2024-10-01

セフレという概念エロくて好きだという話

セフレセックスフレンドという概念が好きだ。それも、親しい友達からセックスもするというセフレ関係ではなく、セックスだけを目的とした体だけのセフレ関係エロくて好きだ。

単に体を重ね合うだけの人間関係だけだというのに、そこに淫らで湿ったニュアンスを、背徳香り勝手に感じてしまう。

最近はそんなセフレを題材にした物語を好んでいる。かつては白馬王子様を信じていたのに、今は性欲を感じたらマチアプで行きずりの男と会って発散させているOL初恋男の子引っ越しで別れ離れになってしまい、寂しさの中で優しくしてくれた年上の男と初体験をしてそのままセフレ関係になるも、処女をそんな男に捧げてしまたことを薄っすらと悔やみ続ける女の子初恋相手と再会してしまう。そんなストーリーが大好きだ。

女性向けに多い「セフレから純愛」(先に体の関係から始まって最後には恋人になるやつ。だいたい元から男がヒロインに惚れており、セフレ手段場合が多い【独自調査】)も大好物なのではあるが、やはり最後まで体だけの関係に割り切るやつが一番滾る。割り切っているほど、性欲の発散だけを目的にしているのが強調されて良い。

なぜそんなにもセフレ物に惹かれるのか。一言で言うならばそれが許されない・あり得ない存在と思っているからだ。

セフレどころか、セにもとんと縁がない穏やか過ぎる生活を送ってきたので、過剰にセックスという概念に憧れを持ち、それに特化したセフレという人間関係に敏感に反応しているだけだとは自分でも分かっている。ただ、内面化した己の性規範、性行為は大切な人としかしてはならない特別行為であるという常識が、セックスをするだけの関係にNOを突きつけるのだ。しかし、だからエロいのだ。

そう、問題は己の潔癖で貞淑な性規範なのだ論理的に考えてみると、「ムラムラしているかセフレと会って、一緒に汗を流してスッキリする」と「ムラムラしているか友達と会って、一緒にゲートボールしてスッキリする」は全て「友人と体を動かしてスッキリする」という共通構造を持つのにも関わらず、勝手に前者にはエロスをそして後者には朴訥さを感じ取ってしまうのだ。棒を穴に挿れて運動するのと、棒で球を打って運動することにどんな違いがあるというのだ。

だが、こうも考えられる。知らないからこそ憧れを持ち続けることが出来る、と。そう、仮にセフレがいることが普通になると、それは日常、すなわち非日常エロ)ではない。セフレに会ってセックスするのは、友達と一緒にゲートボールするのと同じ感慨しか産まなくなるだろう。「ない」から「ある」のだ。「許されない」と思うからエロスがある」のだ。

結論。ありがとー、自分の頑強な性規範。きみのおかげで今日セフレ物のエロを楽しむことが出来るよー。サンキュ〜。

  • 今時「OL」とか「処女を捧げる」とかものすごい加齢臭を感じるんだが

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