尾野真千子演じる鏡子さんの「幸せになりたい」という切なる希望が全編から伝わってきて、自分は泣きそうになってしまっている。
人はこんなにも幸せを希う(こいねがう)生き物なんだとまるで他人事のように見ている自分がいて、そのように見ている自分に気づいて暗澹たる気持ちになっている。
私は幼い頃からずっと、幸せになりたいなんて思った事がなかった。
母は幼い私から見て、不幸に生きているようにしか見えなかった。そして母は、自分の不幸の道連れになる人間を心から欲していた。
父は実直ではあったが、在職中は仕事人間で家庭を省みなかった。
家にいるより職場にいる方がいいと言っていたのを覚えている。彼は母の心の世話をに子どもに投げたのだった。
その分稼いではきたが、それは親の金であって、子の金ではない。
私は母親に幸せになってほしかった。自分が犠牲になって母が少しでも楽になるのであればそれで構わないと思った。
私は喜んで母の道連れになった。
いや、喜んでではなかった。私には中学生の頃、母に包丁を向けた記憶がある。
その時母は「刺しなさい」と言ったのだった。
刺せなかった私は、一層自傷行為に走った。
私は大学に進学した。大学まで行かせてもらったのは父親に金があったからだ。
でも私は中高大と全部国立で、親に金を使わせていない自負はあった。
でもそうすると決まって母はがっくりとうなだれ生気をなくすのだった。
私は母をさらに不幸にしている。私は母の寿命を奪い取っている。その罪悪感が私のブレーキとなった。
そして、自分には弟がいた。母が私に対してひどい言葉や嘲笑を浴びせようがどうでもよかったが、弟達に同様のことをするのには我慢ならなかった(暴力もあったのだが、あまりにも辛過ぎて私はそんなことがあったのを二十歳を過ぎるまで「忘れて」いた)。私は弟たちを守らなくてはいけなかった。
私が母にキレたせいで、母がそのうっ憤を弟たちに向けたり、あるいは弟たちに、より依存したりという展開は死んでも嫌だった。
自分の幸せじゃなくて、母の幸せや弟たちの幸せをまず考えなきゃ。幸せになるのは母や弟達であって、自分ではない。
私は幸せになってはいけない。私が幸せになったらその分不幸になる人がいる。
でもブレーキをかけたままではいけないのだと気づいた。本当につい最近のことだ。
いつもニコニコしていてしっかりした人だった。
「誰の許しがあってそんなニコニコしてられると思っているんだ」とドス黒い嫉妬が止まらなかった。
本当に遅ればせながら、幸せになりたいと願っている自分がいる。
母は幼い私に「お前は幸せになってはいけない。なぜなら私は不幸であってお前はその道連れにならなければいけないから」という呪いをかけたのだった。
部下の存在は、私にそれを気づかせてくれた。
呪いを解くために、まだ幼稚園生の頃の自分に向けて「君は幸せになっていいんだよ」と何度も呼びかけている、もはや四十が見え始めた自分がいる。
何て滑稽な図だろう。
もう遅きに失していないか?自分は既に「老害」ではないか?その思いは消えないけれど。
自分はこんなにも「幸せになりたい」と心の底では思っていたのだ。でなければあんな気狂いしそうな嫉妬はしない。
自分はこんなにも「幸せになりたい」という気持ちを「無いもの」にしていたのだ。でなければこの言葉が今の自分にこれほど衝撃を与えるわけがない。
私には漱石の百分の一の才能もないけれど、でも漱石が妻や子へのDVを抑え込めない気持ちを少しはわかってしまう自分が悲しい。