はてなキーワード: デザイナーとは
ある日、私は『街』を1日中歩き回ってみた。
風が吹くだけで崩れるような砂の城をせっせと作っている人がいた。
隣にはその砂の城の素晴らしさを真剣に説いている人たちがいた。
体中に要点だけをまとめた紙を貼り付け、相手の目を見ず、
その紙を見ながら口げんかをしている人たちがいた。
最初は押していたのに旗色が悪くなると、
反論するための紙を探している姿は滑稽だった。
本屋に入った。
批判しか書いていないストレスの溜まる本ばかりが置いてあった。
批判的な内容が書かれていないのは、アニメ系の雑誌くらいのものだった。
歩き疲れたのでカフェに入った。
おしゃれなデザイナーズチェア、凝りに凝った照明、小奇麗なスタッフ。
いかにもカフェといったラウンジ系の音楽の中で、出てきたコーヒーは、ネスカフェだった。
映画館に入った。
「当館では続編は流しません」という張り紙を横目に、久しぶりに「ターミネーター2」を楽しんだ。
再び『街』に出る。
時はすでに夕刻を告げようとしていた。
路上で暴行を受けている人がいた。
誰もが見て見ぬふりをして通りすぎていく。
暴行を受けている人の傍らには、火がついたばかりのタバコがあった。
中央通りを歩く。
この『街』にはやたらと広告が多い。
広告のために『街』があるのか、
『街』のために広告があるのかがわからなくなる。
しかし、あれだけの数を目にしたにもかかわらず
覚えることのできた商品名は1つもなかった。
もし彼が家電のデザイナーとかだったら、こうはならなかったと思う。
彼の場合その「匿名であり衆愚である層」が顧客対象(少なくとも声のでかい顧客)なので、純粋に商売人として普通に「やっちゃまずい対応」をしてしまったと判断されても止むを得ないんじゃないかな。だから単純に「ネットの発言だから」ではなく「ネットの発言が届く相手が客だったから」がポイントで、匿名だから安全だからどーのというのはあまり関係ないように思える。
あ、俺や増田個人が「別にそれくらいいいじゃん」と思うのとは全然別の話ね。元の増田の台詞でいうなら「大人が多少いたところで、どうしようもない」というか。ま、顧客の理不尽度という意味ではその他の商売・その他の客層とも大差ない気もするよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070420022551
俺も鬱っぽくなったことがあって、不眠や過食なんか、まぁそんな感じなんだけど、医者にかかって「仕事を控えなさい」なんて言われたら生活できないとか、今抱えている仕事を投げ出す訳にはいかないとか思っていかなかった。
そんな状態だから、ほんと世話になった人の仕事の締め切りをおもいっきりぶっちぎって、ものすごい迷惑をかけてしまった。
それ以降、他の仕事やる時も、その罪悪感が頭から抜けなくて、事あるごとに「あぁぁぁ!」ってなって、まともに仕事ができなくなった。
締め切りだけはなんとか守ろうとするあまり、レベルの低いものしかできなくなってしまった。
いや、気のせいとかじゃなく、もう、そりゃ誰が見てもそりゃないだろうってもんだったんだけど、一応、アートディレクターみたいな立場も兼ねていたので、まずいだろうと思いながらも、それ以上何もする事ができなくて、そのまま世に出してしまった。
と、そうすると、また、それを思い出して「あぁぁぁ!」ってなって、という悪循環に陥るし、新規の仕事依頼もできないし、迷惑かけたと思った人に顔向けできないし、もう、ほんとダメだった。
当然のごとくどんどん貧乏になってくるし、かといって仕事を増やす事も難しいし、かなりパニックになってたよ。
で、今はサラリーマン
すんげ〜気楽。
満員電車なんて死んでも無理と思ってたけど、あの眠れない日々に比べりゃ天国。
毎月決まった額の金が入って来るってこんなに有り難いのかって思う。
自分の自由を少々犠牲にするだけで、かなりの部分の責任を会社が負ってくれるってのは俺には合っているみたい。
ま、こんな例もあるってことで。
私の話で恐縮だけど、チャレンジはいつでも遅くないってことを書いておくよ。
昔からマンガ絵を描くことは好きだったけど、もちろん、デッサン等もメチャクチャでへたくそな絵だった。
絵が好きだから美大に行きたいナーなんて冗談でしかなくて、フツーに文系四大卒で事務職に就職した。それくらいの技術しかなかったから。
