャー企業」というものを知りました。
ベンチャーの世界で歩くことになって教えられた最も大きな点は、
「自分の人生は、自分で決めることはできない」
ということでした。
自分の人生は、たしかに自分でも決められるのかもしれません。
でも、
「未来は僕らの手の中にはない」
「金は命より重い」
という点は、真実だと思います。
もっともっと自分で設計して、
自分で満足のいく人生を歩めるように動く方が良いと思います。
そのためにも、少なくとも20代、30代は、
精一杯の自己成長を狙うべきだと思います。
その方が、残りの人生は、
質においても、領域の幅においても、豊かなものになると思います。
自己成長を加速させるための鉄則は、
(1)目の前の村民を、どれだけ裏で罵ることができるか。
(3)仕事やプライベートを捨て、どれだけはてな村に貢献することができるか。
です。
これは、はてな村の上位職の方たちが、上流工程でよく口にする言葉です。
はてな村は”村”ですから、表面は仲良くコミュニケーションを取っている姿を取っていなければいけません。
ですが、この村は誰もが知っての通り、”変人”ばかりが集まる変態な村です。
「自分だけは”変態”じゃない!」
その気持ちを忘れずに、裏では罵り続けるのです。
裏で罵ってこそ上達が速まるわけですから、
罵っていなければ、成長は遅くなります。
その村民を裏で罵ってこそ、スキルアップにつながるライフハックです。
成長したい目標地点を定めて、現状と比較すれば、
その差は明らかになります。差を埋めるには何をすべきかが定まれば、
あとは実行するだけです。
つまり、やるべきことをどれだけ実行できるかが、
成長を速めるポイントになります。
どれだけブックマークをしたかが、村民としての地位を上昇させます。
内容は関係ありません。
ただ、馬鹿の一つ覚えのように、”人気になっているエントリだから”ブックマークする。
それだけでよいのです。
仕事やプライベートだけに邁進して、例えば知人や親族を軽んじるようなことであれば、
成長を加速させることはできないでしょう。
人で成り立っているので、いつか必ず落とし穴にはまります。
リア充ではいけません。
リア充のフリをした非モテこそが、はてな村民のスターなのです。
この3点が、成長加速のための、主要な鉄則です。
そして、それに加えて、どれだけ周りから応援される存在になれるかが
大事なポイントになってくると思います。
はてな村に加えて、はてな以外でも成長すれば、はてな村のプラスにはねかえります。
人生も、より可能性が広がります。
あらゆる問題や課題を、すべて前向きにとらえれば、
自己成長のためのツールにあふれていることがわかると思います。
「こういう問題があるからできないのだ。だから、できなくて良い。
これは苦痛であり、逃げるべきものだ」
ではなく、
「では、それを軽減させ、問題解決に向かわせるには、自分に何ができるだろうか?
これを解決して乗り越えたら、どんな新しい自分になれるのだろうか?」
と考えること。
課題解決できないかもしれなくても、いったん考えてみるのが大事。
いろいろなチャレンジが、将来に役に立つはずです。
嫌がられたって構いません。
とにかく付けまくること。
スターの数だけ、はてな村もあなたも成長できるのです。
はてな村で成長して実績を出す。
お客様や取引先、村民たちからの賞賛をもらう。
知らないうちに成長して、新しいステージが見えてくる。
次の活躍がスタートする。
そんな素質をもった新入村民の部下をもつようになる。育てる。伸びる。
いつの間にか、はてな村も大きくなっている。
成長が加速し、気づいたら入村した頃の自分とは別人になっている・・・。
私たちは、私たちが思うより、もっと多くのことができる潜在力をもっているのです。
はてな村を面白くできるかどうか、
世の中を面白くできるかどうか、
これは意外と私たち自身で左右できる問題でもあると思っています。
ただし、
あらゆることを前向きにとらえ、
あらゆることを学びの教材ととらえるかぎりにおいては、です。
これからすべきこと、チャレンジしたいこと。つくりたい実績。いろいろ考えてみてください。
きっちりと成長路線を堅実に歩み、それを継続させることができれば、
「未来は僕らの手の中にはない」
「金は命より重い」
ことに気づくはずです。
はてな村に貢献することが、結局はすべてはてな村の成長につながるのです。
これからのはてな村民生活、悔いの無いよう、精一杯の活躍をして下さい!