2024-08-18

言葉に変換された感覚ってあまりにも出来損ないすぎる。

もしも人間感覚を正確に言葉に変換出来るのなら、口で言った説明を聞いただけでチャリも一発で乗れるはず。実際はコツ程度にしかならない。

楽器だって教本読んだだけで弾けるようになるなら世話ない。

料理の味だってそう。その食べ物の魅力が舌の上にありありと浮かぶような描写だなんて思っても、実際に食ったら「思ってたんと違う!」なんて事もザラ。

それは友達感想であっても、その界隈で持て囃される美食家のそれであっても多分変わらない。

ソムリエワインポエムや飯漫画の過剰な演出なら、齟齬が生まれるのもまあ不思議ではないけど。

何たらの風味がどうとか塩味と酸味のバランス感がどうとか価値中立的物言いをしたって、百聞は一見に如かないし百見は一食に如かない。

自然ルールはどうなっているのかという話であれば科学という手法で引き継げるのだろうけど、人の感覚は非常に不出来な形でしか取り出せないし受け渡せない。

それがなんだかもどかしい言葉に限らず。

からこそ、頭の中の感覚に少しでも完全に近い形で輪郭を与えてやりたいという欲求が生まれるのかもしれない。

まあ身体の外に持ち出されて伝達される感覚他人と共有出来ないのは、単に不完全っていうだけでもないんだとは思う。

そもそも人間にも個体差はある訳で、他人感覚を流用出来る事もあれば出来ない事もあるはず。そこが面白さでもあるのかもしれない。

ローティーンかそこらの時期、琴線スラップされるような衝撃の漫画なり映画なり音楽なりに触れる。その刺激を受けて自分の頭の中に漠然と漂う面白さ、かっこよさ、美しさの理想形に気がつく。そんでそれを取り出そうとしてみる。

よし神漫画を描いてやるぜ、最高の一曲を作ってやるぜと息巻くけれど、人間身体を描くのだって覚束ない。メロディーすらも頭の中から取り出せない。

そういう経験は全く珍しいものではないと思う。

そういう欲望を抱いたとて、妥協怠惰にまみれた大半の人間はそれを諦めるんだろうけど。そういうのを追求する生き方厨二病だの何だのと腐して、自分の現状をオトナのまともな生き方なんだと肯定する。それが最初は酸っぱい葡萄的なものでもいつかは本心になってるのかもしれない。そんなもんだと思う。

それでもやっぱり頭の中の最高傑作を取り出してえんだよなあ!

という初期衝動を絶やさず理想形に近づき続ける人は凄いと思うマジで

  • 🐊「恐ろしいものだ…欲とは…」 🐊「オレとて一番手で増田たちと戦っていなかったらどうゆがんでいたかわからん」

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