はてなキーワード: 怨念とは
ピーナッツ小さい子に与えたらだめなのは常識だけど、こういう親ってそれも知らなさそうだよね。
きっと、そういう人たちは自分たちの親からそういう教育をしてもらう機会を得られなかったんだろうな。
ちゃんと自己管理できる人の迷惑にしかならんという側面もしっかりと認識してからいろいろな社会的活動をしてもらいたい。
社会って言うのは、いろんな人たちの集合体なのだから。
もしも、自分たちの主張が「自分たちが子供を殺したことに対する罪滅ぼし、罪悪感、免罪符の希求」以外のモチベーションから来るなら、消費者庁なんかたよってないで自分たちで協会かなんか作って、強制力のない安全基準を作成して、その基準を満たしている企業にお墨付きを与えていく活動でもしてみるといい。
もしも、社会全体が「明確な基準のないこんにゃくゼリーは万人にとってスベカラク危険で、この基準を満たしているものが購入されるべきだ!!!」と思うなら、その商品はシェアを伸ばすだろう。
しかし、現実はそうはならないはずである。
科学的根拠に基づかない思い込みで動く活動家は、社会に強制力を発生させるような活動をしないでほしい。
正直、迷惑だし目障りだ。
まずは、まっとうな専門家が示した統計をひっくり返すだけの資料を持ってきてからそれからやっと議論が進むんじゃないのか?
いまぐだぐだいってたってどうしようもあるまい。
母親って言うのは怖い生き物である。
それだけ愛情深いということの裏返しであるともいえる。
しかし、ここまで他者に責任を転嫁するように自分の精神構造を書き換えてしまっていては、こんなものはただの怨念でしかない。
ちなみに、この母親が本質的に願っているのは新しい事故が起きないことではなく、自らの罪が赦されることである。赦された感覚を得ることである。この領分は本来的には宗教の分野であるから、政治にその答えを求めてもつれなくされるだけだ。いつまでたっても赦されない。
ググってみるとこの方がどんだけモンスターペアレントなのかがわかると思う。
そして、“消費者目線”=“感情論”と読みかえると、こんにゃくゼリー規制論がただの感情論にもとづいたものであることがわかる。しかも、この“消費者目線”は“誰”の“目線”なのか?それがまったく明記されていない。
もしかして“何十万、何百万といる消費者全体の総意”という意味でつかわれているのだろうか。あるいは、そういうニュアンスを醸し出す意図で使われているのだろうか?
以下引用。
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「こんな物のために息子の命が奪われてしまったかと思うと…。私が望むのは二度とこんなつらく悲しい事故が起こらないことです」
6月29日、荒井聡消費者担当相に出された手紙の一節だ。差出人は三重県伊勢市の村田由佳さん(49)。平成19年に長男の龍之介君=当時(7)=を、こんにゃくゼリーによる窒息で失った。
消費者庁の発足のきっかけの一つが各地で相次いだ、こんにゃくゼリーによる窒息事故だった。7年以降、少なくとも22人の死亡報告がある「特異な消費者事故」(同庁資料)に対して、“消費者目線”からの安心安全の実現が期待されていた。
こんにゃくゼリーのような食品には、硬さや形状を規制する法令や担当省庁がない。いわゆる“すき間事案”だ。消費者庁には、こうした事案に関し、事業者への改善勧告・命令を出す権限などが与えられた。
庁内では食品の事故防止対策を練るプロジェクトチームで食べ物の硬さや形などの指標をつくるための検討を開始。今年の7月中に指標の結論を出すべく作業が進んだ。
◇
手紙が出されて半月後の7月16日。消費者庁が見解を出した。「法的整備が必要」(泉健太政務官)としながらも、「結論を出すにはデータが不足している」。指標の結論は「年内をめど」に先送りになった。
村田さんが受けた衝撃は察するにあまりある。村田さんはいま「対応できる状態ではない」(担当弁護士)という。
