はてなキーワード: 小中学生とは
申し訳ないが、小中学生の書いた詞にしか見えないんだが。
少なくともこれが他のJ-POPと比べて優れた詞だってのはありえないと思うよ。
そりゃ個人差があるから痛い子扱いはされるだろうが、少なくとも俺が小中学生の頃はそれなりにいたよ。
痛い子扱いされても、絶対にあり得ないレベルとして排斥されるようなことはなかった。
20代後半だから、もっと若い子は状況が違うんだろうけど。
社会には、女性への好意を絶望的にダメな形で表現してしまう男が一定数存在してる。セクハラとか言われるものの大部分はそれだと思う。
普通にしてて見向きもされない男は、たとえ嫌われたとしても相手に自分を意識させようとする。
そういうガキは、相手の過剰な反応を引き出すことに成功すればするほど、歪んだ思いを増長させる。
だから、あなたの感情という貴重な資源をそんな可哀想な奴のために使わないほうがいい。
あとそういう感情的な問題に対して、法律とか規則を持ち出してきても、本質的な解決にはなりづらいこともある。
下らない奴からいわれのない恨みを受けつつ解決したって人生の得にはならないでしょ。
あなたは意識されてるわけだから、その人はあなたの評価とか感情を無視はできないことも鍵かな。
セクハラ行為は言語道断だしムカつくのは仕方ないと思うけど、とりあえず取り合わず、こうしてくれたら嬉しい、というプラスの評価で相手の行為を規定するようにしたほうがいいかもね。
大変とは思うけど、うまく解決できるといいね。
何度目だって話なんだけど、
「本は立ち読み(座り読み)で済ます」とか、(某池袋の書店では普通に座り読みできますね)
そういう主張をする人がたくさんいるのだけど、
あれ、なんなんだろうね?
個人的には、コンビニで雑誌置き場に張り付いている輩を見ると、
単に弁当を温める間手持ち無沙汰だからかもしれないから、(つーか、どんだけ温めてるんだよ)
まあ、それは許すとして
「私、賢いでしょ?合理的でしょ?ちょっとズルいけどね、てへっw」とか、
「全部立ち読みさせてもらったけど、こんな本は買って読む価値ないんだよ」とか、
そういうふうにさ、
さかしい者勝ちみたいなのどうなんだよな?
そういうのドン引きするんだよね。
わざわざ主張することだとは思えないのだけど?
小中学生が違法ダウンロードを自慢し合うようなイタさを感じるのですよ。
フリーライダーならフリーライダーらしく、おとなしくしとけよ、と。
犯罪自慢みたいなことすんなよ。
こう書くと、
『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』
とか書きたがる、阿呆が出てくるのだろうけど。
歴史の授業では、過去に起こった出来事を教える。しかし、「なぜそのような事が起きたのか?」「どのような法則性があるか?」などの解釈はほとんど教えられない。これは、小学生の理科と似ている。小学生までの理科では、観察される事実や実験結果を覚えることが中心で、「なぜそのような事が起きたのか?」「どのような法則性があるか?」などの解釈はあまり教えられないからである。歴史だけを学ぶのは、非効率であり、簡単な歴史を学んだ後は、経済学・政治学などを中心に教えるべきだ。
歴史の授業では、過去に起こった出来事を教える。しかし、その出来事に対する解釈はあまり教えられない。そのため、戦争があった事を学んでも「残酷ですね」くらいの感想しかもてない。下手をすると感想文を書かされる。
社会科の教育として、そんなことをしているので、下記のリーマンショックの解釈のように、中二・大二病的解釈をする”歴史好き”な教員・生徒を発生させる。
不況の機構などは、歴史を研究することで発展した経済学である程度理解することができる。しかし、歴史好きほどそのような学問を学ぶことなく、自分勝手な中二・大二病的解釈をする。
歴史は、理系科目でたとえると、小学生の理科と似ている。小学生までの理科は、観察される事実や実験結果を覚えることが中心だからだ。理系科目では、それらを覚えた後、中高と進むにつれて観察される事実や実験結果の解釈方法を学ぶ。観察される事実や実験結果は無数にあり、それを覚えていくのは非効率だからだ。
同様に、過去に起きた出来事を覚えることを中心とする歴史を学ぶのは非効率である。歴史は小中学生までに薄く広く教え、以降は、経済学・政治学等の過去に起きた出来事の解釈を中心として教えるべきだ。理科が、物理学・化学と名前を変えて、事実の解釈方法を学ぶようになるように。
ラノベに限定しての話だけども、応募作品の質の劣化はいつ底を打つのだろう。
ネットで安易な賞賛を受け、根拠のない自信をつける人間がいる限り止まらないのだろうか。
応募作品の母数は増えても、その質は低下の一途。
多段階選考となっていることが多いが、ニ次以降が本格的な選考となるケースが多い。
人が一生懸命描いたものにこういった言い方をするのはなんだが、選評を返す段階ですらない問題外の作品(と正直なところ呼びたくない)が多すぎる。
一次落選の大多数と二次落選の一部に共通するのが「お前絶対三人称で書いたことないだろう」と断言できるレベルのもの。
とにかく人称や視点のブレなど、基本ができていない。
一人称は描きやすいよ?
