はてなキーワード: オリジナリティとは
これから書くことは、あまりにもシンプルで、誰かがもうすでに書いてるんじゃないかと思う。
けど、今朝こんなの(※1)がホッテントリ入りしてるのを見て、なんでこんな誰も使えないようなくだらないテクニックがもてはやされるんだろうと疑問に思ったことだし、一つ書いてみることにした。
これ一つだけだ。
あらゆる文章について、この「繰り返しを避ける」という言説を当てはめて、文章をより良いものにすることが出来る。それは何も難しい事じゃないし、誰でも、今からすぐにできることだと思う。
ひとつの文の中で同じ言葉を何度も使わないことはもちろんだが、もう少しこの法則について吟味してみよう。
まず、へたくそな文章を書く人の大半は、
なのである。よく見かける、「~だ。~だ。」の一本調子では、読んでいる方が疲れる。もちろん、新聞のように厳しく字数制限がある場合は節約の必要もあるだろうが、特に字数を気にしない場合、「~だ。」をアレンジし、「~であった」「~なのだ」などといろいろ使い分けることで、簡単に同じ言葉の反復を抜け出すことができる。もちろん、慣れてきたら、体言止めや時制などにも気を遣ってアレンジしていくと良い(※2)。
次に、へたくそな文章の特徴として、
ということも挙げられよう。
森博嗣大先生なんかこれがひどくて、いま手元にあった「カクレカラクリ」をひもといてみると、
「○○○○」○○は言った。
「○○○○」○○は言った。
「○○」
「○○○○」○○は叫んだ。
とこんな表現がいくらでも出てくる。いくら量産が必要な人気作家でも、これはひどすぎやしないだろうか? 異常ですらあると思う。いくらストーリーが良くてもこれでは興ざめだ。だから、短い文はできるだけ目立たないように、それでいて、自分の主張を特に強めたいときだけに使うとよい。基本的に短い文は強い印象を与え、なおかつ文中でよく目立ち、一方で長い文はその内容の印象を薄める効果があるからだ。それゆえ、長い文を書いた上で、短い文でダメ押しすると強い。Yes, we can.
あとそれから、
のが吉だ。とくに故事成語はヤバイ。こういう言葉は、日本人なら何度も何度も小さい頃から聞かされているから、たとえその文章全体の中で初めて使われたとしても、一気になんか古くさい、繰り返しがまた来たという印象を与えてしまう。これも「繰り返しを避ける」原則の発展としてとらえることができるだろう。
まあ考察は面倒だしそれくらいにしておいて、あとはTips的なものとか、個人的好みの話とか。
ことも大事だよ、ってことを忘れないで欲しい。読点はダテについているものじゃないのだ。本田勝一が「日本語の作文技術」で読点の付け方について、章を一個割いてクドクド説いているのも、当たり前のことだが、理由がなくてやっているわけではない。へたくそな人は、読点をどこに入れるかを全く意識しないから、結果として文章は読みづらく、陳腐に見えてしまう。
ってのもやっぱり大事だ。頭の中で良い。実際に読むスピードで、自分の書いた文章をもう一度読み直すこと。向田邦子は自分の小説だか台本だかを執筆しながら朗読して、それをテープに残していたらしい。そこまでする必要はないと思うけれど、そういう姿勢が大事なのは確かだ。音読してひっかかるような文章を書いているのはよろしくない。
さらに主張しておきたいのは、