なぜこんなに時間がかかるのか-。法や指標の整備には正確な窒息リスクの把握が必要となる。だが、専門家らの調査が異なる評価を出すなど、リスクを明確に示せないのだ。
消費者庁が導き出した評価は、「こんにゃくゼリーにはモチやアメよりも重い事故につながるリスクがある」というもの。一方で、内閣府の食品安全委員会は「アメと同程度でモチに次ぐ」と、ニュアンスの異なる評価を消費者庁に答申してきた。
食品安全委は食品のリスクを評価する機関で、消費者庁に「意見」を出せる関係。安全委の見解は「こんにゃくゼリー規制だけで、窒息事故は防げるのか」という疑問を投げかけた。
◇
結局、検討作業は膠着(こうちゃく)状態となり、1年前と同じ状態が続いている。そんな行政のもたつきをよそに、こんにゃくゼリー製造者による商品や表示改良は進み、過去約2年間、窒息死亡事故の報告はない。
食品をめぐる課題はほかにもある。発がん性が懸念される成分が検出された花王の食用油「エコナ」。商品に与えられていた「特定保健用食品(特保)」の認定がどうなるかが社会の関心事となった。
特保を所管する消費者庁は昨年10月、特保の再審査手続きに入ることを決定。花王側は即日、自主的に認定を返上した。
だが、肝心の発がん性については、昨年7月から食品安全委で調査中だ。こちらも行政のもたつきをよそに、メーカー側の販売自粛などでこの成分を含む食用油はすでに市場から消えている。
消費者行政で強い権限を与えられた消費者庁。だが、こんにゃくゼリーやエコナをめぐっては、どう権限を行使したらいいか手探りの状態が続いている
消費者庁の活躍に期待していた人たちの中には、そんな状態が歯がゆく見える。国民生活センター理事長の野々山宏弁護士は、「行政が消費者の目線に立ち、消費者もそれを実感できることが大切な課題だった。だが、現段階では十分ではないと思っている」と1年を振り返る。
主婦連合会の山根香織会長も「期待はあるがいまは十分だと思っていない。消費者も『何でもやってくれる』と期待したのに、『トントンと進むものが見えてこない』と思っている」と厳しい見方だ。
× × ×
昭和46年の環境庁(当時)以来の新官庁として、昨年9月1日に誕生した消費者庁。“消費者目線”を期待された省庁の活躍ぶりはどうだったろう。発足から1年を検証する。
■消費者庁 内閣府の外局。相次いだ食品偽装事件などの発生を背景に設置構想が出された。「消費者が安心安全で豊かな消費生活を営むことができるような社会をつくること」を任務にしている。発足当初の担当大臣は野田聖子氏(自民)。政権交代を経て福島瑞穂氏(社民)、荒井聡氏(民主)。正規職員数は約200人。都心の民間ビルに入居しており、当初その賃料(年8億円)が高すぎると国会などで問題視された。
「多様性の尊重」とか「マイノリティへの抑圧」とか言ってるフェミニストに限って、
男は「フェミニズムのありがたくて正しい思想を受け入れるリベラル男」
と「男尊女卑思考に固まった古い考えの男」、
もうすこしはっきり言うと「味方」と「敵」との二種類の人間しかいないと考えてる。
というよりその二種類だと考えるとあの人達自身が安心・安定するんだよ
更に言えばあの人たちはリベラル男なんて嫌いだよw
全然良くなんか思ってないけど利用価値がありそうなら少しは居てもいいか、みたいな感じ
あの手合いの理想って言うのは
そんで自らは
糾弾者・裁く者・罰する者の高揚を味わいたい
マッチョ男が1人減ってリベ男が1人増えたら嬉しくないの分かるでしょ
だからリベより更にたち悪いのは弱弱しい「男らしくない」だけの男で
マッチョ男のように大事な役割も背負わなければ
リベ男のように懐いてくるわけでもない
しかも隙あらば神聖なる「被害者」の席を横取りされそうな危険を感じさせるわけだから
マッチョ男>>>>>>>>>>>>>>>リベ男>>弱弱男
ぐらいなわけ
なんで叩かれてるか分かってる?
