はてなキーワード: 日教組とは
小沢一郎 総理大臣 (外国人参政権推進、秘書の韓国人が反日デモに参加)
鳩山由紀夫 国務大臣 (外国人参政権推進、日韓海底トンネル、日朝友好議員連盟)
中川正春 財務大臣 (外国人参政権推進、民潭の集会に参加、日朝友好議員連盟)
増子輝彦 経済産業大臣 (外国人参政権推進、パチンコ利権、民潭の集会に参加)
神本美恵子 子供担当大臣 (外国人参政権推進、元社会党、日教組、マイク・ホンダ関係者)
岡崎トミ子 環境大臣 (外国人参政権推進、元社会党、慰安婦問題、反日「水曜デモ」に参加)
藤田幸久 防衛副大臣 (外国人参政権推進、日朝友好議員連盟、民潭の集会に賛同)
http://senkyomae.com/naikaku-minsyu.htm
民主党に政権を取ってもらい、参政権を実現しようではないか! 【民団新聞】
>長い年月を費やして民団は、地方参政権運動を展開してきたが、いまだに実現していない。
>地方参政権獲得運動の一環として、民主党を総力をあげて応援しようではないか。
http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=3146
何様のつもりだ。
速やかに落選しろ
事実を伝えるのではなく、イデオロギーを伝える事に熱心な新聞はいらない。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/081008/edc0810080731000-n1.htm
問題は3点(本当はもっと。)
1.議論の土台となる統計が不適切なものを使っている。
3.因果関係の検討がない。
1.議論の土台となる統計が不適切なものを使っている。
組織率だけでは活動の過激さは分からない。
そこで日教組の「強さ」を測る指標として、平成19年と16年の参院選(比例)で、日教組の組織内候補(民主党の計2議員)の総得票数を調査。今春実施された全国学力テスト(小6、中3)の国語、算数・数学の平均正答率の合計を都道府県別に比較した。
http://sankei.jp.msn.com/photos/life/education/081008/edc0810080731000-p2.htm
「日教組の組織内候補(民主党の計2議員)の総得票数」でわかるのは、民主党の2名の得票数以外の何物でもない。
理由は当たり前だが、
・得票数は有権者数に比例するので、得票数で比較しても意味がない。
・民主党議員の選挙結果が日教組の組織の強さに関連しているという検証がない。
つまり、この総得票数では日教組の組織の強さは判断できない。明瞭な間違い。
こんなベーシックな間違い以外にも、不明瞭なところが多すぎる。
・民主党の議員が2名以上(2名未満)いた場合はどういう基準で選定しているのか?
・平成19年と16年の参院選で民主党の得票は大きく違ったが、どういう基準で選定しているのか?
・候補者数が多い場合、一人当たりの得票数は少なくなるがどう判断すればいいのか?
「日教組得票率=日教組の組合活動の強さ」という定義で行っている議論だから、「日教組得票数が少ないものの、組合活動が強いとみられる地域」は定義と矛盾している。
一方、石川、静岡の両県は日教組議員の票が1万5000票以上出ている地域だった。ただ、両県は「特に問題視されるような目立った闘争運動はない」(文科省関係者)という。
こんな文章をみると、日教組得票数と組合活動の強さそのものに相関があるか疑問だ。
3.因果関係の検討がない。
このような議論で忘れていけないのは、「AだからB」という結論に対して、「BだからA」または「C(隠れた原因)だからA+B」という可能性が存在すること。
原因だと考えていたAが、結果だと考えていたBから引き起こされている可能性もある。
例:「学力が低いから、組合の組織が強い」(可能性は低いが、)
まったく想定していない原因Cが存在して、その結果として目に見える現象であるAやBが引き起こされている可能性がある。
例:「私立学校の比率が高いことが原因で、組合が弱くなり、学力は向上する」(可能性高い?)