ということだ。よく「自分の言葉で書きましょう」なんて事をいけしゃあしゃあと抜かすヤツがいるが、自分の言葉なんて、そんなもの元からありはしない。どんな大作家だって、誰かに影響されて、それが少なからず現れながら文章を書いている。「作文は借文」、この原理原則を忘れずに、出来るだけ素直に、努めてわかりやすく、相手に「自分の心のイメージを、相手のわかる形で伝える」こと。オリジナリティなんて言葉にだまされて変な表現を使ったら一気に興が冷めてしまう。ましてや自分が「これは名文が書けたぜウッシッシ」と考えたりしたことがあるなら、猛省して欲しい。もちろんこれは自戒も込めて。オナニーした後の紙は、ゴミ箱へ捨てるのが常道だ。こびりついた精液を他人様に見せてはいけない。何も、肩を張らなくてもいいのだ。あなたが語った時点で、その言葉は「あなたのもの」なのだから。
最終的に、
ということも忘れないでおくと、相手に自分の心が伝わる、良い文章が書けることだろう。いつでも文章は「書き飛ばせる」ようなものではなくて、努力と苦悩の果てに成り立っている。良い文章が書けなくて苦しんでいるのはあなただけではないし、苦しまなくなったときが、まさに文章を書く人間としての終わりなのだ。どうやったら自分のイメージを、誤解なく、ありのまま伝えることが出来るだろうか? そのひたすらの煩悶が、文章を成長させてくれる。だから、へたくそでも、伝えようという意志を必死で込めることで、相手にその熱意は伝わることだろう(もちろんその熱意を期待してはいけない! 文章を書くことは常に「伝わらない」恐怖との戦いだ)。
(そういえば、読点が多いという指摘があったが、全くその通りだと思う。どうも自分は読点が好きすぎる)
※1:http://www.lifehacker.jp/2009/10/091005writingtips5.html
※2:ただし、よくちまたで言われているように、体言止めはなるべく避けた方がよいのは確かで、その理由は、強く言い切る形になり、語調に与える影響が大きいからだ。従って、原則として使わないという指針は間違ってはいない。間違ってはいないが、体言止めという手法がなぜ存在しているかと言うことも考えると、どうしても必要と信念が訴えるならば使うことになるだろう。もちろんそうやって、みんな失敗するのだ。
今朝の朝日新聞で森巣博とかいうのが書いてるけどさ、(ま、この森巣ってののオリジナリティ溢れる文章とは思えないから、ただの例に過ぎんが)
近隣トラブルとか、上司や同僚と折り合いが合わなくてとか、家族関係が悪化してって方向で自殺している連中が大勢いるだろうに、政府とか政治は関係ねぇだろう。
近隣トラブルで苦しんで法律相談所なんていっても、法律は多くの事例に無力よ、だけどそれは「法律ってのはどうあるべきか:日本版」で決められたものであって、政治が関与しちゃ拙いことなわけだろ。
逆にそういうところには作家として森巣とかいうのが何をしたんだ?
「人生に絶望した人、私の小説を読んでみてください。ひょっとしたら、生きる気力が湧くかもしれません」
て方向の努力をしたのかよ。法律相談所やハロワに積んでおくとか、「命の電話」に「勧められますかね?」と意見を求めるとか、そゆこと。
天下一品の本店のある京都では、わりと店舗ごとのオリジナリティがある。
スープの味も、これは本社から送られてきたスープそのままだなという店と
独自の味付けをしている店がある。
たぶん、その程度の裁量は店によって許されているんだと思うが、やはり基本の味から
遠い店はすたれていく傾向にあるようだ。 五条桂店なんかがそんな感じ。
トッピングやサイドメニューも店によってさまざまで、四条の京極店みたいに
ラーメンと餃子くらいしかありませんみたいな店から、二条城駅前店みたいに
定食メニューがめちゃくちゃ充実した店もある。
元増田と同じく、絵柄が違いすぎて別人なパロしてる作品の価値が全く分からない腐女子が以前ファンに返された言葉を教えますYO!
