「事実」に基づいた説明を行うという序文から始まり、第六章まではイスラム教あるいはイスラム教の行ってきた事実を提示しながら、イスラム教におけるコーラン等の一般的な解釈を元に説明する非常にわかりやすい入門であり、大変勉強になった。
第七章「イスラム教徒と共生するために」はそこまでとは全く趣を異にする。第七章の初めにはビジネスや移民流入等でイスラム教徒と関わることが多くなっていくであろうことを述べられ、その際の対応の仕方について、具体的な提案が説明されている。実際、どれも有効とも思われる。
私はこれらの提案に全くの反対である。例えば、(9) 自分は無宗教であるとは言わない。という項目がある。その理由は「イスラム教徒からすれば、宗教を持たない人間、神を信じない人間というのは、人間として全く信頼に値しないと判断される可能性が高いから」とのことである。そのような不寛容に対して、内心を偽ることを強制するのは端的に服従あるいは脅迫ではないのだろうか?本書の文章をそのまま読めば、飯山氏は方便としてそのように提案されていると捉えることもできるし、実際に方便として提案しているのかもしれない。たとえそうであっても、服従であることに変わりはない。
また、日本の常識を押しつけないという節がある。これもその意図はいずれも理解できる。最後に (33) イスラム教徒を安易に日本人と「オンナジ」と思い込まない。と戒めている。一方、途中で、「イスラム教徒は異教徒と親しくなると、高い確率でイスラム教への改宗を促してくる」とある。これはイスラム教徒が異教徒に対して「オンナジ」を強制しているのではないのか。
不寛容に対して、寛容に接することはとてもよく考える必要がある。
最近、地方自治体で宗教的な禁忌を避けるために給食の仕組みを再考するといった報道があった。
そもそも、なぜ特定の宗教に配慮する必要があるのだろうか?例えば、自分自身だけが信じている何らかの信仰を理由に何かができないといった場合、それには配慮すべきなのだろうか?既存宗教に配慮が必要で、個人の信条に配慮が必要でない理由は何か?
そう考えると、飯山氏の提案はただのパワーゲームの結果にしか映らない。実際これらの提案は有効だろう。ただそれは地獄への道への舗装に思える。
実際無宗教と仏教、多神教の間に彼らにとっての違いはあるのだろうか? ユダヤ教やキリスト教は大元が同じ神だしかつては同じ啓典の民として扱っていたわけだけども。
全く違いますが、神に対する冒涜を無知の傘に着て許されるかどうかは知りませんがね。
どうなのでしょうね.確かにイスラム教徒、啓典の民、何からの信仰を持つもの,無宗教くらいの序列はありそうですが、基本的にはイスラム教徒とそれ以外、なのではないでしょうか...
神を信じない人間というのは、人間として全く信頼に値しないと判断される可能性が高いから これはイスラム圏のみならずキリスト教圏でも同じなので、ことさらムスリムだけを論っ...
これはイスラム圏のみならずキリスト教圏でも同じなので、ことさらムスリムだけを論って服従だのどうの言うのは不合理。 単に『イスラム2.0』の感想なので。 君、それ同じこと...