ネトウヨが今までそうやって他人にレッテルを貼って叩いてきたからだよ。
いわばカウンターパンチ。いつまでもガキみたいに「これだからゆとりは(笑」とか「スイーツ(笑)」とか「ビッチ死ね」とか好き勝手言ってられると思ってた連中へのカウンターだよ。
だからいくらでも叩かれていいの。ネット右翼という言葉は、ネット上で他人の揚げ足をとりレッテルを貼っていた匿名の大人げない人間すべてを指してるんだからね。
つまりはこの言葉が、ずっと匿名やネットの顔の見えないコミュニティに隠れていた人間を浮かび上がらせることになった。いい加減、そういう連中がのさばって誰かを叩くという構図に嫌気がさしたってこと。
この隠れていた連中は、2ちゃんねらーで作り出される典型的な「非コミュ人間」像と一致する。
つまり、童貞、友達が少ない(もしくはいない)、引きこもり、デブ、メガネ、オタク、揚げ足取りが大好き、法律用語についてやたら詳しい、通報大好き、レッテル貼り、20代以上、おっさん、アキバ系。
これらのすべてもしくは一部の要素を持ち、一般的には「気持ち悪い」人間のこと。
彼らがいわゆる現実社会でうまく人と付き合う事が出来ず、ネットに逃げ込んで「一般人」を「リア充」と名付け暗い情熱を持って彼らを叩いてた張本人。
なぜ今まで彼らがずっと闇に隠れていられたかといえば、それは彼らに対する目が冷たいもしくは無関心だったから(所詮負け犬の遠吠え)ということと、ネットがまだ彼ら非コミュ人間の巣窟であり一般人は近づかないもしくはあまり深くまでやってこなかったから。
しかしネットの爆発的普及やそれまでの個人サイト分散という状況から徐々にポータルサイトへの統合という風に流れが変わったことで、普通の人がそういった暗い情熱を持った非コミュ人間たちと直接出会うことになった。
すると、一般人の中からは、彼らの目に余る行動を何とか定義づけてあぶりださないといけないという気持ちが芽生え、結果的に「韓国や中国などを特定アジアと呼び(悪い意味で)特別視して叩く」という特性や、それに関連して自分たちとは違う人間にレッテルを貼り馬鹿にするというスタイルが特に目立っていたので、それらを持った人間をネット右翼と呼ぶようになった。
2ちゃんねるに一般人があまりいなかった時代には、たとえこういうことを言う人がいても即座に潰されて握りつぶされていたんだろうけど、2ちゃんねるはあまりにも有名になってしまった。だから、内部から2ちゃんねらーの一部を定義づけしてあぶりだす動きが活発化した。
こんなところだろう。
ネット右翼が叩かれるのは当然。むしろもっと叩かれてもいい。そうして自分達が怨念にまかせてやってきた事の罪深さを知ることになる。
筋トレ始めたのがガリガリ高校中退ヒキコモリニート時代の10年前(17歳)でこれから先
バイト先などでなめられたくない、あわよくばむかつく奴を半殺しにできるような体力を
持っておきたいっていうのが動機でひたすら腕立て伏せしてたら1年で水泳部の部員
くらいの体格になりました。で、ケンカはしませんでしたがいつでもこの拳で一発で床に
転がせるという筋肉の自信が対人関係に良い相乗効果を生み、キレるときは罵詈雑言駆使して
しっかりキレていつでもやったんどボケナスとなったりならなかったりで
とにかく内にこもって言いたいことも言えずにもじもじすることがなくなりました。
小学生のころとか気が弱かったのにね。
今なお筋トレを続けてるのも同じくいつでも半殺しにすんぞボケが、なめんな、という
気合いで毎日毎日命がけでいつ死んでも後悔せんと思って仕事をやってるからでしょうか。
いつでもやったんどっていうのはいつでも死ねる覚悟はできてるってことと同義です。
とにかくなめられるのが嫌いなのでこのいつでも殺し合いに脊髄反射でこたえる覚悟が
あって、しかもその自信は筋トレからきててフェイントでもなんでも拳が一発でも入れば
立っていられる相手などいないと自負するからこそ毎日命かけられるのです。
文章が支離滅裂になっていきていますが、言いたいロジックは威圧感→なめんなおまえ殺すぞボケが感→
変な自信→良い仕事→仕事の結果でる→良い対人関係→たまに対人関係ヒビ入る人いる→
ていうかこのループそろそろ限界みえてきた?→最近ちょっと大人になった みたいなところです。