でも、24のときに、会社でのストレス解消のために、クリエイティブ系のスクールに通い始めて、私の人生は変わった。1年通った。そして、Illustrator使ったりPhotoshop使ったりDreamweaver使ったりできるようになって、25歳で退職した。半年休んだ後、スクールからの派遣としてある会社にアルバイトに行き、今もその会社で社員としてデザイナーをしている。
ただひたすら単純な事務作業でストレスを溜めていた毎日から脱出しようと、スクールに通い始めたあの日が転機だった。あの一歩がなければ私はこの席に座っていない。
スクールの宣伝をしたいわけじゃないし、脱出するきっかけはスクールじゃなくてもいい。だけど確実にプロになるために、素人の趣味からなにか一歩踏み出すことが必要だと言うことを伝えたい。
ジョブサイトを見れば、未経験可の募集も多い。けど、あれは、職歴がなくてもいいということであり、ソフトが使えない素人をイチから育ててあげましょうということではない。(いや、そういう人もなにか期待するものがあれば面接に呼ぶかもしれないけど、他にきちんとスキルがある人が応募してきたら即落とされる。)
とにかく、プロになるために何をすればいいかを考え、行動すること。行動すれば道は開けます。
俺なんか、目の前に、締め切りを三日も過ぎてるのに、真っ白なままのテキストエディタ画面があるぜ。
もう二度と、この版元からは発注こないだろうな。
いや、それよりもまず今回のこれ、書けるのだろうか。落ちる?
悩んでも悩んでも頭の中が真っ白だ。増田になら書けるのにな。
筆を折ったら何も残らない俺なのに、なんでこんなことになってしまったんだろ。弱った。
死んで済むなら死んじまいたいけど、死んだからってページが埋まる訳じゃないから死ねない。
胃が痛い。目が霞む。指先が震える。動悸が激しい。未来の不安に押しつぶされそうだ。
一体どうなってるんだ。くそっ。
『グレンラガン』は「オタクの考える“昔ながらの少年向けアニメ”」であるという点については、その通りだと思います。
“少年向けアニメ”の定義として『魔神英雄伝ワタル』や『魔動王グランゾート』の様な作品が念頭にあるのも、同じです。
ただ、キャラクターデザインについて全く逆の意見です。
ヨーコのビキニスタイルを“オタク的”と解されていますが、コロコロやボンボンといった少年向けメディアには、セックスを感じさせない“お色気”が随所に存在していた様に思います。確かにヨーコは露出度の高い衣装で、おっぱいがプルプル動きますが、そこから性的なイメージを喚起するようなキャラクターにはデザインされていないと感じます。
参考までに、『ポケットモンスター』のカスミのタンクトップが、アメリカでは“性的”であるとしてアドバンス以降デザインが変更されたことはどう思いますか?
むしろ『ゾイドジェネシス』のキャラクターの方が、オタク的嗜好を意識して作られたものでしょう。あのデザインはツンデレや、お姉さん、といった属性から逆算的に図像化されたもので、坂井きゅう太というデザイナーは、その点で極めて優れた能力をもっている人です。
いまのところグレンラガンに出てきているキャラクターは、むしろ活劇の中で動いた時の魅力を全面に押し出したデザインのものがほとんどではないかと思います。
強いて言えばアニメエリート(笑)たるガイナックスゆえの、オタク臭、というか「俺達は解ってるんだぜ」というメッセージが、画面の隅々から感じ取れることがノイズといえばノイズなのでしょうが、それを感じるには高度のアニオタリテラシーが必要でしょう。『魔神英雄伝ワタル』だって、当時のオタクにとってはロリコンブームの残り香をプンプン感じさせる芦田豊雄デザインのキャラクターが満載なので、リアルタイムの少年少女視聴者にとってはあまり関係ないかなあ…と。
自分としては、上記の理由から、“内輪ノリの濃縮”というような閉じた作品ではないと思ったのです。
燃えに対して自分に近い感覚を持っている人だと思いますが、『グレンラガン』が最近の大張アニメや、ガオガイガー続編のような、カリカチュアライズされていない熱さ、ワクワクする気持ちを表現してくれる作品になってくれることを願ってやみません。
いまいち言いたいことがうまくまとまっていないのですが、そんなところです。
それでは皆さん御唱和ください!
