憶測と偏見からなるただの長い独り言だよ。
私自身は猫キチガイではあるが、猫を虐殺したということについてMをとくべつ糾弾するつもりはない。
ディルみたいにネットにうpするような危険を冒さないで、自分ひとりでひっそりとニヤニヤしながら殺しまくってる奴は他にもたっくさんいると思うし、そういうのは誰が批難したって止められるものじゃないのだ。だからあいつは、ネットにうpしちゃったというやりかたがマズかっただけで、それ以外は他の多数の虐待キチガイと変わりない。憎むべき他人。
でもこうしてMが完全な自業自得で死に掛けてる(かもしれない)と知って、わたしはどういうわけか少し嬉しい。私だけに留まらず、普段はおとなしく無害な人物も、この事件に接して「M、死ねww」とあたりまえのように嘲笑する。無邪気なwをたっぷり付けて。どうしてこんなに、いきなり、赤の他人に対して残酷に死ねって言えるんだろうか?こげんたは別に私の飼い猫ではないし、M以外にも野良猫を殺している悪漢はいくらでもいるというのに。
この憎しみは、Mのしたことが許せない悪行だったというだけの感情ではない(もちろんそれもあるけどね)。人の不幸や苦しみを、これほど正当に、これほど安全な場所から、指差して笑ってもよいという機会が、通常の社会生活ではほとんど皆無に等しいからなのです。考えてもみれば、かつての日本や、今でもどこかの国で行われているように、悪人に対する処刑や刑罰は多くの一般市民にとってお祭りなのですよ。悪いことをした罪人が、広場のまん中で縛り付けられ、みんな満面の笑みでそれに石を投げる。死ね、罪人死ね。みんな別にその罪人から直接被害を受けたわけじゃない。もしかしたら名前も罪状も知らないかもしれない。でも平気で、あまつさえ笑顔でみんな石を投げるんでしょう。あいつは悪い。だから罰する。苦しむあいつを見て我々は嬉しい。そして、石打ちで弱り、最後に火をつけられて炭になっていく罪人を見て、「よしよし。これで正義は果たされたな」とニッコリ満足し、みんなうなずいて家に帰るんだ。
そういう心理が、Mに対して無邪気に、ごく自然にわたしが「死ねwww」と思うことの根拠になっているんだ。文明は進歩し、石打ちや公開処刑は人道的でないという観念が浸透し、日本の刑罰は善良なる一般市民の目から秘匿されるようになった。懲役6ヶ月?執行猶予3年?それでMがなにを反省し、なにを償ったのか、私は知らないしわかりようもない。我々のような無実の者は、全身に切り傷を負って重傷を負ったMは、これでやっと真に罪を償わされたと思えるんだ。罪と罰の心理は、倫理や人道というファンデーションで巧妙に塗装され、近代的にメイクアップされてはいるが、その薄い薄い化粧の下に構えているのはあくまで根源的な人間のむきだしの感情だ。それは法を遵守して正しく窮屈に生きている我々一般市民の持つ、逸脱者への怒りなのかもしれない。悪いことをする奴は許されない。単純に明快に。