「一生徒あたりの教育予算が低いことが原因で、組合が強くなり、学力も低下する」
学力に関連する因子は山ほどあるのだから、因果関係を検証しなければ何も言えない。
一クラスの生徒数/一教師あたりの生徒数/一生徒あたりの教育予算/教員平均年齢/公立・私立率(教育行政比較)
通塾率/親の年収/親の最終学歴/親の離婚率/核家族率/共働き率/出生率(家庭の比較)
本当に、この記事は信頼に値しないものだ。
きちんと数値で検討しようと思ったら、既に検証した人間がいた!
素晴らしい!!!
http://d.hatena.ne.jp/kei999/20081008
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/2282
悲しい結果も。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/2274
統計は適切に使わないとね。
自分にとって不愉快な統計分析が出ると「相関関係であって因果関係ではない」というのは定番だ。逆に自分にとって好都合だとまったくそういわないのも定番中の定番だが。「相関関係であって因果関係ではない」というのはとてもわかりやすいし汎用的だ。しかしそれゆえみんな口々に言うようになってしまった。その結果「相関関係であって因果関係ではない」だけではもはや通ぶれず、自分に不都合な意見を批判しながら自己顕示欲を満たすことはできない。そこで「相関関係であって因果関係ではない」ほど汎用的ではないが、わかりやすいフレーズを発表してみよう。それは「勝手に自分で指標をつくるな」だ。題材は「組合と学力に関連性はあるか? 低学力地域は日教組票多く」。ポイントは「学力とはいったいなにか?」ということだ。記事によると「小中2学年の全教科の全教科の今春の平均正答率の合算」だ。どこが問題なのだろう、具体的に考えてみよう。正答率だと面倒くさいので平均得点とする。A, B, Cという3つの県があったとする。テストの対象は数学と国語としよう。テストの結果は次のようになった。
科目 | A | B | C |
数学 | 50 | 70 | 60 |
国語 | 60 | 30 | 10 |
合計 | 110 | 100 | 70 |
単純合計ではA県がトップだ。従って産経新聞の分析ではA県の生徒がトップということになる。しかしそれでいいのだろうか?よくないだろう。同じ70点でも平均50点のテストにおける70点と平均80点における70点は異なる。また同じ「平均点プラス10点」でも得点分布のばらつきによって異なる。こうしたことを考慮しなければならない。こうしたことを考慮すると例えば平均からの差を得点分布のばらつきである標準偏差で割った数値の合計で比較する方法が考えられる。これは次のようになる((慣れないopenofficeでやったのでミスがあるかもしれない))。
科目 | A | B | C |
数学 | -1 | 1 | 0 |
国語 | 1.0 | -0.13 | -0.93 |
合計 | 0.06 | 0.87 | -0.93 |
平均との差を標準偏差で割ったものだとB県が一番ということになる。単純合計よりましだが、この指標にだって問題がないわけではなく完璧ではない。それについては置いておくとして、要はいくつかの指標から比較可能な((正確には比較に意味がある))指標を作り出すのは難しいのだ。逆に言えば分析者の作った指標についてはつっこみが入れやすい。公正な指標を作り出すのはほとんど不可能なので、ほとんどの場合「その指標は恣意的だ」という指摘が成り立つ。つまり自分に気にくわない統計的分析があり、それが自分で指標を作っていれば「その指標は恣意的だ。勝手に自分で指標をつくるな」といえばいいのだ。これからは「相関関係であって因果関係ではない」という馬鹿の一つ覚えを止めて、これを使って「俺は他の奴とは違うんだぜ」と自己満足に浸ってほしい。