「XX(サークル名)のパロって、何やっても絵柄同じだし、顔同じだし、下手すればエロシーンなんて全く同じなのに、なんでジャンル変えても買ってるの?」
↓
「ストーリーと絵柄はその作者のオリジナルなんだから、ファンはそれを目当てに買ってる。パロ元がなんでも関係ないよ。
同じ展開ばっかりっていうけど、それがオリジナリティでしょ?他のエロシーン見たかったら、そもそもそこの買わない。
それに、原作に絵が似てたら、それはトレースとか模写っていう。原作似の絵が見たかったら、原作読んでれば良い」
以前からミクシイきもいミクシイきもいと、はてな界隈や2ch界隈で言われていて、
なるほど確かにきもいなと納得だったのだが、それは単なる内輪の馴れ合いのきもさだと思ってた。
しかし、どこかそれとは違うきもさを感じてもいた。
このたび、そのきもさの正体がようやっと判明した。
つまり、ミクシイでは、病的なまでの付和雷同が見られる。
ただの馴れ合いなんかじゃない。馴れ合いなんて言葉で語ると本質が見えないなとはつねづね思ってたが、
それは付和雷同が病気なくらいものすごいから、馴れ合いという言葉では筆舌に尽くしがたいからなんだとようやっと気づいた。
わかりやすい例をあげてみる。
ミクシイをやったことのある人ならよく知っているだろう。
トピ主がトピックを立てると、そのトピック文章をたいていの人はよく読まずに脊髄反射レスをする。
そして、「私もそう思います」「俺も同感」といったレスが続く。
あるいは、「トピ主最低の人間だな」「トピ主は馬鹿」といった誹謗中傷が続く。
いずれの場合にも、ただの馴れ合いなんかじゃないくらいきもいレベルの付和雷同なのである。
自分で考えずに他人の模倣ばかりする日本人の問題点についてはよく指摘されることだが、
その日本人的きもさを濃縮したのがミクシイと言えるんだと思う。
ともかくミクシイのいたるところでそういう過剰な付和雷同が見られる。ニュース日記もそうだ。
2chのレスでもスレの流れというのがあってみんなそれに乗っかるという傾向があるので、
付和雷同と言えなくもないが、ミクシイと根本的に違うのは、スレの主旨から逸れる発言をすれば叩かれるということだ。
ミクシイではトピズレしても修正する人がいないまま、トンチンカンなコメントが続くということが決して珍しくない。
しかも、なぜかみんな同じ内容のコメントを自分の言葉で言い直さないと気が済まないかのように、
同じコメントをくりかえしている。要は自分が語りたいけど彼らはオリジナリティが欠如しているので既出な発言を繰り返すしかないのだ。
見る側としてはたまったものではない。同じことばかり聞かされるハメになる。
そういうところがミクシイのきもさの正体だと最近ようやっと分かってきた。
自分の足で登山するのと、ヘリコプターで上がるのが同じって言う人は
山頂に登るのは山頂の風景を見るためだけではないって事に気が付かない人が多いんだよね。
確かに、山頂の風景が見たいだけなら、ヘリコプターで昇った方が早いし効率的。
自分の足で登った事を、自分なり他人なりに自慢したいという経験や思い出が欲しいなら、自分の足で登るしかない。
もう、価値観と得たい物の差だからどうにもならないなぁと増田を読んで思った。
知識も同じで、より幅広い範囲で応用したければ、原理から深く学ぶしかないし。
とりあえず、派生知識だから結果だけ手っ取り早く知りたいなら結果だけ知っても問題ないし計算機に計算させて問題ない。
ニーズがそもそも違う。と言うことを理解して、適材適所するしかない。
コピペ問題も同じで、とりあえず、やっつけ仕事ならコピペで十分。ただし、信頼性やオリジナリティは犠牲になることも多い。
逆に、オリジナリティや継続的な信頼を得ようと重うと、どうしても、深く掘り下げるしかない。
何がその作品・商売に必要か?要求されている品質はどこか?という事でしかないと思う。
コピペは結局、どこかで、コピペとわかってしまう。しかし、たとえ、有名大学のレポートでも大半がコピペってのと同じで、日本はコピペ大国。
だからこそ、許容されるし、だからこそ、深いベースに基づいたオリジナリティには高い価値が付く。
そういう前提で、コピペで手軽に行くか(信頼方向でハイリスク)か基礎からやるか(時間方向でハイリスク)はやる人間の選択でしかない
とか感想文を書いてみる。
何というか、実際に水泳したことが無い人が、大量に解説書を読んでウンチクたれているような。
応用を効かせて、独自の視点から適用してみせる様なオリジナリティを出しにくい分野だから、しょうが無いけど。
すっごく横だけど。
美大の先生はほとんどが「自分のやりたいようにやれ」って言いますよ?
