はてなキーワード: デザイナーとは
プププー、最後にお茶漬けにすると美味しいですよ? ってそれは「ひつまぶし」だっつーの!!!!っっw ぎゃはははh!
さて、本題なんですけど、「今、やっている仕事、辞めたらどうしよう。つぶしが利かないよー」
と、自嘲気味に語るヤツが多くなくなくなくない?
「この仕事は特殊だから」とか「この仕事は他の業種では通用しないだろう……」
とか何とか言っちゃったりしてさ、別にそんことなく、
他の触手……おっと、他の職種でも全然転用できるような気がするんだけど。
「汁男優とかつぶしきかないだろ!」って反論されそうですが、そういう
例外はなし!(きょ、極端だなぁ……)
たとえば、CDのジャケットデザインを専門に仕事しているデザイナーが
「つぶしきかない」とかいいやがるんですよー。
あとプログラマー? SEの人……とか、フォートランとかコボルト(だっけ?)とか古いプログラミングしか
修得していない人も「つぶしが利かない」とか言うけれでも、
だったら、アリゴリズム体操とか、その手の職につけばいいじゃん!
なんつーか、その「つぶしが利かない」と言っている椰子って、
「今の仕事、職場は不満で今すぐ辞めてやりたいけど、辞める勇気ないし度胸ないから
とりあえず、周りに『つぶしが利かないからしかたなく続けているんだよー』ってアピールしてやるか!」
みたいな感じがするんですよね。皆さんはそこのところどう思われます?
元増田です。
まさかこんなに反響を呼ぶとは思わなかった。読んでくれた皆さん、ありがとう。あ、ちなみに自分は文系です。ただし理系的な方面にもかなり興味がある文系ではありますが。
面白いと思ったのは
http://anond.hatelabo.jp/20070801202401
の文章です。ただ僕は
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」
と主張する一般の学生について考えているわけで、実際に「教科の勉強で身に付かないものを持っている」人間というのは「一般人」の領域を逸脱しているかと。私が話しているのは「自分には何らかの『個性』があるのだから、学歴で人を差別するなと主張する、教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間」であって、すでに開花した、あるいはその片鱗を見せる才能をもった、つまり本当に「個性」を持っている人間のことではありません。持っていないのに「万人に個性が存在する」と考え自らの偽りの個性を主張する人を、私は前提としているわけです。
人物に個性を与える「才能」というのは、たとえば小説家や映画監督、デザイナーなどなど、その能力を生かせる「天職」といえる職業を持てた人間にとってやくにたつものです。もちろんこの中には氏の言うとおり早熟な方(プログラマーなど)も入ります。けれども高校生までにそんな自らの才能を発見できる人間なんてほんの少数でしょう。僕は大方の人間は高校卒業までに何らかのオリジナリティ(=得意技能)を確立することは不可能だと感じています。オリジナリティや自分の得意技能は高校生活まででは発見できない。もちろん大学生活で発見できるのかと言われればそれまでですが、大学生活というのはある意味「自己責任」という側面が強いですから、そこの時間を活用してそれを見つけなくてはならない、というのが本筋でしょう。高校生活まではその大体の方向性というのを科目における勉強や普段の生活で見つける場、だと思います。そして大学生活はそれをさらに細分化させ、飛躍させ、煮詰めていく場ではないかと。東大が現在も教養部制を続けているのはそのためであると理解しています。
天才プログラマーはなぜ自分がプログラミングの才能を持っていると気がついたのか?もし気がつかなかったら?それこそが「一般」であり、早期に気が付いてしまうほうが「まれな例」(しかし非常に幸福な例)であるといえるのではないでしょうか。