まあ自分で客観的にみてもなかなかのキティGUYぶりなのですが、筋トレから良い結果が
生まれたことも挙げてみると、ニートからバイトしながら何クソ殺すぞボケナス魂で独学で大学(旧帝大のどっか)に入って
院まで行ったり、女が何人かできたり、なめられなかったり(なめてくるそぶりを1ミリでも見せたら即威圧します)
仕事でも技術なのに営業にかり出されて活躍したりなどがあります。
ぼくにとって筋トレすることは上記のような怨念がつまった行為なんですね。やったんぞ殺すぞなめんな今に見とけや
という怨念の原風景が筋トレにあるんですね。コンチクショウと歯を食いしばって生きてきたからこそこんないびつな
人間になってしまったけど、でも筋トレをすることで自分のアイデンティティ(クソなアイデンティティですが)を
形成して何とか生きて来れたのかもしれません。
筋トレしてるとき何を思い描きながらやってるのかというと拳で人を殴り倒す妄想をしながらバーベルを上げたり下げたり
しています。コンチクショウ、ナニクソ、いつでもやったんぞ、ぶっ殺すぞと心で叫びながら。
かつて毎日が苦痛で情けなくて死にたかった17歳の自分が筋トレをすることでいびつな前向きさを獲得した、
というお話でした。
これですね↓
彼らは怒っている。当然の権利を不当に奪われている被害者は自分の方なのだという怒りである。
最初からそんな権利のない者が、「与えられて然るべきだった」という前提で喪失感を被害者意識に変える。奪われているのは自分なのだから、少しでも取り返して何が悪い。もともとお前ら女が俺(男)から奪ったんだろう。女が責任を取れ。そういう怨念が感じられる。
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2009/1207001329.php
予想以上のブクマがついてしまった。それにホットエントリにまた関連エントリが入ってるし。ちらっと見たけど、基本グダグダになってるのでこのまま収束して、別の話題でまたどつきあいをし始めるだけではないかな。というわけでブコメの返答の続き。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091208071006
Arturo_Ui おいおい, ぬるい! 「なんか、ひどいですよね」<それは君が「はてサ」を呼び捨てできる理由にはならん//「もうあからさまにバカ扱い」<単に論理展開に隙が多いから。「俺の作品は取り締まるな」という主張と見なせば平仄は合うんだが。
あはははは。他のレスでも僕がNaokiTakahashiさんを持ち上げてるみたいに見られてるけど、ちょっと違う。某所ではその一派とか言って敵視されてるのがね、そこまで言うかと呆れてます。呼び捨てにしてるのは、単にはてサが嫌いだからに過ぎません。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
はてサが憎いことはないですよ。そんな怨念を抱くような個人的経験もないし。ただはてサが嫌いなだけですね。ってか、サヨクの人ってなぜかすぐそういうこと言い出しません? 嫌悪と憎悪の区別がつかなくて、俺に反論する奴は全部けしからん、みたいな。被害者意識が強いというか自意識過剰というか。妙にエスカレートする理由は、そこにもある気がしますよ。
それは許して。
fromdusktildawn この件に関しては説得力のあるブコメに☆をつけるというより自説への応援ブコメや自説を危うくしかねないブコメを貶めるブコメなら少々論理が怪しくても☆を付けまくる一部集団がいたな。数希を応援する信夫的。
たぶん、そこがはてなの問題というかきついところというか。たいてい中身は問題にはならない。この件だけじゃないと思いますよ。
NATSU2007 婆さんの繰言を本気にして「ほら女だってこう言ってる。だから自衛しない方が悪い」と鬼の首盗ったように吠える奴がいる以上、老害の言説を利用されないように叩き潰すも1つの道。
こういう意見が出てくると思った。これだけの短文でも突っ込みどころが色いろあるんだけど(ぱっと見て三つくらい)、はてサでもネトウヨでもいいですが、ネットである言説を「叩き潰」そうとするから碌な事にならんのだ、とは言っておきたい。無茶なこと言って自己正当化するのはやめた方がいいです。