特に純芸術系では。だってそれ以外に価値がないもの。基礎がやりたいっていえば基礎から教えてくれる先生もいるけども。
「基礎?なにそれ?出来なきゃ出来ないでオリジナルを生み出すパワーがなきゃアーティストになんかなれるかよ」
先生がアーティストな場合がほとんどだから、心の中ではこんな感じじゃないかな。
デザインには最低必要なご作法とか技術とかがあるけどね。でも「オリジナリティ」勝負でしょ。
良い例じゃないかも知れないけど、サイバラさんはデビュー前から「絵が下手でも絶対売れるようになってやる」みたいなことを考えてたってさ。
http://anond.hatelabo.jp/20090305071313
屋台といっても
祭くさい嘘屋台じゃなく
売れなかったら死ぬ
といった勢いのそれ
そういうの見たいんです
ほとばしるオリジナリティ
運試しとは違う
昼は会社勤めのデザイン、副業で、似た価格のWebやってます。
キャンペーン1Pのデザイン~コーディングで3.5~4万くらい。
だけど「トップページで5万」は厳しいなあ。
・文言、素材はFIXしたものを受け取り、制作開始後の変更なし
・デザインはおおまかなイメージ希望をきくだけのおまかせ一発提案で修正なし(2案提案なら+1.5万)
・キャンペーンタイトルに凝った画像+ちょっと気のきいたh2見出しデザイン
トップってことは、ロゴ回りやナビゲーションのパーツがすごくあるし
一発OKってことはないだろうし
納品したと思った後で直せっていわれる可能性も高いだろうし…
しかし、多くの金を払わない代わりに、納期やサポートの面で融通を利かせている。
特に、ディレクターの俺が事細かに仕様書を作成し、参考サイトや時には参考デザインを提示する。
だから、全く1から作るよりも「簡単」なはずなんだ。
自分はこういうディレクション、かえってやりにくくて困ります。
あちこちの参考サイトを組み合わせて1つの統一感のあるものにするのって
自分で自由にやらせてもらうのよりずっと面倒です。
しかも、参考先は調整に調整を重ねて作った何百万何千万のレベルのサイトの場合
そのレベルで期待されてると思うと苦しいしムカつくし
細かくあれをマネこれをマネとかやっても、やっぱいいものは出来ない。
デザイナー側で咀嚼して、今回のサイトはこんなコンセプト・方向性ですって
オリジナリティがあるところまでいかないと。
(トラバ先間違えてたので再投稿)
「石畳チョコ。意外と簡単なんだよ」
この製菓会社はそもそも、「バレンタインにチョコレートを」を最初に言い出した会社だ(多分)
この時期、庶民的なスーパーから一流百貨店まで、チョコ菓子の材料・道具や一流メーカのチョコレート等の特設売り場が設けられ、幅広い年齢層の女性たちが真剣な目で商品を吟味している。
特に、学校帰りの女子高生が、製菓材料やラッピング材料をあれやこれやと手にとって較べている姿は本当にいじらしく可愛らしい。
やっぱり、大事な人(異性とは限らず、仲良しの友人等)には、手作り・自作ラッピングのチョコレートをあげたくなるのだろう。
ところで、新井理恵の四コマ漫画にも描かれているように、チョコレート作りというのは結構難しいのだ。テンパリングを失敗するとチョコレートがボソボソになって死亡したりとか、カワイイ動物(パンダ等)の形にするつもりだったのが、どうみても怪物(なまはげ系)になってしまったりとか。
キレイな文字をチョコペンで書こうとしたら、ダイイングメッセージみたいになって泣きそう…みたいな経験をしたことのある人も、少なくないと思う。
そして毎年思うのだ。「バレンタインにはチョコとか…誰が最初に言い出したんだっ!っていうかクソ○○(製菓会社名)めっ!」
そんな女子達の心のよりどころ。それが「石畳チョコ」。ガナッシュとか、生チョコとか呼ばれてるやつだ。
これは、材料はシンプル、工程が少ない、洋酒やスパイスを利用すれば、オリジナリティのある作品が手軽に出来る。しかもズブのド素人が四苦八苦してテンパリング→成形して作ったチョコより、遥かに口どけが良く、旨い。
最後の切り分けさえ抜かりなくすれば、ある程度高級感のある、美しい作品が出来る。
何も知らない貰い手が箱を開けてみると
「わぁ、こんなキレイで上品なチョコレート、ホントに君が手作りしたの!?すげえ!」
となる事うけあい。これでとりあえず「お菓子作り上手の器用な子」の称号ゲット。
という訳で、石畳チョコは長い間、女子達の最後の切り札だったのだ。
なのに今年。
石畳チョコが「意外と簡単」だという事をバラしやがった。
全国ネットである以上、不特定多数のチョコの貰い手が見ている訳で。
去年までは喜んで貰えた石畳チョコを渡しても「あ、CMで意外と簡単って言ってたやつ…」と思われちゃうわけで!