それにしても「相関関係であって因果関係ではない」というのはよくいわれるのに、同じくらいわかりやすい指標の危うさについてはまったくいわれないなんて、日々自分に不愉快な分析に対して「相関関係であって因果関係ではない」といってる人の素性がよくわかる。
そりゃ決まってるじゃん。はてなサヨクのお気に入りの論法だよ。
「日本人がノーベル賞受賞」と言うと文句言うけど、「日教組がノーベル賞受賞」というと喜ぶのと同じ。ダブスタ?何それ、おいしいの?って感じなんだよ、彼らにはね。
「ミソジニー」ってのは便利な言葉だからだよ。「女(である自分)から見て気にくわない」ことを全部「ミソジニー」認定してしまえば、単なる自己中も「学問的正当性に支えられた正当な批判」に早変わりする。
逆に、「女(である自分)」から見て腹が立たない、いやむしろ歓迎な存在である「モテや一般人」は批判する必要がないから、そいつらが何をやっていようと「ミソジニー」のレッテルは出てこないのさ。
これは被害妄想っていうんじゃなくて、実際既出なんだよね。こういう話がホットエントリになったんだけど、ブクマがものすごく同情票が多かったんだよね。本当に「最低の話」で、非モテが批判されてることに比べて何倍もひどい話なんだけど。で、そういう批判も実際にあったんだけど、インチキフェミのはてサちゃんは公然と居直ってみせるわけ。
フェミに限った話じゃなくて、はてなで良識ぶってるサヨクちゃんたちってこのレベルの人たちだってことはよく認識した方がいいと思うんだよね。気にくわないものには「全体最適はナチ」「トリアージはホロコースト」とかいう詭弁中の詭弁を平気で何ヶ月でも使い続ける癖に、自分が外野から偉そうにものを言えるときは「図書館はホームレスへの福祉施設になれ」とか思いつきでものを言う(その割に、似たような思いつきでものを言う橋下あたりは「ハシズム」と言って批判する)わけだ。そして、批判は一切聞かない。我々は知的なはてなサヨク様なので、批判したければまずデリダとフーコーとアガンベンを原書で読破してからにしろ、とハッタリで逃げ切るわけだ。
こういう連中は相手にしたら負けかなと思ってる。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/081008/edc0810080731000-n1.htm
個人的に、日教組の組織率や、数字に表れない影響力と学力に直接の相関関係はあまりないんじゃないかと思ってる。リンク先では「関係があるっぽい」という論調だけど。
問題なのは、組織としての日教組がどのような思想を肯定もしくは否定しているのかという点と、政治的に中立であるべき公教育に携わる立場との整合性だろう。日教組が思想的にかなり偏った組織である事を示すものは枚挙に暇がないわけで、それらの是非を世論に問い、当事者達を日の当たる場所に引っ張り出して大勢の目の前で弁明させるのが、この問題の解決の近道なんじゃないかと思う。
その通りだが、そこで言われる「政治」にはちゃんとした手続きが存在する。それを通さずに好き勝手やろうとしているのが教職員組合。
2008年10月19日 furukatsu furukatsu 増田, 政治, これはひどい 公教育に関わる人間は特定の政治思想を持ってはいけないのか? 自分の正義に基づいて運動をすることは誰にも咎められないだろう。
政治思想を「持つ事」と「運動する事」の区別くらい付けろよガキの屁理屈じゃあるまいし…。「自分の正義」とやらに基づいて自衛官の子息を「人殺しの子」と罵倒してた教師とかどうするんだ?