読者的にもとっつきやすいよ?
でもあんた、作者視点での描きやすさととっつきやすさで選んでるだろ。
それ以前に人称統一できてる?
「人称や視点を切り替えるという表現方法が~」なんて言うのがたまにいるけど、それは基礎が出来てる人間だからできること。
効果的に人称切り替えができてる自信があるのかもしれないけど、アマチュアレベルで出来る人間なんて殆どいないから。
出来る奴はそんな手使わずに人称統一した作品応募してきて選考通過していく。
小中学生の黒歴史ノートみたいなレベルのものを送ってくるのが大学生とかそれ以上なんてのが珍しくない。
本屋に並ぶ他の作品に引けをとらない自信があるのか。
ネットに投下するのとはわけが違うのは分かっているのか。
また、応募予定者のBlogなどで時々目にする一文。
「今日は○枚(ページ、kbyte)書きました」
この時点で質がなんとなく予想出来てしまう。
確かに例外はある。
逆に言えば例外レベルでしか真っ当なものがない。
漫画が好きだから漫画家を目指そうと思い、実行に移す奴はそう多くない。
絵を描くという一朝一夕には身に付かない技能が必要である事にすぐ気付くから。
一方で、小説が好きだから小説家を目指そうと思う奴の多さたるや。
もう色んな人間が既に何度も言っていることではあるけども、何故気付かないのか。
俺も子供の頃
「ゲームが好きで好きで仕方がない。だから自分はゲーム会社に勤めてゲームを作るのが向いているはず」
と思っていた事があったが、あれと同じ。
"Hello World" を出力できるからってプログラミングできるわけじゃないんだよ。
アルゴリズムを知り、身につけ、組み立てて形にする知識と技能(才能と言ってもいい)がない奴には無理なんだよ。
作品を見てすぐに分かる。
冒頭十ページで分かる。
日本語を読み書きできて小説が好きだからって小説が書けるわけじゃない。
また、うまくなるためにどうすればいいかという質問を時折見かける。
「たくさん本を読んでください」
と答えている奴。
はい、アウトー。
日本語を読み書きできて小説が(ry と思っている人間はすぐにこう答える。
それは描けるようになった人の話。
うまくなりたいならたくさん書く。
色んな人に見てもらって叩かれる。
でも踏み外すと斜に構えて「応募すれば賞程度すぐとれる」という意識の勘違い君に成り果てるんだよねー。
インパクト狙いの一発ネタでの賞賛を受けるのに慣れて他が書けなくなるか、同類の間で馴れ合うだけに。
そうなったらなったで自分のプライド守るために応募してこなくなるから楽にはなるけど。
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同意する奴も反論する奴もいるだろうが、とりあえずブクマしてる中に明らかに場違いなのがいるのでひとつだけ。
id:konkon1986
書く・描くが指す対象とその文字を使う意味を理解できないのなら最低ラインにすら到達してないからこの手の話題にはお呼びでないよ。
http://www.ntv.co.jp/kiminitodoke/
これは別冊マーガレットで連載中の少女漫画をアニメ化したものだが、その内容が素晴らしいので少し紹介したい。
この物語の主人公の黒沼爽子は明るく純粋で感動屋だが、見た目が超陰気なためクラスメイトから『貞子』の名で恐れられていた。だが、風早翔太に恋をしたことがキッカケで、自分が思っていることを周囲に発言するようになり、クラスに次第に馴染んでいく。この漫画では、その爽子を中心にクラスメイトとの友情、及び風早との恋物語が丁寧に綴ってある。
思えば少女漫画は少年漫画と違って、昔から『読者との等身大感』が非常に重要視されてきたように思う。
例えば、私が小中学生の頃読んでいた『りぼん』では、『天使なんかじゃない』、『ママレード・ボーイ』なんかが流行っていて、読者が感情移入するのはもちろん主人公である女の子。男性のサブキャラクターが一部に人気を誇ることはあっても、物語はあくまですんなりと読者が感情移入できるようにと配慮され、『キャラ重視』されない漫画が多かった。また、当時はまだ少女漫画がアニメ化、ドラマ化すること自体が稀であったため、それらの作品は映像化しないで終わったものが圧倒的多数であった。