ちなみに、僕だっていわゆる「アホ」な会話をしないわけではないです。もちろんそういう会話だってするし、お笑い的なものを楽しむ。僕が言いたかったのは、彼らの間ではそもそも言葉を使った「会話」というものが成立していない点。まあ、これに関しても議論はあるだろうから、僕の意見を改めて書く必要はないでしょう。
この際もうひとつ言ってみると、最近の若者は(自分を含め)語彙がかなり不足していて、そのせいで自分の感情をきちんとうまく表現できない、ということに苦しんでいるのではないかと思います。メールで絵文字を使わなくては自分の気持ちを正確に表現できない、あるいは会話で「ヤバい」など複数の意味を持ちうる単語を多用するなど、文章自体の簡略化が進んでいるためにこういったことが起こるのか、あるいは根本的な知識の不足がこういったことを招いているのかはわからないけれど、とにかく「ボキャ貧」と呼ばれる現象はますます深刻になっている。こういう用語を多様したとき、会話中であればある程度は文脈で判断できるけれども、非常に意味がぼやけてしまうため、はたして自分が言いたかった内容が相手にきちんと伝わっているか認識できない。つまり言語の運用能力が著しく低下してしまっているのではないか、と思うのです。言葉は難しい。
この世には音声読み上げタイプのブラウザがあってだな。皆がみんな、同じ画面見ながらネットサーフィンしてるわけじゃないってこと。
それは
なんだよ。
あるいは帯域はすでにボトルネックで無いのだから可視のドキュメントと不可視のメタデータを分離するとか。
ライターとデザイナーとコーダーと全部専門職で分業するよりライター・デザイナーと画面読んでメタデータ作るバイトくんの方が生産性が高いと思うんだけど。
このようにand条件を増やしていくと作業負荷は指数的に増える。
ゆえに日常で進捗させるためには各条件をorにすることが必要。
とか?
の「G」って、あの「G」かと一瞬本気で思ってしまった、2007年夏。
「太郎」とか「ホームステイ」とか「クロちゃん」とかいろいろ呼び方あるよね。
「Gがこんなにすごいなんて…!!」←それもちがう
あのさ、HTML+CSSっておかしいんだよ。もちろん表でしかないtableでレイアウト組むのがもっと変だけど、スタイルシートでデザインってのも所詮ワープロのスタイル機能でしかないわけで。
GデザイナーにMSWordでかっこいいフライヤー作ってくださいって言ったらすっごい嫌がられるでしょ?ボク忙しいからポータルZの挑戦ネタはよそに頼んでよって。
それはマイクロソフトに恨みがあるとか使いたいフォントが無いとかそういう脇の理由じゃないんだよね。
自由に使えないから。自由なデザインはヘッダーとか見出しとか本文とか勝手に決まってないから。デザインを思いついてそれをWordの形式に再解釈しないといけないなんて二度手間はおかしいでしょ?
そう、Webでは未だに表現作業の大部分がUIで処理されずコーディングとして外部に残ったままなんだ。これは汎用メディアとしては失敗だとはっきり認識しないといけない。
そういう意味では抽象概念でなく「見たまま」のtableが妙に粘っているのも理解しやすい。
あまつさえ構造化された内容とデザインを分離したって、実は最初っからデザイン否定なんだよね。
上手いとか歴史に残るデザインってのは内容を表していたり複雑な関係をデザインで一つにまとめたりと抽象化とか還元とかそういう作業をして「きれい」「テーマがわかりやすい」「印象深い」ってなるんだよ。だからCSSとか策定してる人たちはデザインを理解していないんだとおもう。
あくまでWebの仕組みはワープロで、ワープロでできる範囲で見栄えよくするにはアレコレソレの工夫がある世界。
あまりにも出来が悪いからデザイナーが1日掛けて絵を起こしてHTML技術者が1日掛けてワープロのスタイル機能で全部表現しなおそうとしてる最初から失敗した世界。
