いまさらながら映画 JOKER を見てきた。すごい映画で衝撃を受けた。
そしてラストシーンの解釈について諸説ありそうなんで、自分の考察を書いておく。激しくネタバレ注意。
暴動のシーンと、ラストの精神病院のシーンは、時系列が連続していない。
素直に見ると「暴動後に逮捕されたアーサーが、精神病院に送られた」となるかもしれない。だがそうするとおかしな点がいくつかある。
例えば、アーサーは少なくとも5人を殺している。そんな凶悪犯に手錠をかけただけで、ソーシャルワーカーが1人で会おうとするだろうか。警備が軽すぎる。
また笑い出す病気についてソーシャルワーカーが知らないのもおかしいし、髪の色も緑ではなく黒に戻っている。
時系列が異なるとすると、どう解釈すればよいのだろうか。
ラストの精神病院にいる男を「アーサーでありジョーカーである」とするのは前述の通り不自然だ。「アーサーでもジョーカーでもない」はやや飛躍しすぎだ。
すると「アーサーではないがジョーカーである」とするのが自然だ。つまりそれまでのお話もアーサーの存在も、全てジョーカーの作り話だ。
そもそもジョーカーは嘘つきだ。ダークナイトでも口の怪我の理由を説明していたが、2回説明してどちらも全く違うものだった。どちらかが正しいというよりは、どちらもデタラメだろう。
「アーサーがジョーカーになるまでの物語」も、そうしたデタラメな作り話の1つだったのだ。
全ては作り話と聞いて、なにか裏切られた気がしなかっただろうか。あれだけ感情移入したアーサーの苦難が作り話だなんて、と。
でもそれはおかしい、そもそもこれは映画なのだから。アメコミヒーローものの映画だ。創作に決まってる。それは観る前からわかっていたはずだ。
もちろんそれも作り手の狙いだろう。
だがラストシーンがなくとも十分面白い映画なのに、なぜそんな仕掛けを入れたのだろうか。
フェイクニュースのように、人間の本能の、ある種のバクを突いた攻撃が増えている。煽情的な言葉で怒りや妬みを誘い、人々を誘導するような攻撃が。
そうした感情への訴えが厄介なのは、理性で理解したとしてもなお影響が残ることだ。「人を殺すのは悪いことだ」と理解していても、証券マンを撃った時にスカッとしなかっただろうか。
人は物語さえあればヴィランにも感情移入してしまう。「アーサーは俺達の物語だ」といとも簡単に手玉に取れてしまう。
だが、物語はわかりやすいが、わかりやすいことが真実なのではない。物語で世界を理解したような気分になっていると、ジョーカーにつけこまれてしまう。
今日もまた新しいジョーカー誕生の物語を思いついた。この物語なら、大衆どもは飛びつくだろう。そうして共感を操れば、面白い遊びができそうだ。最高のジョークだ。
思わず笑っていると、目の前でソーシャルワーカーが怪訝そうな顔をしている。こいつを片付けて、そろそろ病院の外に出る頃合いか。
そう、いま、この時が、ジョーカー誕生の瞬間だ。
今はキャラクターとエピソードの時代だからね お気に入りの人間が自分に都合のいい物語を演じれば、みんな嬉々として飛びついて持ち上げ、そいつがどんな態度で何をしようが何とも...