2014-03-27

動物トイレ

保育園では、トイレ時間が決められていました。

朝会のあと、給食のあとお昼寝の前、お昼寝のあと、その三回だけ。

園児数十人が廊下まで一列に並べられ、トイレの中で男の子は小便器に、女の子は個室へ別れていきました。

それ以外の時間尿意を催したとして、先生にそれを告げて集団を離れることは、僕にとって、とても考えられない課題でした。

幸い、その周期に馴染むことができていたためか、おもらしをした記憶はありません。


お昼寝の時間には、しばしばおねしょをする子がいました。

それを見ながら、あれは恥ずかしいことなのだと覚えました。

幸い、僕におねしょ癖はなかったため、それについては多数派の目をしていました。

皆と違うということが、どれほど目立ち、恥ずかしいことなのかということを知りました。

ただ、僕にも皆と違うある特徴があって、自分普通ではないということは自覚していました。



小学校に入って、休み時間には自由にトイレに行って良いことを知りました。

しかし、授業時間中に、先生にそれを告げて行くということは、もちろんできないことでした。

今まではトイレ時間を決められていたせいか、自分尿意の間隔、その時間感覚が僕にはよくわかっていませんでした。

帰りの会で、全員で「さようなら」と挨拶をした瞬間、ついに限界が来て漏らしてしまったことがあります

学校でお漏らしをしたのは、小学一年生の時、その一度限りです。

普通の子ではなかったため元々目をつけられていた僕ですから、床の掃除をさせられた後、長いあいだ、教務机をはさんで居残らされました。

理由を訊かれていたのか、反省を促したかったのか、内容はよく覚えていません。

ただ、自分感覚がわからず、授業中に行くこともできない子供だったため、僕にとっては仕方のないことだったのです。

何を話すわけにもいかず、ただ先生の気持ちが収まるのを待つほかありませんでした。


それからというもの、僕は排尿の間隔を決めました。

時間。この呪縛は今も続いています

外出をする時はいつもそれが頭にあります

それを越えるととても不安になります



中学校に入り、基本的なことは変わりませんでした。

事件が起きたのは二年生のときです。

休み。僕が堂々とせずに排尿しようとしたのを面白く思ったのでしょうか。

いつも僕に何かしらちょっかいをかけていた二人が、ジャージズボンを下ろそうとする、

出て行ったと見せかけて素早く戻ってきては陰部を見ようとする、などの行動を繰り返し始めました。

その騒ぎは遊びのように他の男子にも伝染し、数の暴力となって僕の排尿時間を奪いました。

それは昼休み中続き、五時間目をなんとか乗り切り事なきを得たと記憶しています

一人、止めようとしてくれた男子がいたように思いますが、いつだって少ない声は何も変えられないのです。

おそらく、それはいじめなどではないのでしょう。

彼らからすれば、全ては「ノリ」なのです。「空気」なのです。「遊び」なのです。

こちらから見れば、どんな罪が適用されるのかはわかりませんが、限りなく犯罪に近い迷惑行為です。

逮捕が可能になる14歳という年齢の直前の時期ですから、その線引きを恨むしかありませんでした。

当時の担任はそういったことに敏感な先生で、すぐに対応をとってくれました。

主犯格の二人と面会し謝罪をされる場を設けられました。

余程恵まれた人生を送ってきた人でなければ、このことにほぼなんの意味もないことは、わかるでしょう。

彼らが謝罪の心を持っていようとなかろうと、僕が彼らを心から許そうと許すまいと、何も変わらないのです。

もちろん、今となっては彼ら個人に対して強い怒りなどの執着はありません。

起こってしまったこと以外は、どうでもよいことなのです。


その影響がもたらしたものなのか、確証はありませんが、

それからの僕は、公共の場で排尿することがひどく苦手になってしまいました。

小便器に対面しチャックを下ろしても、同じトイレの中に人がいると、なかなか尿が尿道を伝わってこようとしないのです。

後ろになど並ばれては、とてもではないですがそのプレッシャー尋常でなく辛いです

時間の長さが不審に思われることが嫌で、排尿を終えたふりをして、出直したことも度々あります

そのストレスを避けるため、個室に入ることもありましたが、やはり学校などのお互いを知られている可能性のある場所では使えない手段です。

自動車学校などはとても嫌でした。

普通学校と違い教官も同じトイレを使うので、集団で、おじさん特有のあのノリで後ろに並ばれると、とても厄介です。


お蔭様で、学生ではなくなった今ではそういったストレスを感じることもなくなり、その感覚を忘れつつあります


同時に、いじめ便宜上日本特有のこの表現を使う)という感覚を忘れかけていた自分警鐘を鳴らしました。

喉元過ぎれば熱さ忘れる。

結局、当事者しかからない、根本的には解決できない問題ですが、

歴史は繰り返してほしくないと、心より思っております



国民というものは知らず知らずのうちに、道路のように均されています

秀でたものは利用し、しかし真に優れたものは頭を打たれ、平らにされ、

ひどく劣り凹んだ部分があると埋め立てられようとします。地盤ことなど微塵も考えずに。


年齢と住所だけで区別され、管理され、数十もの個体を密閉空間に放り込むことは、果たして効率以外に何の利点があるのでしょうか。

このように書くと、やはり人間とは動物ではありませんか?


私達はいつも、心を殺して生きています

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