2022-05-08

花束みたいな恋をした』をみたよ

昨日アマプラ会員向けに配信レンタルが安くなるセールがやっていてその中に『花束みたいな恋をした』が入っていた。

普段ならこの映画宣伝の仕方とか、ぱっと見の内容を想像するに見ないようなジャンル映画だなと思っていたんだけど、

以前この映画感想がはてぶでもホッテントリしてたりして、みたいなと思っていたのでこれ幸いと思い視聴した。

で、まあ、すごく面白かった。終始どこか痛々しさを感じっぱなしで、共感性羞恥?というやつをくすぐられ続けた。

ああ、自分もこうだったなと。主人公の二人の麦くんと絹ちゃんが、所在のなさを、自己存在価値をなんとか感じるために、

サブカルチャー(この表現が正しいのかはわからないけれど)で壁を築き、自分感受性の高い特別人間でありたいとするが、

同しようもない薄っぺらさが漂う。それは例えば、天竺鼠ライブを好きなはずなのに当日に放り出したり、二人とも作家固有名詞を羅列する

だけで、内容に関する話がなく、そうではなくてまるでその作家作品固有名詞いかに多く知っているか知識価値があるかのような二人の

やり取りの悲しさ。そうすることでなんとか自分たちを特別人間であろうとし、周囲の人間をある種見下す特権意識の現れ。

じゃんけんに関するエピソードで、グーよりパーのほうが強いのは納得いかないと言った一度は誰でも思うような事をなにか特別なことのようにことさら感じたり、

電車に揺られる」といったありふれた陳腐表現なのに、そうした表現使用することで自分たちは違うんだ、特別なんだと思いたい若さゆえの痛々しさ。

また、終電を逃し居酒屋で二人でいるとき、途中から入ってきた麦くんの同級生に対する絹ちゃんのと拍子のない態度や、麦くんのなんとなくのいけてなさ、

そこはかとなく、周囲から浮いている、居場所のなさを暗示しているように感じる。

そういったものがこれでもかと描写され、終始心をえぐられた。

麦くんが就職し、働き始め、忙しさから次第に、かつて好きだったものへの興味を失い、頭に入ってこなくなる。パズドラしかできなくなる。

ああ、そうだよなっとついつい共感してしまう。生きていくことだけに目を奪われ、自分の現状への焦りや、未来への焦燥感不安が募り、かつて大好きだった作品が頭に入ってこなくなる。

いやそもそもそこまで好きではなかったのかもしれない。麦くんの書いていたイラスト所詮イラスト屋で代替可能レベルのものなのだ

一方で昔のまま変わらないであろうとする絹ちゃんに麦くんは苛立ちをつのらせすれ違っていく。

麦くんが麦くんなりに「大人」になったように、絹ちゃんは絹ちゃんなりに「大人」になって行くのであって、これはどちらが現実的だとかそういう話ではない。

そうして二人はすれ違っていくわけだが、最後に二人でカフェで別れ話をするシーンには、かつての自分たちを彷彿とさせる若いカップルを見て

涙を流す。ああ、自分たちは特別ではなくどこにでもいる代替可能botしかないんだなと二人はそこでひしひしと感じる。

麦くんの言うように、彼らにも子供を作ってワンボックスカー乗って、ディズニーランドへ行くそういったよくある様な家庭を築けたかも知れない。

しかし絹ちゃんは言う、いや、そうじゃないんだと。そういうのじゃないでしょと。

全編を通して自分自身の若い頃の痛々しさ、未熟さ、滑稽さ、いやらしさを感じさせられ、本当にグサグサきた。

でも、麦くんは絹ちゃんがいただけ良かったなと。自分には何にもなくって、自我必死に保つための選民意識で壁を作り、

もうどうしようもないぐらい取り返しのつかないとこまで来てしまい、本当に薄っぺら代替可能botしかないんだなと。

で、ホッテントリに入っていたこ増田を思い出した。

https://anond.hatelabo.jp/20220505163243

かに自分ももうどうしたらいいんだろう。仕事に興味もないし、パートナー家族もいない。

好きだった、小説映画マンガも頭になかなか入ってくなくなって、スマホゲームすらすぐに飽きて、twitterやはてぶの記事を眺めるくらい。

本当になんにもないんだよ。

  • そういう共感できるけど経験がない人間のためにこういうフィクションがあるんでしょ 僕たちは空白の思い出をフィクションで埋めればいい

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん