2013-06-15

殺人事件で物的証拠も見つかって確実に犯人だといえる人間情状酌量しようとする左翼

彼らは感情論のもとに殺人犯を人道的に守ろうとする。

しかし、そもそも人一人の生命危険晒し、また異常にもその生命を断ち、その人が歩んできた人生を冷酷かつ残忍に否定した殺人犯に対して

助けたいと考える左翼精神状態は異常だと言いたい。

人を殺した人間精神状態は確かに異常だが、殺してからマスコミ過熱報道されてから、ようやく神経衰弱に陥る犯人は至って正常だ。

何故ならば、殺人を犯す段階で犯人精神状態は正常だからだ。

犯した後、精神疾患を患うのは普通のことであり、これを左翼勘違いしている。

まだある。

人を殺した人間極刑は当然だ。

というのも、殺人を犯した人間が罪を償って100%更生できる人間はそのうち数人もいない。必ず社会的制裁を受け、心身共に衰弱して再犯を重ねかねないからだ。

また、数年ないし数十年後に釈放して果して完全に更生できるのか、100人殺人犯のうち時間が解決するのは何人なのか?という当然の疑問について

左翼は全く反論できないでいる。

そこに至ってもまだ情状酌量提唱する彼らこそ異常だ。

しかし、彼らは感情論で生きている。

なので、死刑に対して理論的でない。これが左翼だ。

たとえば、オウム真理教の一連の事件に伴う坂本弁護士一家殺害事件では、当時死刑廃止を唱える急先鋒だった自由法曹団が、一時的とはい死刑賛成に回った事は見逃せない。

左翼が唱える殺人犯への情状酌量は結局他人事であるからそのように考えてしまうのかもしれない。

身内が痛い目に遭うと初めて理屈抜きに死刑に賛成するのだ。

ということは、死刑廃止論者というのは、常に自分の事にしか関心を持たず他人に対して無関心、ということだ。

すなわち、殺人犯人を死刑にしない事は彼らの、自己を誇るステータスないしポテンシャルの一つ、実績を作るための手段にすぎないのだ。

たとえば、コーヒー好きな人ブランドコーヒーを買い漁るが、ただ単にステータスが欲しい人はスターバックスを利用するものの、コーヒー自体には無関心だ。

そこを利用する事に価値を見出すのだ。

同様に左翼は、殺人犯死刑にしないことが彼らのステータスになる。

から死刑に反対するのだ。

殺人の物的証拠もあり、100%確実の真犯人に対して死刑求刑する人に抗議を行う左翼は、自己愛に塗れているということだ。

情状酌量をするのに感情論を押し出すのは、理屈では通用しない事を知っており、彼らは専門性では死刑回避できないからと、

第三者の感受性に訴えるのだ。

そうすれば、確実とまではいかないまでも、殺人犯人を死刑にする事を防げる可能性は残るし、自身の求める理想に近付けるのだ。

そこには被害者やその遺族への憐みは殆ど全く存在しない。

その意味において、左翼殺人犯以上に冷酷かつ残忍であり、目的のためであれば遺族が悲しもうが被害者が浮かばれなかろうが関係ない。

ただ、己の美徳のために行動するという、正に精神疾患を患った人間だということだ。

こういう相手に理屈は通じない。

黙って刑を執行するのみだ。

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