分かって書いてるんだろうけど、漫才のところから言われてもな。ようは、バランスの問題、程度の問題。
tatsunop 呆けた婆さんの戯言でも、トンデモをスルーせずに突っ込む人は必要。極論をベースに論点を構築するとぐだぐだになって徒労が大きいというのは同意できるけど。
なにがなんでも必要かどうか分かりませんが、相手の仕方も程度の問題だと思います。
cheapcode 何を今さら。こういうのに積極的にからんでうだうだくねくねするのがはてサの醍醐味だろが。俺様意見を一方的に主張してはてブ界隈で注目されたいだけで、そもそも誰も”議論”なんかしてないんだよ。
あははは。ごもっとも。
parallel-world 『題は「用心するということ」』/水伝「良い言葉を使いましょう」、ゲーム脳「ゲームばかりしてはいけない」が、本来のお題なのだと信者は言ってるよね。ニセ社会学やニセ犯罪学は勘弁してくれ。
曽根綾子のエッセーのダボラぶりは僕は擁護してませんよ。その手の信者と並べられるとちょっと困る。それに曾野綾子は社会学や犯罪学の見かけを借りて論じてるわけでもないので、ニセ社会学・ニセ犯罪学というにも当たらない。それ以下。
uheh 無駄じゃないと思うけどなぁ。自分の場合、いままでジェンダー論食わず嫌いだったけど、この件でちゃんと本読んでみようと思ったよ。
これは良かったですよね。いや、皮肉じゃなくて。
gouk 確かに戦後すぐってのは生活のためにそういう格好してああいうところうろうろしてた人がいたんだよ。しかしそれを、今の犯罪に当てはめるのは無意味。しかし真に受ける存在がいるから彼女らがピリピリする
まあ、真に受けるアホは軽くいなして鼻で笑っておけばいいと思うんですよ。しつこいけれども、程度の問題といわざるをえない。
chousuke7 「はてサ」は、彼ら独自の文法と文体で話している。
彼ら独自の「文脈」もありますよね。
hygienic 徒労と言いながらちゃんと整理するとはwww(略)
ああ、受けた受けた。本論よりも、そこが受けるととっても嬉しい。これが一番気に入ったブコメだ。ありがとう。
http://d.hatena.ne.jp/cambrian/20091205/1259991371
↑この記事から「突っ込んでください」という信号が発信されている(笑)ので、突っ込んでみることにする。
のではありません。
のです。
これってさ、被害者の心理というよりはむしろ犯罪者の心理なんじゃないの?
自分が不当に抑圧されている被害者だと思い込むのは、性犯罪者やDV加害者や秋葉原通り魔事件の犯人に共通する心理だ↓
彼らは怒っている。当然の権利を不当に奪われている被害者は自分の方なのだという怒りである。
最初からそんな権利のない者が、「与えられて然るべきだった」という前提で喪失感を被害者意識に変える。奪われているのは自分なのだから、少しでも取り返して何が悪い。もともとお前ら女が俺(男)から奪ったんだろう。女が責任を取れ。そういう怨念が感じられる。
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2009/1207001329.php
この言葉は「被害者意識で凝り固まった人」に対して言う言葉であって、「実際の被害者」に対して言う言葉ではない。
実際の被害者は「糾弾しなければならない“敵”がいる」に決まってるだろ。
なぜなら、あなたが“不愉快な発言をする人間を糾弾”する度に、“弄ってください”という信号を発信してしまっているからです。
そんなありもしない信号を発信しているのだと妄想する人は、「“ミニスカートを穿いている”ということは“襲ってください”ということなんだな」と思い込む性犯罪者や、「“彼女が「もう近づかないで」と言った”のは“俺の愛情を試している”からなんだな」と思い込むストーカーぐらいなものです。
普通の人は、初めから発されてもいない信号はそうしう受信したりしません。勝手に受信してしまう精神異常者は、こちらが何をしても自分の都合の良いように妄想するから無意味です。
「だから、加害者や加害者側に立つ人に何も言わないでね」ってか?