それが最近の『イケメン』ブームにより、アニメ化するのもドラマ化するのも、製作側に『とりあえずイケメンいっぱい出るやつがうけるんでしょ』と安易に片付けられ、結果、視聴者が非日常感を楽しめるように、という視点での製作が進んでいったように思う。
確かに『NANA』、『桜蘭高校ホスト部』、『花ざかりの君たちへ~イケメンパラダイス~』などは素晴らしい出来だったと思うが、何故これらの映像化が受けたのかというのを製作側は深く考えたのだろうか。少なくとも私は、フジテレビが映像化した『メイちゃんの執事』、『有閑倶楽部』は『イケパラ』の二番煎じを狙ったもののように感じられて仕方が無かった。原作者の方には非常に申し訳ないが。
もういい加減『イケメン』路線が飽きられているのも製作側は分かっていると思う。なので、なおさらこの『君に届け』がアニメ化されたこと、またその出来栄えが素晴らしいことが嬉しく感じるのである。
ただ昔と違うのは、『腐女子』や『リア充』に代表されるネットスラングともいえる言葉が、視聴対象となる若者に浸透しすぎているという点だ。言い換えると、このアニメは爽子がいかにリア充としてクラスに打ち解けていくかというものを描いているため、視聴者がこのアニメの話題で、実際の学校生活で盛り上がれるか盛り上がれないかで、その視聴者の取り巻く環境を推察できるように思う。だって実際にあなたがクラスのいわゆる暗いグループに所属しているとして、「超感動した~」と盛り上がっているところを他のグループに聞かれたいだろうか?私だったら駄目だ。『こいつも爽子みたいに本当は打ち解けたいんじゃないか』なんて思われるくらいなら死んだ方がマシだ、と思ってしまうに違いない。中高の頃ってやたらとプライドだけは高かったりするし。
こういう風に書くと、『なんだ結局オタクは見るなって言いたいだけかよ』と思われるかもしれないが、それは違う。むしろオタクこそ見るべきと言いたい。このアニメに登場する人物が、たとえ主人公のライバルにせよ、どこか憎めなくて愛せてしまう性格の持ち主ばかりで、リア充だろうがオタクだろうがそんなものは乗り越えて、見ている側が30分間、自分のとりまく環境を忘れさせてくれるような作りになっているからだ。
男だろうが女だろうが、オタクだろうがオタクじゃなかろうが、この『君に届け』の世界観が、ごくありきたりの学生生活を描いているにもかかわらず、ある意味で非日常な空間を体験させてくれる。それも自然に。この点が、このアニメの一番の真骨頂であるように私は思う。
風早に笑われると、まるで自分が爽子であるかのごとくドキッとしてしまうし、クラスメイトが仲良くしてくれると本当に嬉しく感じる。そういう意味では『リア充感』を味わわせてくれるアニメ、ともいえるかもしれない。
かつて、『監督不行届』という本の中で、エヴァンゲリオンの監督である庵野秀明が、妻、安野モヨコの漫画を評して語った文章の中に、非常に印象深いものがあるので紹介したい。
嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が沸いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さん本人がこういう生き方をしているから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。
この庵野監督の言っていることがそのまま、この『君に届け』には当てはまると私は思う。例えクラスでこの話題に入れなかったとしても、そんな事はどうでもいいのかもしれない。むしろ『その話題に入りたかった自分』を直視させられるキッカケとなるのが、このアニメなのかもしれない。だって爽子は、そういった自分の内側の気持ち、『皆の輪に入りたい』ということを、ちゃんとクラスメイトに勇気を出して伝えているじゃないか。不器用で天然だけど、こちらが恥ずかしくなるくらいに真っ直ぐで、だからこそクラスで受け入れられていくのだ。プライドばかりが高い誰かとは違って…。
私は、あなたがこのアニメを見終わってテレビを消した後に、非常に満ちたりた充実感を味わえることを約束する。現在2話まで終わっているので十分追いつく範囲だ。男も女も、腐女子もオタクも、見て幸せになるといい。
よくわからないけど、使ってる奴って小中学生とかのガキなんじゃないの。