プログラマ崩れでない素のデザイナーというのはセンスは良くてもあまりオツムはよろしくない。弁も立たない(黙ってるか意味不明のことを叫ぶか)。だからネットであまり発言しないが、問題はそびえたつクソのように巨大だと思う。
横文字にするとなんだかカッコイイですよね。
世の中で特別な存在なのだと思っていた時期がありました。
常に新しい価値観を生み出し続け、
皆があっと驚くようなアイデアを見せ、
自分の作り出すものが凄ければ、
センスを研ぎ澄まし、
常に圧倒するような完璧な物を作り続け、
自分が納得のいく所までこだわり、
自分の力と作った物で皆を動かさねばいけないと
思っていた時期もありました。
自分はデザインだけを考え、
デザインだけに集中し、
デザイン以外の事を行うのは悪と考えていた時期もありました。
そんな考えも、今思えば非常に恥ずかしく、
もし、タイムマシンがあれば、
過去へ行き、そんな自分に酒でもオゴりつつ、
色々と、ゆっくりと話をしてあげたいと思うようになりました。
なんだかんだで、僕はプロとしてデザインでお金を貰い始めてから
6年ほど経ちました。
まだまだ視野は狭いとは思いますが、
それでも、上に書いたような事を考えていた時よりは、
よく物事が見えるようになってきたかなと思っております。
久しぶりに深夜にテレビを見ていると、
素晴らしいデザインの製品やアイデアなどが取り上げられていました。
画面の中のはなちゃんは、興味深そうに製品にコメントをしていました。
でも、僕はあまり興味を感じることは出来ませんでした。
リアルさというのが感じないというのか、なんというのか、
非常に奇妙な感じがしました。
こんなものは自分の好みもあるのかもしれないので、
偉そうなことは言えませんが…。
僕は仕事に対しての考えのひとつに、
という妙な意識を持っています。
そもそも「仕事」って何でしょうね?
僕は、仕事というのは、必要とされているものに対してサービスを行い、
その代価として報酬を頂くものだと考えております。
それは人間が相手であったり、世の中が相手であったり、環境だったり。
報酬というのも、お金であったり、スキルであったり、経験だったり。
求められている事に最大限に応えてあげる。
そんな事だと思うんですよね。
相手が何を求めているか、何に困っているのか、何を知りたいのか、
そして何を伝え、何を形にしたいのか。
この「何を伝え、何を形にしたいのか」、
という要望に対して、クライアントや、
最大限のサービスで応えてあげているんだなぁ、
と思うようになりました。
クライアントの伝えたい意図をどうやって伝えるか?
今は、デザインというのはあくまでも手段。
自分の手持ちの武器のひとつと考えるようになりました。
案件次第ではデザインをしない時もあります。
その方が妥当だなと思うからです。
でも、それで仕事がまわり、
クライアントも満足し、
お客様も喜び、
世の中がちょっとでも良くなれば、
それでいいんじゃないかと今は思っています。
そう考えると非常に気楽というか、
変なプレッシャーというのが無くなった感じがして、
非常に精神的にも肉体的も楽になり、
非常にこのあたりの意識があいまいです。
アートとビジネスの狭間を行ったり来たりするからだと思いますが。
だからと言って、日頃のデザインのセンスや力を養わない、
ということでもありません。
必要な時に期待に応えられないようでは、プロではありません。
でもこういう考えって、
飲食関連等に代表されるようなサービス業と言われるものだったり、
みんな同じ考え方だと思うんですよね。
相手に対して最大限のサービスを行い、満足をしてもらう。
満足をしてもらうには自分には何ができるのか?
演出したり、根回ししたりしてスムーズに流してあげる。
もしくは情報自体を考えてあげる。
というようなサービスを行っている気がしますね。
これもあの番組のせい…、なのかな?