2008年10月18日 blackdragon blackdragon 増田 公務員が憲法を守りましょうって方に偏っているのはむしろ正常。日教組の偏り云々する人が自民党や教育委員会の偏りには無批判なのが不思議。
日教組と政党を同等に扱ってるのがそもそもの間違い。前者は特定の思想に染まった人間が勝手に寄り集まってる集団で、後者は選挙で有権者から相応の支持を得ないとなれない。
「恥ずかしがってるー」 女子生徒らが男の前でも抵抗なく着替え…日教組王国・三重の日常
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1180679.html
数少ない甘い思い出の中に、上の記事と関連するものがあったのでネタにしとく。
小5の頃、着替えは男女で同じ教室。習慣的に自分の席で着替える。席は班制だから周辺の男女比1:1。
思春期。まだだったと思う。毛も生えてなかったし。女子もブラしている人が少数派。
異性に対して淡い感情は抱いても、モヤモヤ考えるほど成熟していなかった。そんな年頃。
当時、僕は隣の席のナオちゃんに惹かれていたのだろう。気立てがよくて優しくて、僕の話によく笑ってくれた。笑顔がかわいい。
2学期、彼女と新聞係になって以来、僕の部屋で記事ネタを考えたり取材で自然公園の動物を見に行ったりと、今の僕では考えられないくらいデートらしいデートをしていた。
今思えば、ナオちゃんも僕に気があったのかも。新聞係は4人だったが、ペア行動では率先して僕と組みたがった。
僕のお誕生日会を企画してくれたのも彼女だ。もちろん、お姉さん気質だったというのもあるけれど。
それでも、このままずっと一緒だったら、もっと時間を共有できていたら、甘い恋愛コースまっしぐらだったかも知れない。
ある日、体育の時間が終わり、僕たちはいつものように自分の席で着替えを始めていた。
隣にはもちろんナオちゃんがいた。僕たちは向かい合って着替えながら、新聞記事について話し合っていた。
互いに砂まみれの上着を脱ぐ。小学生の体操服。真冬でも半袖・半ズボン(女子はブルマ)しか許されなかった昭和の暮れ。秋口にインナーウェアを着る者などいない。
白い上着が首筋をとおり、瞬間、視界をさえぎり、脱ぎ捨てられていく。それが日常。
だけど僕はその時、上着が頭を抜け、視界が明るんだその時、ふと目の前で同じく上着を脱ぎ捨てたナオちゃんの姿を見た。
僕の目はその2点に吸い寄せられた。白い柔肌のキャンバスに置かれた桃色の印。目がいかないわけがない。
ほんの一瞬だったと思う。上着を脱いで、椅子にかかったシャツを着るまでの数秒。しかし、彼女は僕の視線にめざとく気づいていた。
「きゃっ」
小さな叫び声が会話を寸断する。
今まで目を奪われていた桃色の2点が、白い体操着によって覆い隠される。
その声に困惑し、僕は何か悪いことをしたような気になった。すぐにナオちゃんの顔をうかがう。
体操着で口元まで隠した彼女の頬が、みるみるうちに紅潮しているのがわかった。実際に人が紅潮をするのを、このとき初めて目撃したと思う。
交わす言葉のない微妙な間、ナオちゃんは苦笑いを浮かべ、僕は横を向き、互いに淡々と着替えを始めた。
3学期の終わりをまたず、僕も近畿(三重も近畿とか言うな)へ引っ越した。
近畿の小6。
僕が入った小学校は、教室ごとに扉のないオープンスペースなつくり。
体育になるとメイン教室で女子が、隣のフリー教室で男子が着替えることになる(各クラスで2教室完備!)。
しかし各教室に扉がなく、隣のクラスとも廊下のみでつながっているツリー構造。
体育の時間になると、必然的に隣のクラスの女子が着替えている教室を横切ることになる。
僕たち男子は後ろを向いて横走りで駆け抜けるのが習慣になっていた。最初は何も知らず、そのまま横切ると罵声を浴びた。
「えっち!」「へんたい!」「ちかん!」
しかし、後ろを向いたら向いたで、鏡つきの流し場があったりするのが、今になると笑える話だ。
男子たちは目をつむる振りをして、チラチラ鏡の奥を見ては、目当ての女子のブラ姿などをチェックする。
三重から近畿に飛び出し、学年も小5から小6に変わる頃、もしくはナオちゃんの乳首を見て以来、僕は急速に性を深めていったと思う。
男子と女子の明確な対立(三重ではなかった)、男女別での保健指導(陰毛と生理)、恋の話(修学旅行)、性行為の発見(エロ本)。
fromdusktildawn 「「こいつらが何某を駄目にしている」という分かり易い「敵」」 ← 日教組、歴史修正主義者、自称中立、既得権益オヤジ、大企業、経営者、経団連、金持ち、自己責任教、マッチョ、ネオリベ、市場原理主義者、老人
キャーまた分裂様がなにか上手いことを言った気分になってるまじすてきーw
今春、三重県の公立中学で取材をしていたとき、教室内にいた女子生徒らが部活の準備でおもむろに着替え始めました。気が引けたので、取材を中断して廊下に出た私に対し、「恥ずかしがってるー」とからかう生徒らに唖然(あぜん)とさせられました。
実際に着替えがはじまる前に空気読んで出てけよって話だよな。
この(士)記者、どうやら学校へ取材に行きながら、生徒のことは見ていなかったようだ。
さらに女子生徒にからかわれたという状況だが、これ、美味しいシチュエーションだよな。もちろんエロ抜きで。
生徒を取材するのにコミュニケーションのとっかかりになる。
しかしこの記者、「唖然(あぜん)とさせられました」と自分から壁を作ってしまっている。
生徒から見たら、いつまでも教室でグズグズしている記者さんに唖然させられていてもおかしくないよ!