ガキんちょには発達段階ってもんがあって、そうゆう科目を順序良く教えたからといって、ほとんどの子供は論理的思考なんてもんは獲得できないし、複雑な思考は難しい。小中学生は自分ではちゃんと考えているつもりでも、たいてい何かしら抜け落ちている。重要なのは、適切な発達段階で適切な訓練をすること。これは教育学とか発達心理学では常識で、カリキュラムってやつはこれを考慮に入れなければならない。
それに、論理なんてもんは本当に限定的なツールであって、早くからそんなもんを押し付けることで子供の可能性の芽を摘み取ることになりかねない。これまで社会を大きく動かしてきたのは、論理の飛躍と紙一重のひらめき。きちんとした論理は後付けになることの方が多い。この、ひらめく能力(≒感性)こそ、人間がコンピュータよりも優れている部分。もうさんざん言われ尽くされて安っぽく聞こえるけど、これだけはガチ。
いやー、あなた方が通ったようなハイレベル小中学校ならいざ知らず、その辺の学校はいい加減もいいとこですよ。実際。
小中学校の国語で「論理的な文章の読み方」なんて1ミリも習わなかったよ。「心が感じるままに読みなさい」みたいなレベル。マジで。
「いや、もうちょっと論理的に教えてください」みたいなことを(小中学生の言葉で)先生に言っても、先生の方に論理的思考力が
身についてないらしく、「いや、そうは言ってもこれはこういうもんなんだよ」に毛の生えたような返事しか返ってこなかったよ。
仮に国語を通じて「論理的思考力」を教えることができたとしても、必要な水準からして全く足りないと思う。
もっと他の科目を削っていいからまずはとにかく徹底的に論理的思考力を叩き込むべきだと思いますね。
他のほぼ全ての科目はその後やればいいし、そうすれば結果的に同じような時間で全科目終わると思う。
犬の散歩の途中、同じく犬の散歩をしている老齢の男性に「こんばんは」と声をかけるのだが、いつも無視される。
一人なら「そういう人もいるわな」で済ませるんだが、誰に挨拶しても返ってくることがない。女性はそうでもないのだが。
「まったく最近の年寄りはろくに挨拶もできねぇのかよ。どんな教育受けてきたんだか。親の顔を見てみたいよ」
と、嫌味のひとつも言いたくなるのだが言わない。不毛すぎる。
ここは最近開発が進んだ宅地で、このあたりに住む高齢者というのは昔から代々この地域に住んできた農家・地主の人が多い。
そういう人たちは新参者(小学生くらいの子供がいる夫婦が多い)に対してはちょっと閉鎖的な感じがして、まぁいいんだけど、挨拶くらいしてくれてもいいじゃないか。
ちなみに、この地域の小中学生は向こうから積極的に挨拶をしてくる。
防犯・自衛のためであろう。
挨拶の契機が防犯というのは寂しい気もするが、しっかり教育が行き届いているのはわかる。
さらに言うと、私も自衛のために自分から小中学生に挨拶することはない。
http://news.livedoor.com/article/detail/3898328/を真に受けて、というわけではないが、 いや、真に受けているのかもしれない。
昨年度おおくの反対意見を押しきって強行された全国一斉学力テストが、はたしていかなる結果を生じたかを検討する慎重さを持つことなく、文部省は今年七月ふたたびテストをおこなう準備をすすめている。それは全教育の体系を国家権力に従属させようとする意図がますますあらわになって来たことである。
私たち日本文学協会は、前回の場合にも、教育の問題は一行政的見地から取り上げられるべきではなく、教師をはじめとする自由で民主的な国民的教育の場において推進されなければならぬことを主張して来た。
いったい学力とは何か、いかに伸ばされるべきかということは、子どもたちの自主的な判断力・活動力と、全国民の未来への望みの上に具体化されるはずのものである。一片の答案を、それも機械的にあらかじめ思考の範疇を限定した回答を選択するといった、受動的・偶然的そして知識偏重の結果のみを拠りどころとする学力の判定は、いかに子どもの未来をあやまるものであるかは明らかであろう。
私たちは日々の教室の現場で、教師の主体的な活動力が働くとき、子どもたちは生き生きと学力を伸ばすことを身をもって知っている。この方向こそが学力向上の唯一の進路である。
だから学力の問題は、学者・実践者がその総意をもって築き上げ、慎重に進められるべきものである。しかるにふたたび学力テストを強行しようとするのは、こうした国民の真の要求をいささかも取り入れず、行政権力を教育内容にまで介入させようとすることにほかならない。