「来週も面白カッコいいぜ!!」
でもない。一部は。太田一派とか。
良い傾向だと思う。
小説における表紙デザイン、改行の位置、文字の大きさなどなど。
それらは全て作者やデザイナーが考え抜いた末に指定したものであって、それを変えるのは作品を改変することと同じ。
主要な部分(エンジン・タイヤなど)とそれ以外の部分を比べると、後者の方が圧倒的に大きいよね。
無駄が多すぎて醜く感じる。
デザイナーはなんとも思ってないんだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070325222834
出生前診断は必要だ。生に際してこそ意志の確認を。
未・胎児に「この世に生まれて人生を歩む意思はありますか」と訊くんだ。
うん、そうだね。もし確認ができるなら、してみたい。
ただ、少なくとも私はできないんじゃないかと思う。
あなたがもし「生まれ変わり」とか「身体に縛られない魂に意思が宿る」とか
信じている/知っている人だとすると、たぶん意見が相容れなくなってしまいそうで
残念なんだけど....。
私は、脳の発達があってこそ心が生まれるんだと思うんだ。
いや、脳っていうと限定的かもね。脊髄とか臓器とかも快・不快に関連して
くるはずだから。まあ、いずれにせよ、ある程度身体ができてこそ、と
思ってる。
じゃあ、身体がある程度できた状態の胎児に堕胎してもいいか尋くか?
どうだろう。Noじゃない? まず技術的に。子宮外にいるわれわれと
胎児が意思疎通できるかっていうと、今の科学レベルではそうじゃないよね。
ひょっとしたら、あなたやあなたの周りにいるだれかはそうできるのかも
しれないけれど、世の中の多くの人はできないと思う。私も含めて。
だから、現実問題として、「胎児に生きたいか、生まれたいか確認すること」
は運用不可能だと思う。(合法的に堕胎可能なリミットの問題もある。)
あなたに譲って、仮に意思の確認ができるとして。
もし胎児に確認を求めたとしても、果たして生まれ落ちるはずの世界を
選べるだけの判断力というか、判断のベースが胎児にあるのか、というのも
問題じゃない? まだ生きたこともないし生まれ落ちることもしていない
胎児に、「生まれ落ちる苦しさ」「生きる苦しさ」「死を待つ苦しさ」
「死ぬ苦しさ」がわかるかな? ニュートラルな状態じゃ、意見の持ちようが
ないんじゃない?
これについても、あなたやあなたのまわりの人が「生まれ変わり」とか
「前世の記憶の保持すること」を信じる/知っているのだとすると、
「いや、わかるはずだ、判断できるはずだ」と言えるだろう。でも、
世間の多くの人は「わからない」って言うと思う。例えば、ぴったりって
わけじゃないけど、こんなデータもあるよ。
参考) 図録「神の存在・死後の世界に対する見方(世界55カ国比較)
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/9520.html
そんなわけで、「生きるかどうかの意志の確認」は、胎児に対しては
できないと思う。
以下は余談。
ちなみに、ある程度の年齢に達した場合でも、意志確認はできるようになるだ
ろうけど、問題はあるよね。例えば「心神耗弱」な状態にあるときの意志確認。
「うつで無気力」な場合は、死ぬことしか考えられないときだってあるよ。
(個人的に経験してるけどね。)でもそれって、(たとえ家庭とかの事情がある
にせよ、そこまでになるのって、)心的な病気の症状としての希死念慮とも言える。
だから、精神科救急とかいのちの電話がある。一時の気の迷いで死のうとして
しまうのを止めるために。(統合失調症や薬物依存の人の経験なんかも参考に
なるよね。妄想に追いつめられて死にたくなる。そんな場合は意志確認は
意味をなさないんじゃないかな?)