これじゃ加害者側は言いたい放題ですね。どうせ黙っていても被害者叩きが始まるのに。
そもそも、あたまのおかしな人には効果が期待できなくても、法に訴えたり、大多数の正常な心理状態の人に訴えることには効果が期待できるんだから、被害者側が声を上げることの意味はあるでしょ。
結局、最初から最後まで、「そんなことに拘っているあなたが悪い。もういい加減諦めて静かにしたら?」というのを、いかにも親切ごかして言っているだけにすぎない。
被害者に対して「もうそんなこと忘れてしまえばいいじゃない。過去に拘らず幸せになることを考えましょう。」などと言うのは、実のところ自分が忘れてしまいたくて、被害を訴える人の存在が邪魔になっているからだ。
被害者が暗い顔をして泣いていたりすると、被害者に対応できない自分がまるで責められているような気がして来て、いい加減にして欲しいと思うようになったります。そして、面倒くさくなってしまい「そんなことは忘れてしまいなさい」などと、とんでもない事を言ったりするのです。
しかも、加害者側のものである身勝手な被害者意識や、勝手な妄想に基づいた「信号の読み取り」を、実際の被害者に投影し、被害者側のものにしてしまっている。
「被害者の気持ちを思いやってアドバイスしてあげる善人」のつもりなんだろうか。
単純な罵倒より何重にも醜悪だ。
普段は本当に「諦めてます」「期待してません」みたいに振舞っている同僚A。
しかし、時折怨念じみたものを見せる。
完全にそういう類のことを諦めて飄々としてる先輩がいるだけに、尚更目立つ。
以前言ってみた。
「本当は『特に自分からモテようとするつもりはないけど、彼女がいない事に触れられるのは嫌』ってだけだろ?」
「レッテル貼りが我慢できないってのは、自分のプライドがそれで傷つく、気にしてるってことだろ」
と。
そしたらAは黙り込んだ。
昨日また鬱陶しいことを言い出した。
その時Aと話をしていた同僚Bは俺同様にウザいと思っていたようで、お前いい加減にしろよ、と楽しそうに自分の考えを語っていたAの顔を凍りつかせた後に吐き捨てた。
「お前、モテる努力をするのが、みっともない、格好悪いって思ってんの?」
「ひとそれぞれだけどさー」とAはお決まりの台詞で逃げようとするがBは追い討ち。
「結局お前って、モテたいけど努力はしたくない、でも誰か、ありのままの自分を好きになって! ってだけなんだよな。『主体性がなくて努力もせず、自分に甘い』誰がそんな人間に魅力感じるかよ」
それを聞いてAは激怒。
でもBは全く動じない。
「図星かよ。結局それを認めたくなくて自分や周囲の人間にポーズとってるだけじゃねーか」
「モテる努力ってのは、自分を相手にプレゼンする能力を身につけるってことなんだよ。表面上しか見ない女が多すぎるって、内面で見る気にさせてないのはお前自身だろ。人のせいにすんな」
「モテたいけど努力はしたくない、でもモテたい? いい年して馬鹿か?」
「そんなんだからモテねーんだよ。お前がモテてないのは『女に』じゃなくて『人に』だってことにいい加減気づけ」
「興味がない振りやらなんやら、結果が伴わなかった時の逃げ道ばっかし用意して、こういう話にいちいち反応して喚き散らして、笑って受け流すこともできてない時点で底が透けてる」
「逃げるなら全力で逃げてりゃいいものを、逃げてる自分の姿を見られるのが嫌だから人と並んだまま顔だけ背けてるだけ。側で腐ったプライド振り回して悪臭撒き散らすくらいなら立ち止まってろよ。俺らはその間に先に進むから」
全否定されて血管切れるんじゃないかってくらい首筋まで真っ赤でぶるぶる震えてるA。
震える声で反論。
「お前みたいにレッテルを貼る奴がいるから~(後半聞き取り不能)」
でもやっぱりBは容赦なし。
「そうやって自分に甘い台詞吐いて責任転嫁するばっかりで自分を省みることすらできないから根性腐るんだよ」
「大体、好印象にしろ悪印象にしろどっちもレッテルなんだよ。得たいレッテルを得るため、避けたいレッテルを避けるために努力することの何が悪いのか言ってみろよ」
「世の中のカップルや夫婦にお前の口からタレる糞を投げつけてみろよ」
Aはもう何も言えないみたいだった。
そのままAは逃げるように退社。
Bは吐き捨てるように一言。
「今の自分を認めたくないなら人じゃなくて今の自分を否定しろっての。変える努力もしない、できないやつが文句ばっかしウゼぇんだよ」