この日記も10年後の自分が見たら、
きっと恥ずかしいと思うのでしょうね。
あ、最後に、コミュニケーションスキルと対人術と会話術。
それと相手に対する思いやりと愛みたいなものと義理人情。
これが仕事で何よりも大事なものだと思いますわ。
Adobe CS3を入れた。こりゃ駄目だと思った。
自称ロサンゼルスのデザイナーみたいにタダのソフトがあるからアカンワとかお母ちゃん並みのことを言いたいのではない。
PhotoshopもIllustratorもまあ、いい具合に仕上がってる。
プロのツールだからマウスでポイント引っ張って操作する所の挙動のチューニングなどはとてもありがたい。地味だがそれだけに金を払える。アフィ乞食がブログで伝聞と嘘を書くだけと違って1日1万回以上のクリック、3km以上のマウス移動をするのだ。それぞれのストレス軽減は「金になる」。
マーケティング的に必要なのかもしれないが機能の増加は金額に見合うかどうかわからない。工数はかかってるんだろう。でも要らないよ。それよりバグとってよ。
まあ、そんなアップグレードのシーンは日常であるのでいいのだが、最大の問題はやはりMacromedia製品とAdobe製品の統合である。
結論から言えば「統合」できなかったらしい。ユーザー数の多寡という小学生並みの多数決原理でバッティングするソフトがあるものは生き残り、あるものは消え去る予定のようだ。
名前のどちらかが消えるごときはいいのだが、せっかくの合併なのになぜパッケージのみならず違うチームの資産たるコンセプトやアイデアまで捨ててしまうのだろう。
キャッシュフローしか見てないマネージャーには分からないかもしれないが、あれだけ肩身が狭くともGoLiveを使ったのには理由があるからなのだ。Photoshopのおまけ扱いでもImageReadyの機能がワークローに既に組み込まれてそこにあるんだ。そういうリアリズムは商売人なら門外漢でも分かったもんだが、すでに椅子に座ってるのはサラリマンでしかないということだろうか。
どっちか残すなんて合併などせずとも元の両社がそのカテゴリから撤退すれば済んだことではないか。それで社会資本的にもロスが減る。でもそれだけだ。アドビのマネージャーたちが合理化と称するのはサルにでもできる椅子とりゲームでしかなかったわけだ。
10年以上前、ソフトウェアの会社からはコンピューターはこう使うんだぜと凄いディレクターと天才プログラマーが一緒になって俺たちにその知的再生産のための魔法を変な匂いのマニュアルとあっけにとられるフロッピーの束とともに売りつけてくれていた。
今は何も知らない能無しのスーツが目の前で札束を数えながら預かった畑を掘り返し、アスファルトで舗装している。
もうそこには二度となんの果実も実らないのだ。クソボケが。
CSS Niteが、人のなまえなのか組織の名前なのかなんなのかすらまだわかっていない。
とりあえずぐぐってみて一番うえに来たページをあけてみたんだけど、
違うやつなのかな?
よくわからないけど、CSSデザイナーって存在を始めて知ったよ。
デザイン外注することはあるが、そんなキャッチコピーで売ってるひとみたことない。
どこにいるの??
デザインというのは工数です。工数ということは予算です。デザインというずいぶんと大雑把なカテゴリに予算が付くとデザイナーが仕事します。
予算をかければ概ねよいデザインが得られます。大抵のものはデザインを再検討する余地がありますが、大抵のものは新規、再検討含めて予算が付きません。
勤めでデザイナーやってる場合と違って、独立開業したデザイナーは技術やセンスだけではない総合力を求められるよ。なので、しゃべり上手は商売では得だよ。
本当はデザイナーとしてはしゃべり上手は野暮なんだけどさ。しかしそれが実際の所だよ。
夫婦で仕事やってる場合はだんなさんは職人で奥さんがマネジメントやってるとかあるよね。
ところで、ブランド物の服とかってブランドのロゴ意外に何を有り難がってるのか良くわからない。
誰か説明して。
もうユニクロでいいじゃん。
まぁね。プロダクトデザインのデザイナーとかって小綺麗な建物の一室のPCの前でデザイン考えてるイメージあるな。
かたや職人は気が短くて怒るとすぐ物が飛んで来るとか、技は見て覚えろって見習いに言っておきながらなかなか見せないとか、気難しい感じするよな。
あー関係あるかどうかわからんけど
デザイナーという職業の人、特に独立して事務所をかまえているような人たちを見ていて、この人たちの人より優れている技能は物を作る力ではなくてしゃべり力なんではないかと思うようになった。実際に出てくるものがしょぼいという意味ではなく、前段階での提案力や根回し力が審美眼より結果に影響するという意味で、彼らはやりて営業マンなんだなと。職人タイプも中にはいるけど、たいていはあまり良い目を見ていない。
仕事なんかでデザイナー志望の子に会うと、増田にも書かれるようなモノ作りへの情熱というかピュアネスを感じて素晴らしいなーと思うのだが、同時にそれはあんまり君がやっていけるかどうかに関係ないんじゃないかなーみたいなことを言ってしまっていいものかどうかいつも悩む。
http://japanese.engadget.com/2007/06/18/google-book-search/
帰宅したらリアルGoogleBotが勝手に引き出しを開けている場面に出くわす前に一度はっきりさせておいたほうがいいかもしれません。
確かに、招いたはずの無いリアルBotが勝手に引き出しを開けていたらそれは怖いだろう。
だが、自らが進んで受け入れた存在なら?
