はてなキーワード: 行為規範とは
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient/61/1/61_74_78/_article/-char/ja
本書は,クルアーンとイスラム法の論理を解説しながら,イスラム教の本来的な教義が,「イスラム国」をはじめとする「過激派」の活動の内在的要因であることを示すものである。
著者によれば,「イスラム国」の掲げる理想が「イスラム教徒全員にとっての理想」(4頁)であることは,イスラム教の教義を「正しく」理解したのであれば当然の帰結として導き出されるという。
イスラム教の「異質性」,「対話不可能性」を示しながら,著者は,楽観的な態度で「イスラム教徒との共存」を可能と考える日本人に警鐘を鳴らしている。
本書の最大の特徴は,イスラム法の理論に依拠して議論を展開する点にある。
著者は,イスラム教の教義とイスラム教徒による「テロ」や「暴力」との連関の有無を論じるためには,イスラム法学をはじめとするイスラム教の理論的枠組みに言及することが不可欠であることを十分に強調した上で(6–7頁),イスラム教の「論理」を考察の中心に据えるスタイルを全体を通して貫いている。
著者の言うように,イスラム教の行為規範の主だった問題はイスラム法学の中で論じられる。
したがって,イスラム教徒の行動の宗教的背景を説明する際にイスラム法の知識が求められるという著者の主張は極めて妥当である。
この方針は,本書に高い画期性を与えていると評することができる。
ただし,いくつか問題点も指摘できる。
(略)
第一の問題点は、著者がイスラム法学の諸理論について正確な理解を欠いていることである
(略)
第二の問題点は,著者の(イスラム教以外の宗教を含む)宗教全般についての先入観と無理解である
(略)
第三の問題点は,本書の全体的な論の進め方・レトリックについてである。
(略)
本書は,イスラム教徒──特に「過激派」──の思想・行動とイスラム教の本来的教義との連関をイスラム法の論理に依拠して論じようとしている。
このこと自体は,法学や神学への言及なしに「過激派」とイスラム教の教義の(無)関係性を説明しようと試みるその他の一般書と一線を画す,極めて正当な方針と言える。
そのため,イスラム法学の知識,クルアーン解釈(tafsīr)の知識,昨今の「過激派」と「穏健派」の解釈の異同についての知識等を備えたうえで注意深く読まなければ,イスラム教についての誤った理解をもたらす可能性が高いと言わざるを得ない。
「法は倫理の最低限」というように、反倫理的な行為を何でも法規制すべきではない反面、倫理的な行為規範としては合法性を基準とする場合よりも高いものが要求される、ということ自体は何らおかしくないと思います。むしろ法と倫理の峻別は多くの場合表現規制に抗する論拠となる考え方かと。
例えば小学校の教員が用務員に格下げされて、立場が弱くなったのに乗じた児童から侮辱を受けるといった話は、今でもジャンプで書いてよいのか。書いてよくないなら法規制すべきなのか。妥当な線は、書いてよくないが法規制すべきでもない、ジャンプの方で気をつけるべきだ、というところではないか。
用務員の件は昔ジャンプの「燃える!お兄さん」という漫画で実際に起こったことで、抗議を受けてジャンプが回収にまでなった(俺は当時読んだ)。抗議した側は抗議などすべきではなかったし、ジャンプは断固として突っぱねるべきだったのだろうか。そういう極端な見解もあり得るが、妥当とは思えない。
このように、差別的その他の理由で表現を批判する側が、抗議等により表現者側の倫理的判断に訴えてそのような表現をやめてもらおうとすること一般を否定するのは筋が悪そうである。結局、批判側の言い分にどこまで理があるか、抗議行動は行き過ぎでないか(脅迫等は論外)といった個別の判断だろう。
「ピンク・レディー事件最高裁判決 ~著名人の写真利用とパブリシティ権を考える」
https://www.kottolaw.com/column/000371.html
ブログを見ていたらパブリシティ権の判決が紹介されているのを見たので、弁護士の解説をまずは読んだ。
そして、本判決は、顧客吸引力を有する者の肖像等の無断使用であっても、正当な表現行為等として受忍されるべき場合もあると判示した上で、具体的には「専ら肖像等の有する顧客吸引力の利用を目的とするといえる場合に」違法なパブリシティ権侵害となるとの判断基準を判示しました。
また、「専ら肖像等の有する顧客吸引力の利用を目的とするといえる場合」として、以下の三類型*が挙げられました。
補足意見とあわせて読むと、本判決の判断基準により、肖像等の利用がパブリシティ権侵害を構成するケースは、相当程度限定されるよう理解されます。
商業活動としての報道等全般がパブリシティ権侵害と判断されるべきでないことは当然として、商業活動であるだけでパブリシティ権侵害を肯定する要素として重視されるような、曖昧ないし非限定的な判断基準が採用されては、肖像等の利用を含む表現行為が過度に委縮しかねないように思われます。