私たちの態度はおのずと明らかである。今回の学力テストに反対し、その撤回に向かって働きかけ、もって未来の教育をその基盤から築いていこうとするものである。
世界や視野を広げるためなら小中学生の一般参加もいいんだろうけど
中学生くらいのグループで、同人誌買った仲間へ「本なんか買ってんじゃねぇよwww」と突っ込んでた
チラっと見たら東方のギャグっぽい本だった(というか知ってるサークルの本だった)
「こんなにペラいのに500円とかふざけてるだろJKwwww」
「いくらなんでもぼったくりwwwだまされてるお前wwww」
と3~4人でフルボッコ。
彼らが興味を持つのは東方ボカロ(ニコニコ文化)、あとせいぜいコスプレ、他はどうでもいい、って子が多い
この「他はどうでもいい」っていうのがポイント
「東方ボカロ以外でコミケ参加してる奴なんなの?きめえwwww」と当然思ってる故、他の参加者との「お互い様」精神が全く存在していない
コミケは「君もオタク、僕もオタク、オタク同士なら助け合ってコミケ成功させよう」で成り立ってる部分が多い
でも彼らにとってそんなことは「どうでもいい」。
待機列で「25時25分に七色のニコニコ動画歌おうぜww」や、ニコ生でコミケ実況中継などがいい例だろう
自分らの文化内だけで盛り上がることが最優先なのだ。他の文化を持つ人たちのことを考えもしない
昔から↑のような人はいたけれど、ローティーンだとさらにこういった傾向が強まるように見受けられる
なんていうか、『仲間内で他校の文化祭へ行くノリ』で来ている感じ。今週末あるってー、行ってみるかー、みたいな。
他人が開催したお祭りを覗きに来ているため、何をしようが「俺らには関係無い、その学校の奴らがなんとかするだろ」というスタンス
コミケの楽しみ方は人それぞれだし、こうあるべきというのを押し付けるつもりはないけれど、
彼らの横暴ぶりを見るたびに「時代は変わったんだな…」と思ってしまう
今更だけど、DSi購入して、フリーソフトのうごくメモ帳ってやつインストールしてみた。
自分で簡単にアニメ(パラパラマンガみたいなもの)を作ることができて、なかなか楽しい。
DSiのカメラやマイク機能を駆使した作品も作れて、けっこう根強い人気なわけです。
で、そのソフトから、「うごメモシアター」という作品投稿サイトへ作品を投稿できて、これがまあ、楽しいんだけど、「これでいいのか?」ってなんか釈然としない感じ。
何に引っかかってるかって言うと、UZEEE!って思うかもしれないけど、「著作権」ですよ。
もうね、ヒドイ。ユーザは小中学生が多いんだろうけど、「著作権」という概念が全くない作者の巣窟。
具体的に書くと、
・どのチャンネル(作品カテゴリ)にも、ほぼ間違いなく版権キャラ作品が登場
・アーティストの楽曲をDSiのマイクで録音 → メモに貼り付け → 手書きで歌詞追加 → 「★ください!」
・TV番組・CM・youtube投稿作品をDSiのカメラで撮影 → メモに貼り付け → 「★ください!」
※「★」ってのは、作品の評価。
多ければ多いほど人気作品!という分かりやすいシステムのため、みんな必死に「★ください!」書いてるわけです。
確かにさ、★なんてうごメモユーザの間だけの社会的評価で金銭は動いてないよ。
でも他人の権利を無断利用して美味しい思い(例:うはwww俺人気wwww)してるってことじゃない?
これって著作権法に認められた「個人的に楽しむ行為」の範疇なんだろか?
特に楽曲貼っただけのやつとか、ダウンロードしてもらうの前提みたいだし。
著作権侵害は親告罪で、権利者の、「しょーがねーな、多少は大目に見てやんよ!俺のキャラ愛されてるってことだしなw」っていう寛容さのおかげで、二次創作なんかは楽しめてるんじゃなかったっけ?
でもうごメモ作品の多くは、そんな意識カケラもなくて、元の作品をただただ★を得る為の手段っつー位置づけにしてしまってる感じがする。
で、何が気になってるかって言うと、これが「当たり前」になることなんだよ。
こういう作品ってさ、だいたい、
「★100以上で、好きなリクエスト曲投稿します」とか、
「★100以上で、このアニメのED動画も投稿します」とか普通に書いてあるんだよね。
悪気とか悪意とかまったくなし。でもそれが怖い。
「みんなが見たいものは無料でシェアできて当然」ってカラダで覚えてるんじゃなかろうか。
普段アニメをyoutubeで見てる子が、DVD買おうって気にならないでしょ?