逆に、尊厳死とか脳死とかの場合は、そういう「死ぬたくなってる状態」での
意志確認は行わない。正当な方法での、「ハズレくじ」対処法だよね。
超低体重児出産とか、出産直前まで障害がわからなかったとか、そういう
「親も子どもも『ハズレくじを引いた』と思いながら生きる期間が長く
なりそうな状態」
を避けつつ、
「優生思想に凝り固まってデザイナーベイビー作りしちゃうとかいうような、
ようにする。で、しかも、
「医療・福祉の費用で、赤字国債が600兆円なんていう日本のダメ国家財政
を悪化させない」
とするには、どうしたらいいのかね。
自分的には、
・増税、
・障害者雇用(そして、ちゃんと生活できる給与体系)の確保、
を国がやるしかないと思うんだけど(だいたい、法整備とかしない限り、
民間企業とかが資金援助とか雇用提供とかするはずない=法による強制が
ない限り、どんなに福祉行政やNPOが啓蒙活動したってだめ)、どうなの
かな?
ども。 http://anond.hatelabo.jp/20070325045711 を書いた者です。
「自然淘汰を加速」っていうけど、それってデザイナーベイビーとかを
作ろうってことかな? 今生きてる障害者とか介護必要な老人とか、
いわゆる「生産性の低い人たち」は「いらない」ってこと?
冒頭のエントリーで、自分は「超低体重児を育てるのは大変だから、育てるのが
大変な障害児が生まれる可能性をチェックして該当すれば堕胎、ってのと
同じようにできたらいいのにね」という趣旨の文を書いた。
じつは同じ立場として扱われたらちょっと個人的に嫌かなと思って書くんだけど、
上のように書いたのは、「生産性の低い人たちがいらない」という
考えからではないです。
だって、生産性ってだれがはかるの? 「おまえ仕事が遅いし使えないし、
ろくに勉強してないから、この案件ほかの奴に頼むことにしたわ」とか
まあ、生まれ育つのに、あと、死ぬまでを生きるのに、標準よりもやたら
お金がかかる人たちっているよ。でも、前のエントリーにも書いたけどさ、
「障害があることと、幸せになれるかどうかということとの間に関係はない」
んじゃないかな。もしあなたが健常者ならさ、こう言い換えてみようか。
「ある特定の仕事ができないことと、社会人生活を幸せに送れるかどうか
ということとの間に関係はない」
そうじゃない?
これは本人もそうだし、本人をとりまく人たちもそうだと思う。まあ、
困難はあるかもしれないけれど、乗り越えられる場合だってあるし、
乗り越えられない場合は、運が悪い人生だったんだろう。(身近なケース
なら、「日本に生まれてなければ」とか、「男/女に生まれてなければ」
とかいう場合、運が良ければ、前者は海外へ引越し、後者は性転換手術
で解決できるようになってきたよね。ここで言う運はお金とイコールかも
しれないが....。)
なのに、国家というやたらめったらマクロな視点から「『弱者』は
財政問題の要因となるので自然淘汰されるべき」って言っちゃうのは
どうなの? 国民主権なんだから、国民の福祉にも目を向けたほういい
はずだよね。
もちろん、この意味で、「尊厳死を選びたい」とか、「脳死だったら
臓器提供したい」とか、「高齢出産になるんで、できたら体外受精
の際には『いい』卵子だけ選んで、着床以降、障害児とわかったら
堕胎したい」とかいった「選択肢」を残すってのは、いいと思う。
とはいえ、やっぱ超低体重児の出産は問題だよな。「合法的に命を
絶てない」じゃない。尊厳死なら本人の意志がわかるけど、超低体重児
の場合は本人の意志確認なんてできないからね。つまり選択肢がないって
