思い返してみれば小中高大学社会人と、どこでも「もったいない奴」と言われてきた。
態度の良い優等生ではなかったし、単にお前の態度が気にくわないという意味だと思っていた。それでおおよそあってるだろう。
でも最近、態度が気にくわない以外にも、理由があるんじゃないかと気がついた。
というのも、どうも私以外の多くの人は、人生=苦行とは思っていないらしい。私にとっては驚きである。
人生とは苦行だ。死ぬまで耐え抜くレース。かといって死ぬのは怖い。子供の頃からずっとそう考えてきた。
別にとりわけ何かに困ってるわけじゃない。衣食住の心配をしたりもしてない。今、何が苦行でそんなにつらいのか、私もよく知らない。私よりつらい人なんていくらでも居る。
それでも、私にとっては当たり前の価値観で、息を吸うのと同じくらい自然なことだ。
だから、私にとって、人生の目標は、如何に苦痛を減らすかにある。
私は千の喜びのために、一の苦痛が必要ならば、何一つ喜びは要らないから、何も苦痛がない方が良いと思っている。
でも、現実には、何一つ喜びがなくても、苦痛は平気で千も万もやってくる。苦痛を回避する術を身につけなくてはならない。
従って、私にとって「能力」や「地位」は苦痛を回避するための術であり、決して現状の改善や向上のために使われる物ではない。
余計な苦痛を呼び込むなら、たとえ人がどんなに良いと言おうと、無価値どころか有害である。
小学生の頃塾に通って、中学校受験したのは、英語が得意になるとは思えなかったから、高校受験をしたくなかったからである。
いわゆる高学歴をわざわざ手にしたのは、あるのとないのでは障害の差が大きいからである。
高学歴のくせに大企業を一つも受けず(受けたところで受かったかは知らないが)、ゆるそうな中堅企業しか受けなかったのは、出世競争とか参加したくないからである。
最低限、技術の勉強とかしてるのは、ポストを完全に失うとまずいからである。
仕事を早めに終わらすのは、残業したくないし、有休を全部使い切りたいからである。
休日どこも出かけず、ひたすら寝てるだけなのは、疲れるからである。
疲れるのに仕事帰りにジムに行くのは、体力付けとかないとしんどいからである。
彼女がいたことないのも、頑張って努力して傷つくのが嫌だからである。仮に出来たとしても、つるんで疲れるのが嫌だからである。
SNSだとか、LINEをやっていないのは、そういうのでいちいち疲労するのが嫌だからである。別に情強気取ってるわけではない。
それでもコミュ障とまで言われない様に頑張ってるのは、本当にコミュ障になってしまったら、生きづらいのが目に見えているからである。
それが、人生は苦行だけじゃないと思っている周りの人から見ると、見てて気にくわないと思わせてしまうのかも知れない。
あぁ、それと、もう一つ、私はお節介ともよく言われる。
私はいい人でありたいと思っている。お天道様のしたを歩けと教えられたから。
私にとっていい人とは、苦痛を与えない人であり、苦痛をできる限り取り除いてくれる人である。
結局、これも同じ「人生=苦行」が行動原因になっているだけである。
人生は苦行でないと思ってる人には、やっぱり不快に見えるのだろう。
無駄に長くなった。ここまで読んでくれてありがとう。(はてな記法というのはよく分からんな。)
別にこれを書いて、誰かに読んでもらってどうこうというわけでもない。
なので、落ちもまとめも特にないが、何となく新鮮だったので、形にしてみたくなったんだ。
でも、こういう風に考えてる人って、私以外にもいっぱい要ると思うんだけどな。