Googleは、これまでも有用なサービスと引き換えに、我々からさまざまな情報を引き出している。
現実のすべてをDB化しようとするGoogleにとって、利用者が受け入れてくれるリアルBotの必要性は、将来ほぼ確実な物になるだろう。
どうしたらユーザーはBotを受け入れてくれるのか。サービスを提供すればよい。Webと同じだ。
メイドロボは、料理・掃除・洗濯等の雑用をするというサービスを提供する。
その目と耳は、見聞きした物を、イメージあるいはビデオ情報としてGoogleのDBに記録する。
その手は触れたものの重さや感触、温度などをデータ化してGoogleに転送する。
その足は、歩いた記録をGoogleMap/Earthに提供する。
脳(人工知能)は、タグ付けを自動的に行う。もちろん、学習機能もちゃんとついている。
そんなものを受け入れる人がいるはずがないと思うだろうか。
だが、これでデザイナーが良い仕事をすれば、少なくとも日本には数万から数十万単位で欲しがる人がいるはずだ。ましてやそれが無料(ないし安価)なら。
まあ僕は Wikipedia を Wiki って呼ぶ人の中にわざわざ割り込んで忠告することはしないよ。でも、
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B3%D8%B2%F1&kind=jn&mode=0&kwassist=0(左のほう)
Wiki記事
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B3%D8%B2%F1&kind=all&mode=0&kwassist=0
これはなあ。Wikipedia と Wiki は異なるものなのであって、ただのにちゃんねる検索を「掲示板検索」と銘打ってるようなものだ。別に個人でやるなら勝手にすればいいと思うけど、企業がこんな半端なことやっていいのかな。Wikipedia のことを言ってるのか Wiki のことを言ってるのか、「Wiki」という言葉だけではろくに判断できなくなっていってしまうよ。辞書という言葉を扱うコンテンツでこれはないと思う。
参考リンク
http://anond.hatelabo.jp/20070530163858
http://internet.watch.impress.co.jp/static/yajiuma/2007/05/31/
http://stick.goo.ne.jp/bookmarklet/(http://stick.goo.ne.jp/bookmarklet/img/0326_image2.jpg)
フリーランスとか考えたこともあったけど、まわりに近頃微妙な人が多くてどうも独立する気が起きない。
『いいよー。好きな仕事ができるし!』
『会社員より全然金もいいよ!』
って、フリーランスでやってる友達に甘い言葉はいわれるんだけどー。
でも、仕事を選べたり、ちゃんと本当に好きな仕事しかしてないフリーの人って全然少なくて。
もちろん、大成功してイラストとか好きなことだけやってる人もいるんだけど、実際には
「たしかに手取りのギャラはいいけど、ボーナスその他福利厚生入れたら俺のほうが全然よくないか?」
「あんなに『これからは好きな仕事だけするぜ!』って希望に燃えて独立したのに単に下請け?」
などなど。
『生活』ってあるし、好きな仕事だけやって生きていける人なんてほんの一握りなのはわかるんだけど、そういうのを見るにつけ、会社員とはいえ、10年かけて好きな仕事ができるように社内で立ち回ってきた俺は相当恵まれているのか、とか思い、独立気分がどんどん萎えてくる。このまま一生この会社の会社員なのかもしれない。
デザインも1人のデザイナーの手によるという。「リロードするたびに変わるロゴ左のアイコンは、誰も頼んでいないのにデザイナーが『適当に作ったよー』と200種類ぐらい作ってきた」といい、1個作るのに5分かかってないそうだ
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0705/11/news117_2.html
動画システムをひとりで一週間で組み上げるってどうなってるんだよ?とか思う。
いや、作れなくもないけど……。
いや、やっぱムリだわ。