メールの下書きを読んでいたら途中まで書いていたものがあったので上げてみる。
『名前変換至上主義の人は、キャラ×名前やネームレスなどの現状夢ラベルが貼られているものが夢ではないことになるのでは?』という主旨のツイートがあったので、なんとか言語化してみます。
(鍵付アカウントのものなので上記のは本文ママではなく意訳。)
名前変換って言うのは『概念や存在の"名前という極小範囲"を個々人の好きなようにする隙間をつくることにより、読み手側が物語に入り込む大きな余地を残す』ことを可能にしている手法だと、個人的に考えている。
だから、名前変換のない【名前固定】の作品は『夢創作ではない』と私の定義上ではなってしまう。
私は夢を読むときは夢主に感情や思考を合わせていく、潜るように読んでいくタイプで、つまり作中の自分だと何も疑わずに認識出来る名前が作品中に出てくることで、物語の中に容易に入り込むことを可能にしているのだと思う。「これは誰だ」という思考が無いことが重要。
けれど【ネームレス】は、そういった「これは誰だ」思考が発生することが極端に少ない手法だろうので、個人的には夢だと思っている。余地がないがゆえに、余地が発生する。それに何でもかんでも名前を呼ばれたらいいわけじゃないしね。名前呼ばない人もいるし。
また、【キャラ×わたし(生身の人間)】については、小説などの作品を発表しているうえで名前変換という余地がなければ夢ではないのだろうと思う。それは私にとっては【キャラ×その人】なので、夢創作ではなく、その人の恋愛事情といって差し支えないんじゃないかなと。
たまに夢CPと呼ばれたりするけれど、個人的にはその人の恋愛模様なので夢CPというのもなんか違和感ある。
【キャラ×わたし】で、ツイッター上で関係性を匂わせたり日記を書いているのみで、小説などの所謂『創作とされる形態』での発表がない場合は、やはり夢創作ではないと思う。日記型夢創作とかもあるんだろうけど、個人的にはこの場合すこし横に置く。語るなら何を夢創作とするかの定義から開始するべき。
だから、議題とした呟きに対する結論としてはつまらない回答だけれど『物による』。
あとそもそも『名前変換至上主義から考えると、ネームレスは名前がないからラベルが外れる』というのはさすがに暴論じゃないかなー。ラベルが外れる理由がこういう意味じゃなかったらすみません。
以上はあくまで個人的な定義と考えです。変換主義の人の総意では(当たり前だけど)ない。
夢創作として発表する際に、名前変換があった方が自分はその作品を夢創作として読むことが容易になるなぁ、と言うだけの話です。他の方のラベルづけの定義は知らないです。夢創作と夢思考は別の話だと私は考えているので、ここでは一緒にしません。
これで回答になってるのかなってないのかわかんないや。というか自分が質問に該当する人間かどうかもあやふやだし語るべきではなかったかもしれない。おなかすいた。
うんち出た