僕のお母さんは頭が悪い。
僕の家はお父さんのおかげで割と裕福で、そんなお父さんもお母さんを見た目で選んだのか、お母さんも美人だ。
そのおかげでいろんな知識を得るようになった。
お母さんはそれを自分の手柄のように誇った。
小さいながらもこれは愛情でもあるが、自分の達成感と虚栄心を満たすためにやっているのだろうなと感じた。
それがストレスになるので、お母さんと人間のメタ的な視点での会話をしようとしたけど、お母さんは形而上の話は理解できないようだった。
ある日、お母さんの友達が家に遊びに来た時に、僕がkに合格したことに対して頭がいいねと褒めてもらった。
僕は「ありがとうございます。」と答え、次いで「でもお母さんは頭が悪いですが。」と敢えて発言した。
場に気まずい空気が流れたけど、こうでもしないと僕の声はお母さんには届かないと思ったのだ。
その日以降、なぜかお母さんも一緒に勉強するようになった。
高校も碌に行かなかったようだけど、お母さんはMARCHの模試でA判定はとれるようになっていた。
もちろん、僕にとっては大したことの無い結果だったけど、スタートラインを考えるとすごい努力だと思う。
でも、相変わらず自分と他人の感性を分けて考えたり、フランシス・ベーコンの言う、所謂イドラという概念に準ずるものは理解できないのだ。
国語という言語パズルの読解はできても、自分自身を分析し読み解く力は身につかないようだ。
「お母さんは勉強ができるようになったけど、それでも頭が悪いと思う。」
この言葉に対して、どうすればいいのかと問われたけど、僕はどうしようもないと思った。
その頃は大学で発達障害というものを知り、自分で色々調べたが、同じ仕組みで動いていても、
学力テストという、記憶力と反復練習をする根気のみを試すゲームではトップクラスでも、自分の半径3mくらいのことにしか興味を抱かない。
塾の講師に胡散臭さを感じていたが、その胡散臭さはやはり正しかったのだと今になって思う。
頭のいい人に時々出会うと嬉しくなるが、なぜか彼らは不遇な立場であることが多く、もったいないなという思いを抱いた。
いいやつほど早く死ぬというが、若くして死んでしまう患者さんには頭のいい人の割合が多いようにも感じる。
お母さんのような、頭の悪い人が資本という力を得やすい環境の中では、頭のいい人というのは生きづらいのかもしれない。
人間とはなんたるかを考えるとお母さんは果たして人間なのだろうか。
僕にとっては、生物学的な定義をして人間を人間と判断するのは傲慢に思えてしまう。
途中書き。
続き、はよ
大学生とは思えないような幼稚な文章なんだが。
まとめるとこんな感じかな~ ”母親は自分の頭の中や気持ちを理解できていないのではないか 頭がいいならわかってくれるはずなのに とはいえ試験の点数はとれるようだから発達障...
にーとはいいなあw