知人が息子の好きなアニメのDVDを誕生日プレゼントに買ってあげようとしたら、
「これはパソコンで全部見れるから買わなくていいよ。代わりにマジコン買ってよ」って言われて家族会議になったそうな。
もう最近の子はここまでキてる。
その子の弁だと、
「パソコンのゲーム(※MMO)はタダ(※基本無料・アイテム課金)なのに、なんでDSのゲームは高いの?そんなのずるいよ。でも、友達に直接入れてもらえば(※ROM)ちゃんとタダで遊べるんだよ」
とのこと。
「ちゃんと」ってwww
マジコン持ってないといじめられる、なんて話を聞くけれど、その子によれば、正確には、
「お前なに金払ってんのwwwマジコンしらねーの?馬鹿じゃねwww」
のようだ。
もうね、無理。
デジタルで配信可能なものは、もっと別の集金方法考えないとやってけないわ。
個人的に、大人のマジコンユーザとか割れ厨とか「乞食」ってイメージでいたけどさ、この子達については「子どもの医療費はタダ」と同じ感じ。
デジタルコンテンツは、タダでもらえて当たり前の「社会保障」だわ。
大人にも、「任天堂はあこぎな商売してやがる……!」とか本気で思ってる人いるみたいだし。
昔さ、クラスの友達にCDとかマンガとか借りて、CDなんかはカセットに録音してたけどさ、この子達は、世界中にコピーさせてくれる「お友達」がいるみたい。
あとは元増田と世代が違うのかな。(私は1982年生まれ。高校生頃から使用者が増えたような時で、親が小中学生の子どもに連絡用に持たせるためのプランなんかはなかったor未発達だった時代)
元増田は小中学生の時から携帯がないと落ち着かないという育ち方をしてたんじゃないかな。
親しい友人に二名携帯を持ってないのがいるけど、新宿や渋谷で待ち合わせることがあっても困ったことなんか一度もない。
携帯持ちの人と混雑した場所で待ち合わせる時も、探しやすさ、探しにくさは携帯なしの友人の時と別に変わらない。
高校生ぐらいの時までに携帯を使わない待ち合わせや連絡を十分やってたから、今さら抵抗感なんてないんだよね。
経済的余裕があるのに持たない理由に関しても「持つ気がしないんだなー」って思うだけだし、
友人も別にそれが特別なステータスだと思っているところは全くない。
確かに多忙で直前まで待ち合わせ詳細を決められない仕事相手とのやりとりでは迷惑だけど、
そういう職業の人は大抵会社持ちのを貸し出されてたり、購入は自分でも全費用会社持ちのことが多いんじゃないかな。
私は都合上持ってるけど、本当は携帯ウザい派。
だから使い始めて10年弱経ってるけど未だに「着いたら連絡するね/してね」という習慣を面倒に思うし、いらないと思ってる。
これも慣れたからいちいち気にしてないけど本音は、
その場所が初めてだったりどちらかが遅刻してるわけじゃないなら探せないことないでしょ、って思う。
実は俺も持ってた。
俺が持ってたのはSFC用で、3.5インチフロッピーを使うタイプ。
当時はまだネットなんざ普及してなかったんで、友達から借りて、コピーを取って即日返してマッタリプレイという感じだった。
あのころはまだ隠れた存在で、知る人ぞ知るような存在だった。
中にはきっと、買ってコピーして、ホンモノを速攻中古屋に叩き売るとかしてた人もいるだろう。
俺だけかもしれんがコピーで遊ぶことに飽きてしまった。
今のマジコン界はそのへんマジコンとして出来ることが広がってしまって、マジコンを手に入れる手段もロムイメージを手に入れることも容易くなってしまった。
あまりに容易いものだから、小学生なんかモラルの欠片も感じないんだろう。
マジコンというものに対価を払っているからコピー対策なんかしてあろうもんなら逆ギレしちゃうんだろうな。
カネ出して(マジコン)買ったのにできないなんてどういうことだ!と。
任天堂はとりあえず販売店潰すべきだよ。
小中学生からゲームを手に入れるまでのプロセスを歪めちゃイカンと思う。
いるとしたらだけど、親も含めて無自覚でマジコンを使ってるのが一番怖い。