俺も似たようなことを前にAに言ったけど、容赦がなさ過ぎてちょっと乾いた笑いが出た。
家に居れば行き詰った家族、学校に行けば思春期オーラで悶々とした教室。
バイト先は明らかな人員不足で、常に忙殺される割に時給が低いブラック飲食。
かような境遇の中で、俺はというと慢性的に悪化する中二病患者。どうしようもない。
学校が終わる。一刻も早くいなくなろうとして、廊下を進んでいる最中、
突如として、上記の肥溜め的な環境で暮らしているという実感が脳から臓器群を汚染し通過し足の先まで充満した。
荒廃し、暗い狂気が渦巻く監獄のような雰囲気が全身を支配し、外部に漏れ出しているような実感があった。
数メートル先に階段がある。異常に不快な精神状態が作用したのか、死に直面している気分になっていて、それが更に気分を害した。
そのとき、前方1メートルほどに、向かいから笑いながらふらついて来た女子が居た。あまりに能天気に見えて、思わず軽蔑してしまった。
それゆえこの怨念をぶつける事に躊躇は無かった。目が合った。無言で睨む。自然に浮かんだ方法だった。恐怖に陥れるにはこれで十分過ぎる、と確信していた。
楽しげな雰囲気だった女子は、一瞬で動きを止め、表情が固まった。俺は睨み続ける。女子の足が下がる。どうにも間がある。
次の瞬間、名前も知らない女子は悲鳴を上げ、よろめきながら歩いてきた廊下を逆戻りし、教室に逃げ込んだ。「今、マジで怖かったんだけどー」切迫した声が響いた。
憶測と偏見からなるただの長い独り言だよ。
私自身は猫キチガイではあるが、猫を虐殺したということについてMをとくべつ糾弾するつもりはない。
ディルみたいにネットにうpするような危険を冒さないで、自分ひとりでひっそりとニヤニヤしながら殺しまくってる奴は他にもたっくさんいると思うし、そういうのは誰が批難したって止められるものじゃないのだ。だからあいつは、ネットにうpしちゃったというやりかたがマズかっただけで、それ以外は他の多数の虐待キチガイと変わりない。憎むべき他人。
でもこうしてMが完全な自業自得で死に掛けてる(かもしれない)と知って、わたしはどういうわけか少し嬉しい。私だけに留まらず、普段はおとなしく無害な人物も、この事件に接して「M、死ねww」とあたりまえのように嘲笑する。無邪気なwをたっぷり付けて。どうしてこんなに、いきなり、赤の他人に対して残酷に死ねって言えるんだろうか?こげんたは別に私の飼い猫ではないし、M以外にも野良猫を殺している悪漢はいくらでもいるというのに。
この憎しみは、Mのしたことが許せない悪行だったというだけの感情ではない(もちろんそれもあるけどね)。人の不幸や苦しみを、これほど正当に、これほど安全な場所から、指差して笑ってもよいという機会が、通常の社会生活ではほとんど皆無に等しいからなのです。考えてもみれば、かつての日本や、今でもどこかの国で行われているように、悪人に対する処刑や刑罰は多くの一般市民にとってお祭りなのですよ。悪いことをした罪人が、広場のまん中で縛り付けられ、みんな満面の笑みでそれに石を投げる。死ね、罪人死ね。みんな別にその罪人から直接被害を受けたわけじゃない。もしかしたら名前も罪状も知らないかもしれない。でも平気で、あまつさえ笑顔でみんな石を投げるんでしょう。あいつは悪い。だから罰する。苦しむあいつを見て我々は嬉しい。そして、石打ちで弱り、最後に火をつけられて炭になっていく罪人を見て、「よしよし。これで正義は果たされたな」とニッコリ満足し、みんなうなずいて家に帰るんだ。
そういう心理が、Mに対して無邪気に、ごく自然にわたしが「死ねwww」と思うことの根拠になっているんだ。文明は進歩し、石打ちや公開処刑は人道的でないという観念が浸透し、日本の刑罰は善良なる一般市民の目から秘匿されるようになった。懲役6ヶ月?執行猶予3年?それでMがなにを反省し、なにを償ったのか、私は知らないしわかりようもない。我々のような無実の者は、全身に切り傷を負って重傷を負ったMは、これでやっと真に罪を償わされたと思えるんだ。罪と罰の心理は、倫理や人道というファンデーションで巧妙に塗装され、近代的にメイクアップされてはいるが、その薄い薄い化粧の下に構えているのはあくまで根源的な人間のむきだしの感情だ。それは法を遵守して正しく窮屈に生きている我々一般市民の持つ、逸脱者への怒りなのかもしれない。悪いことをする奴は許されない。単純に明快に。