ホント今年どうすればいいのさ、っていうか○○(製菓会社名)どうしてくれよう…、って感じな訳で!
いや、すいません。これ、本当に私の今の正直な気持ちです。
全国のあんまり器用じゃない女子の皆さん。環境は違えど立場は同じ。
明日、一緒に頑張りましょうね。ちなみに私は明日、ガトーショコラにデコレーションというギリギリ無難そうなルートを行きます。
皆さんにいいフラグが立ちますように!
ふうむ。確かにだいぶ影響を受けていますね。血管などのシーンはこのあたりを参考にしたのでしょう。
それ以前にディスコっぽい雰囲気もパロディとしてふんだんに取り込んであるし、
まぁアニオタが怒る必要はないでしょ。
MadonnaのGet togetherのPVを作った人、またはその著作権を持ってる人は怒っていいと思うけど。
貴方のパクリだという言い分はまぁ言い方が悪い部分はあれど概ね間違っていないと思います。
が、DISCOTHEQUEの凄いと言われている部分は、あのダンスをアニメへとキレイに落とし込んでいるところであって、
DISCOTHEQUEを凄いと思っている人とは着眼点が全く違うと言っていいと思います。
作画アニメの良さに反応できないのも、CGをやってらっしゃるところから納得できるというものです。
それを気づけないままに馬鹿というのはやめた方がいいですよ。
DISCOTHEQUEを好きな人からすれば、「肝心なところが見えていない」といって苦笑されるだけです。
なるほど。
楽天的に考えるためのお答えをいくつか返しておくと
・就活ははったりで意外とのりきれる。その気になれば。「難しい研究内容にとりくんでいるため、現時点ではわかりやすい成果は見えていませんが、将来的には周りの連中なんざ、勝負にならないほど重要な研究をしてますぜ」的な。あとは、研究内容とか、就活にとっては意外とどうでもいいことも多いからね。そんなに気を重くする必要はないと思われ。
・基本的に、「自分に能力がない」と考え始めるのは、負のサイクルに陥って、憂鬱スパイラルなので、考え方をかえるのが無難。研究というのは、研究者の能力だけじゃなくて、研究課題の難易度や、研究している環境、タイミングといった外部要因もかなり絡むので、あなたに能力がないかどうかは切り離して考えたほうがよい。難しい研究内容に取り組むと、どんな人でも時間もかかるし、どうしようもない。そこで、課題を「解ける課題」に設定しなおす能力が研究者としての素質だったりするけれど、まあそれは修士課程なので、そこまで無くても仕方がない。修士課程ぐらいで、課題設定がさっくりすすむような研究をしている人というのは、基本的に、課題設定がしやすい枠組みがすでにできあがっている分野で勝負しているだけなので、別にそこで課題設定ができるのはそんなに偉いことではない。逆に課題設定がしにくい分野で、どう課題設定/研究計画を創るか、ということを考えることのほうが、ある意味ではよっぽど研究とは何か、ということの本質に関わる訓練をしていると言えなくはない。これは就活のときにも、おそらく重要で「すぐに答えが出るような問題に取り組んで、「作業」として研究をするのではなく、どうやってオリジナリティのある課題を、ほとんど何もないところからものにしていくことができるのか、ということに取り組みたいと思ってやってきました。そのことのほうが、よっぽどおもしろいし、よっぽど得難い試行錯誤だと思っています。もちろん、成果がでなければ、ただの若造のたわごとになってしまいますが、どうにかして、難しい分野で成果を出すための方法を模索していきたいと思っています。こうした経験は、研究だけでなく今後の多くの仕事において活かせるだろうとも思っています。」とか言えばよい。
まあ、自分が難しい分野にとりくんでいるのだ、という誇りを持てれば無問題。
それが難しいのであれば、研究課題を変えて、教授の指導してくれそうなテーマとかで無難に変更したら、問題は解決すると思われ。
自分で課題設定するのは大変だからね。修士一年のはじめ数ヶ月なんかで、自分の能力に結論だすのははやすぎる。自分の能力に関しては、もっと楽観的になっていいと思うよ。