ことになる。(これについてはまだ不勉強なんでもうちょっと勉強
してから改めて書こうと思う。って、便乗してごめんなさい。)
http://anond.hatelabo.jp/20070322150852
間の人は専門的なことがわからないクライアントと、専門家であるあなたとの間に立つ翻訳家であったり調整役にならないといけないですよね。
がんばってください。
クライアントの要望でデザインを直す必要が出てきたのだが、クライアントと自分との間の人の指示が下手でイライラさせられる。
人物の足の間から背景がのぞくのはダメ。という要望を「股の下のこれとこれを消してください」と伝えてくる。その指示だと「これとこれ」が悪いのか「股の下」が悪いのかわからないから、他の部分の修正で「股の下」に影響が出た場合に悩むわけで。
他にもクラ:「このマークをどこかに入れて欲しい」→間:「このマークをここかここにいれてください」とか。場所は間の人が自分で考えたらしい。「こことここがおさまりがいいと思って」いやそれ検討するのデザイナーだから。
デザインと言うのは理由の積み重ねだと思っている。設計と同じだ。なぜそうするかを考えながら作業している。勝手気ままに配置してるように見えるのかもしれないけど、案外頭を使っているのだ。
だから理由がわからない指示をもらうと頭と手が止まってしまう。ジェンガのごとく慎重に積み重ねてきたものが一気に崩される。
指示の前に理由を出してほしい。クライアントが「なんとなく」と言ったならそれでもかまわない、それはクライアントだから仕方がない。だが内部の人にまで理由なき指示をもらういわれはない。理由を伝える手を抜かないでくれ、でもあんたが考えて下手に手を入れないでくれ。クライアントの要望をゆがめないでくれ。
http://anond.hatelabo.jp/20070314123833
クリエイターでもあると思うよ。
建築家でも、プログラム系の人でもそうだけど、下請け設計をする人をクリエイターとは呼ばないよね。
元受がなく自律行動をする人をクリエイターと呼ぶような気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20070314114159
おっしゃられるようにデザイナーと言われても
色々な方がいらっしゃると思います。
そう世間の職業を見てしまったのは、自分の間口も狭かったですね。
すみません。
SNSの件は、実は自分もたまたま会社で「Webサイトを考えてくれ」と言われたもののどんな風に作成していいのかわからず、知人がそういうSNSに参加していたので参考にと思ったのですが一蹴されてしまって以来、偏見がついてしまったのかも知れません。
日頃から思ってるコトを書いてみる。
自分はフツーの会社員です。
カタカナの洒落た職業じゃありません。植木等の歌に出てきそうな典型的な会社員です。
フォトショ使えません。
イラレ使えません。
キャンパス使いません。
楽器弾きたいけど下手です。
絵描くのは好きですが下手です。
でも、いろんなデザインを眺めたり自分で考えてみるのは好き。
アーティストとデザイナーを一緒にするつもりはないんだけど、ああいう人たちは一般人を排他するような目で見るのだろう。
間口が狭いというか、オープンでないというか。
あるクリエイター系SNSに入ってみたく招待状を下さいと親しい人にお願いしてみたが。
「君は一般人だし、そういう職業に就いてない人は招待できないよ」
と言われた経験がある。
そういう職業てなんだ?
そういう職業って。
クリエイター系って偉いのか?
貴族か?