まっとうな日教組批判も一笑に付されてしまうようであれば、それはもっと残念なことだと思います。
そうですね。まったく残念です。
ゐきぺの「ゆとり教育」と「臨教審」の項はかなり都合良くはしょられてるな。「ゆとり世代」や「寺脇」の項とつじつまが合ってない。
何がはしょられてて、なぜそこまでその臨教審を重視するのかがよくわからん。常識的に考えれば特定の臨教審の意向を以降の政権もずっと従わなきゃいけないわけでもないはず。だからこそ見直しの動きも最近出してるわけで。なぜ今出てきてもっと前に出なかったんだろうか。
詰め込み教育への批判や週休2日論はそりゃあ昔からあるけど、臨教審が日教組の流れを汲むという解釈はあまりに無理がありすぎる。
自分はそういう解釈ではなくて、審議会とか文部省与党だけでなく日教組やらマスコミにもゆとり化の流れを支持する雰囲気、詰め込みに否定的な雰囲気があったから中曽根以降も自民が下野しようがずっとその流れが続いたんじゃないかと思う。臨教審が決定的な役割を果たしたとは思ってなくて、それまであった流れに乗ってただけだし、臨教審や日教組だけで流れを作れるはずもない。
現実の政策というのは基本的に妥協の産物でしょ。55年体制だって談合なれあいと批判されるほど野党の意向もある程度くんでたわけで。ただ妥協の産物とはいえ、相対的に見れば与党の責任が重いのは当然だけど。
90年代文科省と強調してるように日教組が聞き分け悪いとわけでもないと思う。日教組は聞き分けが悪いということにしないとネトウヨ的には都合が悪いから誇張されてるだけのきがする。
おっさんからゆとりといわれる10代が「お前らだってゆとりだ」という反論はたまに見かける。おっさん側の言い分としては完全実施時の世代のほうがゆとり度が高いということなんじゃないかと。
全部が全部中曽根ってわけじゃないがゆとり教育のスタートが1985年の臨教審というのは教育問題語る上では一般的な認識と思われ。
うぃきぺでぃあによると、
1972年(昭和47年) 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起した(2007年7月1日放送TBS「報道特集」にて 槙枝元文元委員長発言)。
1977年(昭和52年)??1978年(昭和53年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施)
学習内容、授業時数の削減。
ってことだから1985がスタートとは言えなくてもっと前からあるものでは?一般的な認識だから正しいとか言ってたら嘘でもみんなが日教組のせいと思ったたらそれが正しいって事になっちゃう。
自社さ政権で社民が与党にいた間は日教組が与党に影響を及ぼす余地がある程度あったのは否定できないが、非自民政権1993から1994年、自社さ政権1994から1998年、週休2日制に移行し始めたのが臨教審を受けた1989年改正1992年開始、ゆとり要項が1999年改正2002年開始。
1996年でも中教審で「ゆとり」を重視の学習指導要領を導入されてるから社会党が政権にいた96年でもとまることなく、着々とゆとり化は進んでたんじゃないの?
