2015-06-18

ゲームが何で俺を気持ちよくしてくれるのかに気付いてしまったのでもうゲームを楽しめない

性格には「ゲームが何で俺を気持ちよくしてくれるのかに気付いてはいたけどいつまでもその事実を完全に受け入れるのに蓋をしていたのがもう限界に来てしまったのでもうゲームを楽しめない」になる。

さっさと話しちゃうけど俺が気づいたゲームが気持よくしてくれる理由、それは「俺が有能だと勘違いさせてくれるから」だ。

よくゲーム作りの基本にユーザーを数秒おきに褒めろ、リアクションを返せってあることから分かるようにゲームの基本は「ユーザー努力肯定的に受け入れること」だ。

これはクソゲーと呼ばれるゲームが「ユーザー努力を踏みにじる要素にあふれている」事からも逆算できる。

たとえばコンボイの謎

見えない攻撃必死に避けて結局死ぬ

必死に避けようとした努力はどこに行ってしまったのか?虚空に消えたのだ。

たとえばひっでぇシナリオRPG

シナリオの続きを早く見たいと徹夜したユーザー努力はどこに消えたのか?虚無へと呑まれたのだ。

そうだ。今更確認するまでもなく俺達がゲームに期待しているのは「努力を認めて褒めてくれること」だ。

こんなことはもうわかっていたし飲み込んでいた。

だがそこから一歩進めた部分が俺にはたまらなく耐えられなかった。

そして少なく見積もって10年以上心のなかで閉じ込め続けていた。

それは俺自信が「相手がたとえゲームでもいいから、俺を褒めまくって、有能だと勘違いさせて欲しい」と考えていることだ。

ゲームときにひたすら褒められたがっている。機械相手に承認を求めている。惨めとしか言い様がない。

風俗赤ちゃんプレイしてマンママンマ言っておっぱい吸いながら頭撫でられて射精してる絵に書いたような救えないオッサンと根っこの部分は一緒だ。

現実で満たされない感情ゲームに求めまくっている。

現実で満たすための努力をするための時間エネルギーゲームに注ぎこむことで即物的に満たされようとして、結局現実での満たされなさを悪化させ続けている。

馬鹿もいい所だ。

現実から逃避するのも少しならいい、だけど俺はあまりにも長い時間現実から離れすぎていた。

子供の頃の記憶の大部分はゲームをしていたことだ。

学校で虐められたり、体育のチーム分けで鼻つまみ者にされたり、何故か九九が頭に入らず池沼みたいな奴と居残りさせられたり、そういった辛い記憶の大部分を捨て去った結果残ったのはゲームをしていたことだけ。

何をやっていたんだろうか俺は。

現実で認められるように努力していれば、気持よく慣れて辛い目にも合わずに済んだのに。一石二鳥ベスト選択肢を何故選ばなかったのか。

そんな人生負債の根源にあるのが俺のこの「甘えたがり」だ。

その相手に人間を選ばなかったことは精神的な歪みだ。だが人様に晒す無様さが少しは減ったのだからマシだったのかも知れない。

それでも機械相手に褒めてくだちゃ―いし続けてきた人生のクソったれさは今更ごまかしようもない。

ある日俺はこの事実を遂に自分で認めてしまった。

それから半年ほどたった。

今はもうゲームを楽しめなくなっている。

全てがバカバカしいのだ。

いや、ゲームは素晴らしいままなのだ

ただそれを受け取る側の自分が変わりすぎた。

心のアンテナゲーム面白いという電波受診するたびに苦痛が走るのだ。

何故俺はゲームに逃げているのだと。

呪いである

現実で満たされるまで現実逃避では全く満たされなくなる呪い

それを自分自分にかけてしまったらしい。

苦しい。

助けてくれ・

  • ゲーム以外に楽しいこと見つければいいんじゃない? 他人に助けてもらおうと思っている限り、助けられることは無いと思う。 自分で助からないと…ね

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