そういう職業の人に限って一緒に飲むと「デザインがさー」、「あ、デザイナーの方ですか、お互いコラボできませんか?」、「アーティトって・・」「イラレで加工して・・」「モリサワが・・」「SOHOで・・」「XOOPSが・・」「CSSが・」「セッションしません?」「いや、あのサウンドはね・・」「Macで・・」って話が出てきて。蚊帳の外にされててしまう。
特にこういう人等(自分が会ってきた中では)はMacの話に目がない。Macを使ってるから会社員の君とは住む次元が違う・・ってな顔をされる。
いや、Macぐらい知ってますよ。
Macぐらい。
普段はWindowsで仕事柄、自宅でMacはUNIX系OSサーバとしてTerminalからしか使ってないけど・・。
SmallOfficeHomeOfficeって。
そこで「普通の会社員ですけど、そういうのも興味ありますよー。」って答えたらなんだか会話が止まって蔑まされた目で見られる。
「●●(陶芸、作曲、小説、建築・・)家です」「●●デザイナーです」「アーティストです」「ライターです」とか最初に言うと目の輝きがお互いに違うのに、「会社員です」って言うと「はぁ・・そうですか・・」という目で、その後の会話が弾まない。
こちらか話を振っても「はぁ・・」「そうなんですか・・」とか興味なし。
勿論、アートとデザインって、それぞれ根本的な部分で違うのだろうけど。
共通するコトは「自分たちは、会社で働いていてもSOHOでも、肩書きは会社員とは違う」という見えないフィールドを張っているというコト。
彼等が叫ぶ中でそうも聴こえる。
デザインを色々見たり自分でも作ってみたいと思っていたりはするのだけど、デザイナーは嫌い。
アートを見たり参加したりするのは好きだけどアーティストは嫌い。
なんか自分がこういう態度じゃ余計ダメなのかも知れないけど・・・。
なんで、ああいう人たちは間口が狭い考え方をするんだろう。
中卒の人で思い出したのだが、俺は少し家具職人になってみたいし、日本食の職人になってみたいし、家庭料理の店切り盛りしたいし、湯飲みとか作りたいし、和紙職人なんかも憧れるし、炭作ったりして陶芸しても悪くないよなと思いつつ、漆塗り職人なんかどうだろうなんて思って、デザイナーやテーラーの叔父さんにもなりたく、サヴィルロウで一生を働いてみたい。靴職人にも憧れる。鞄だって作りたい。あぁ、鞄を作りたい。鞄いいな。
なんて考えるのだが無駄に何かを背負っている分、これを捨てられるわけもなし。
まぁデザイナーとなると中々勉強も必要だし、料理だってそうだろう。でも所謂徒弟制度を組む奴ならいけるのではと希望を抱いたりする。実際は無理なのだろうか。まぁ無理ってことはないだろうが。なせばなるなさねばならぬ何事も。
鞄か。鞄か。
先日、彼女と彼女の知り合い男性2人、女性2人で小奇麗なお店で呑んでた。
彼女以外は皆初対面。
某国立大を出て某有名私立大学の院を卒業して医療免許を取得した男。
なんかね、会話が入れないんですよ。違うんですよ。
「院(大学院)がね・・」「あの大学はね・・」「いや、医療の現場ではね・・」「修論がね・・」「あの先生知ってる・・」「哲学ってのは・・」「このデザインはね・・」
その場にいるのが申し訳なく思えてきた。
俺は知的な会話ってのができない。俺の大学名なんて出しても誰も知らないし「なに?その大学?」なんて蔑まされた目で見られるに違いない。
会社名を出しても誰も知らない、それよりも成功者としての彼等の中にいるコトがすごく恥ずかしくなってきた。自分が如何にアホなのか晒されてる感じだ。
ここで頭の回転がよくて学歴と社会的地位があればペラペラと色々ついていけるのだろうな。
すぐ出て行きたかった。バカな会話と下品な下ネタを笑って話しながら、京橋の立ち飲み屋か、新宿の思い出横丁とか白木屋かなんかで冷凍ピザと安い焼酎を呑みながら時間を忘れる方が似合ってるのかも知れない。
明らかに他の言葉が出てないのがよくわかる。
「そう」かよ。
「そう」だけかよ。
「いいひと」なんて某漫画の主人公レベルなら本当に良いんだが、「そう」だもんな。
他に取り柄もないもんな。仕方ない。
そう思って気付いたら自分ってすごい小さな人間だなと恐縮してきた。
こんな知り合いがいる彼女が何故俺を選んだのかもよくわからなくなってきていた。
明日、彼女を親に紹介するんだけどなんだか嫌になってきた。