未曾有の大失敗というのはどういう根拠なのか気になる。
小泉政権くらいの頃はまだ「ゆとりは日教組のせい」というような論は見かけなかったように思う。自民いつ頃からこんな恥知らずなことをほざくようになったのだろうか。
ただ70年代に日教組が言い出してたらしいから、日教組のせいといえなくもないが、政権与党にいた期間が長い自民党の責任が大きいのは否定しようもないけど。日教組が言ってる政策でも悪いと思うなら採用しなきゃいいだけなんだし。
今「ゆとり教育」と言われるのって文部官僚の寺脇研が1980年代に打ち出した方針のことで、方向性は1984年から中曽根の諮問機関である臨教審で決められたものだけど、段階的に週休2日制が始まったのが1992年、いわゆる「授業内容3割減」の実施が始まったのは2002年。この「3割減」指導要領で教育を受けた世代が世間では「ゆとり世代」と呼ばれてる。
その1992年と2002年の間には日教組を支持団体に持つ社会党が非自民自社さ連立で政権与党にいたわけだから、日教組は90年代の教育政策まったくの無関係で、90年代の教育政策も全部中曽根が決めたってことにするのは強引じゃね?ゆとり教育が悪いことだったとして(個人的にはそうは思わないが)、何でそれ以降の政権はその方針変えなかったのかをスルーしてなかそねの諮問機関せいですってのはどうよと思う。
週休2日制については更に10年以上前から日教組が主張していたのも事実で、要するに労組らしく「休ませれ」って話なわけで、まあ段階的に土曜が休みになっていったことで授業時間が減った事実もあるのだけど、これを「ゆとり」の一部に含んでしまうと1992年当時中学生だった層=現在の30歳前後くらいまで「ゆとり世代」になってしまって一般的に「ゆとり世代」と認識される層よりも10年ほど上にずれてしまう。
今の20台をゆとり世代というのも一般的と思うけど、完全実施以降がゆとり世代ということなら10台でもずれはないと思うけど。
まあ日本の教育に日教組が色々悪影響を与えてきたという論については別に異論もないのだけど、ゆとり教育に関してだけはどうも酷いすり替えが発生している。
個人的にはゆとり教育は財界の陰謀というのがうんざり。ゆとり教育やめろという経営者なんかうじゃうじゃいるのに。日教組のせいにしろ財界のせいにしろ単なるネガティブキャンペーンで敵対勢力を悪くいえれば事実関係はどうでもいいってことなんだろうけど。現実の政治じゃ特定の組織の意向だけで政策を自由自在に決めれるわけなんかないのに。
マスコミとか政治家は寺脇をスケープゴートにしておけば、自分たちの責任から目をそらせられるから都合がいいのかとかんぐってしまいたくなる。
日教組と共産党は基本的に対立してるって、日本をどう赤化するかの路線で対立しているわけであって、共産党と対立しているから赤化路線ではないってわけじゃ無いだろう。
なんでそうやって論点を誤魔化そうとするの?
http://anond.hatelabo.jp/20080928155959
日教組の中に居て、その異常性がわからないとか凄いな。
痛い子にありがちな文章破綻例。http://anond.hatelabo.jp/20080929100010
・ウヨサヨ論議はもう古い
・はてな利用者の年代に関する揶揄は既にひろゆきが2年前にやったので今さら…
・団塊ジュニアは「ロスジェネ」であって「バブルでうまうま」は40代。
・団塊ジュニアが教育を受けたのは「戦後教育世代」からであって、「日教組バリバリ時代」とは20年ほどずれてる。
・「勝ち組負け組」論とか。本気で今さら言ってるなら痛いを通り越してコピペの古典レベル。
中でも一番面白かったのが
てとこ。
「逆バージョン」という言い方は、バージョン違いだけど同種、という意味で使っているのか?明示されていないのでどちらともとれるが、とりあえず、2chが「仲間内で和気藹々でない」というのはすごい勘違い。
最近頓に2ch内世論と一般社会の世論の乖離が激しくなってる。だから最近2ch内世論の政界・社会予想があたった試しがない。麻生内閣の2ch支持率と現実の支持率の違いとか、中山発言を批判する産経を2chねらが狂ったように批判している姿とか見てると、つくづく感じる。